神女と人狼*

ひつじ綿子

001 Gir£ meets BØY

 早朝の澄んだ空気に混じった匂いに気付き、リヒトは鼻をひくつかせた。


 蜜のように甘く、花のようにかぐわしい。


 誘われるようにふらふらとさ迷い、歩くことしばらく。たどり着いたのは一軒の大きな邸宅だった。




 美しいアーチを描く鉄柵の向こうに、薔薇の生垣がこれでもかと生い茂っている。匂いのもとはこれらしい。


 強烈にひとを惹きつけておきながら、そのくせ、手のひらを返したように、あっさりと身を引いて後味を残さない。凛とした清廉と、からみつくような陰鬱を同居させた、えもいわれぬ匂いに、あがらいがたい衝動がたぎった。




 ためらいがなかったと言えば嘘になるが、それをはるかに上回る焦燥には勝てず。


 きょろきょろと周囲にせわしなく目を配って誰もいないことを確認すると、脚力にものをいわせて柵を飛び越えた。大人の背丈の倍は高いが、リヒトの身軽さの前には小石も同然だ。


 ナイフのように尖った柵の先端もさしたる障害にもならず、かくしてリヒトはあっさりと反対側へ降り立つ。


 よく手入れされた芝生が衝撃と物音を吸収してくれて助かった。




 柵の向こう側からこちら側へ、少し移動しただけだというのに、香気はさらに勢力を増した。


 頭がくらくらする。


 なのに体は、もっと埋うずもれたい──溺れたいと要求する。




 相反するふたつの感情のせめぎあいに理性を失ったリヒトは、警戒も怠って奥へと流れ歩いた。


 茂る薔薇をかきわけて、まるで幽明の住人のように進み続け……。




 悲鳴のような、愛らしい小さな声が耳朶を打ったところで我に返った。


 いつの間にか生垣は終わり、広い庭が続いていた。奥には見たこともない大きな邸宅がある。


 庭には、生垣とは異なった品種の薔薇が咲きほころび、生命を謳歌していた。


 そしてそのかたわらに、ひとりの少女が立ちすくんでいた。




 リヒトと同じくらいの年齢だろうか。結いもせず風に流す髪は未成年の証。背はほとんど変わらない。陽に焼けていない肌と、危うく感じるほど細い体つき。大きな目を瞠って、及び腰になっている。足元に広がる薔薇の束は、彼女が摘んだものを驚いて落としてしまったのだろうか。




 彼女の驚愕の原因が自分にあると、一瞬遅れて気付いたリヒトは焦った。


 これは立派な不法侵入だ。警務兵に突き出されてもおかしくはない。いや、これだけ大きな屋敷に住んでいる貴人なら、私刑を認可されている可能性だってある。国法には記されていない残忍な手段で処罰することもできるのだ。


 己のうかつさを呪いながら、リヒトはあわてて弁明する。




「ご、めんっ……! いい匂いがしたのでつい……!!」




 少女はきょとんとしたままだった。


 大きな目を瞬かせて、リヒトをじっと観察した。




 一抹の安堵を覚えつつも、今度こそ油断はしない。深い謝罪を重ね、少女の慈悲に訴える。


 私刑にいたれば、一族郎党、殺されてしまうかもしれないのだから、リヒトはとにかく必死だった。




「本当にごめ──」


「怪我してる」


「ん…──え?」




 そういえばさっきから手が痛い。見ると、左手の甲に血がにじんでいた。薔薇の生垣を歩いている最中に棘かなにかで傷つけてしまったのだろう。とはいえ、舐めておけば治りそうな浅い傷だ。血もほとんど止まっている。




「大丈夫だよ、ただのかすり傷だ」




 そう言い終わらないうちに少女はさっと近づいてきて、ハンカチで手当てを施してくれた。血をぬぐい、ハンカチで傷口を覆ってくれた。


 ふんわりと薔薇の香りがして、リヒトは身動きがとれなくなる。身じろぎひとつで触れ合いそうなところに二人はいた。




「はい、おうちに帰ったら、ちゃんと消毒してね」




 邪気のない笑顔。


 きっと死ぬほどびっくりしただろうに、怒りもしない。


 それに肝も据わっている。普通の女の子なら怯えて泣いているだろう。


 いい匂いはするし、不法侵入者に対しても優しいし……。


 どぎまぎしている間に少女は身を翻し、落とした薔薇を拾い集めた。


 そのまま侵入者を咎めもせず、背中を向けて立ち去ろうとするので、今度はこちらが驚きあわてふためく。




 もっと話がしたい。もう少し近くにいたい。


 しかし悲しいかな、彼女を引き止める話題など持ち合わせていない。唯一、リヒトの手に巻かれたハンカチだけが二人の接点だった。




「あ、あの、これ!」




 彼女が振り返る。ただそれだけで心が躍る。




「洗って返すよ、絶対!」


「ううん、いいよ。あげる」




 さきほどとはまたちがった微笑みに顔が赤くなっていく。


 体が熱い。


 胸が高鳴る。


 ちまたで聞く恋というものの初期症状を思い出していた。

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