002 д娘 in I2Ø$3庭(前)

 翌朝、血を洗い落としたハンカチを持って、再び例の柵を飛び越えた。


 昨日は呆然と歩いた薔薇の垣根を、今度は己の意志で突き進む。



 直線的で威風堂々とした屋敷と、広く続く薔薇の庭。薄い朝もやの隙間に彼女の姿を見つけ、リヒトは胸を高鳴らせた。



 落ち着け、大丈夫と言い聞かせ、前もって考えておいた言葉を反芻する。おはよう、会えて良かった、昨日借りたハンカチを返しに来たんだ──想像だけで胸がはちきれそうだ。



 服の上から心臓を押さえてなだめようと試みていると、「あれ?」という鈴を転がしたような高い声を聞きつけた。事前の努力もむなしく、どきどきと心臓が踊る。条件反射というよりも、もうほとんど病気のようだ。



「あなたは……」


「おはよう。昨日はどうもありがとう。これ、返しに来たんだ」



 自分でも驚くほどすんなりと声が出た。


 少女は今日も、きょとんとしている。



「そのために、わざわざ柵を越えてきたの?」


「借りたものはきちんと返せって躾けられているんだ。うちの父はおっかなくてね」



 おどけたように肩をすくめて見せると、彼女の唇が柔らかな曲線を描いた。また見たいと思っていた笑顔を目の当たりにして、内心、よし、と拳を握る。


 つかみは悪くない。このまま話を進めよう。



 リヒトをこっそり助けてくれたハンカチは、一日を経て本来の持ち主の手の中に戻った。



「ありがとう。でもむちゃはしないで。見つかったらきっと怒られるから」


「心配してくれてありがとう。──俺はリヒト。君は?」


「ユスラ」


「……ユスラ」



 忘れないように反芻して感触を確かめると、思った以上に舌に馴染んだ。



「ユスラお嬢様は、」


「ユスラよ。ゆ、す、ら」


「いや、さすがにそれはマズイだろ」



「ぜんぜん」ユスラはぱっと手のひらを広げた。「だってわたしはお嬢様じゃないもの。ここにお世話になっているだけなの。お屋敷の使用人さんたちは仕方がないけれど、あなたにお嬢様なんて呼ばれる必要はないわ」



 なにかしらの事情を抱えているような雰囲気を察してリヒトは口をつぐんだ。


 たしかに彼女の口調は生来のお嬢様のものではない。市井のなまりこそないものの、いくぶんか砕けていて親しみやすさがある。リヒトにとっては好ましいが、本物の貴人には歓迎されないだろう。


 幼い頃からドレスで過ごせば立ち居振る舞いはそれなりに洗練されるし、下町なまりも矯正される。では彼女は自分と同じ平民なのだろうか。



「えっと、じゃあ……ユスラ」


「そうそう」



 それでいいのよ、と満足げな笑顔は何十枚もの花弁を重ね合わせた大輪の赤薔薇のようだった。


 つくづく、良い笑顔をする子だと思う。しかも、ひとつひとつの顔がそれぞれ微妙に異なっているから、いつも新しい発見がある。見ていて飽きない。それに可愛い。



(っつーか、昨日から可愛いばっかりだな……)



 我ながら単純だ。



「ユスラはここでなにをしているんだ?」


「薔薇を摘みにきたの。部屋に飾ろうと思って」


「昨日も摘んでいたよな?」


「昨日の薔薇はジャムにしたわ」


「へえ」



 薔薇でジャムが作れることにも驚いたが、ジャムが作れる、という点に一番興味をそそられた。


 ジャムの材料となる蜂蜜や砂糖は稀少価値が高く、庶民には手に入りづらい。それをふんだんに使うジャム作りともなれば、作り手も買い手も必然的に限られてくる。



(羽振りのいい商家か、貴人でも下のほうじゃなさそうだな……)



 いずれにしても、特権階級の可能性は捨てきれない。私刑の危険性はまだあるのだ。



「薔薇のジャムって、どうやって作るんだ?」


「ほかのジャムと一緒よ、お砂糖と煮詰めて、最後にレモンを足すの。でも火加減に注意しないと焦げちゃうわね」


「焦げたやつでもいいから一度食べてみたいな」


「失礼ね、焦がしたりしないわよ」



 口をとがらせた顔は幼く見えて愛らしかった。



「うん、ごめん。でもほんとにお嬢様じゃないんだな。普通のお嬢様は料理なんてしないんだろう?」


「うちだって、あまりいい顔はされないわね。誰でも仕事の邪魔はしてほしくないものでしょう? でもずっと閉じこもってばかりなんだもの。それくらいは大目に見てくれないと」


「ずっと?」


「ずっと」


「どれくらい?」


「三歳か四歳のときにはもうここにいたから……、かれこれ十五年以上?」



「ってことは……、ユスラって十八歳!?」


「そうだけど……」



 うなずいた後、ユスラは勘付いて顔をこわばらせた。



「……念のために聞くけど、いくつぐらいだと思っていたの?」


「…………同い年くらいか…………ちょっと下かな、って」


「リヒトは何歳?」


「……十四」



「リヒトって老け顔なのね。同い年くらいだと思っていたわ」


「苦労が滲み出てるんだよ。……というかさ、じゅうぶん『同い年くらい』だろ? たった四歳差じゃないか」


「いーえ。見えない大きな壁があるわよ。だいたい十四じゃまだ成人もしてないじゃない」



「誕生日まであとひと月だ。そうしたら三歳差だろ」


「そこでむきになるのが子どもっぽいのよ」



 顔を突き合わせ、むーっとにらみ合う。


 けれどひと時もすれば、どちらからともなく笑顔になる。


 昨日出会ったばかりとは思えない気安さに、どうしようもない嬉しさが込み上げてきた。


 可愛いだけじゃない、一緒にいると、すごく楽しい。

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