化学部長の陰謀 ~ゴールデンウィーク合宿篇~ ④

 どれくらい時間が経ったのか。

 文妻は、いまだにいましめを解くどころか緩めることすらできずにもがいていた。

 親指が使えない、という状態がどれだけ不自由か、知識としては持っていても、実際に体験してみると予想などまるで役に立たない不自由さである。

 それに、無理な姿勢で力を入れ続けていることもあり、息も上がって汗までかいて頭にかぶせられた布の内側は相当に蒸れる状態となった。なんだか息苦しい。

 そうまでして頑張っているにもかかわらず、手も指も、まったく緩むことがなく、きっちりと文妻の体を固定している。

 疲れと息苦しさで少し動きを止めてみたが、汗が止まらないので蒸れる一方。そして息苦しさも増した気がしてきた。

(このまま窒息死ってのは最悪だなぁ)

 叫ぶなりなんなりして助けを求める、という発想を文妻は放棄していた。声を出して呼び掛けても、おそらく、最初に来るのは犯人だろうと思っているからだ。

(それに、ちっとも人の気配を感じないしな)

 腕をもぞもぞ動かしている分には大した物音にもなるまいと頑張っていたのだが、全く状態に変化がない。

(ここは仕方ないな。足なら体重かけて緩めらんないだろうか)

 少し息を整えて、浮いている足を地面につけようと踏ん張ってみる。しかし、こちらもなかなかきつくいましめられているらしく、力を込めてみてもびくともしない。

 勢いをつけようと、少しゆすりつつ何度か力を込めるがまったくだめ。

 さらに勢いを付けようと、大きく体重移動をしたとたん、椅子のバランスが崩れた。

(うぉっ、た、たおれ)

 とっさに頭を打たないように、倒れる方向と逆に首をひねる。

「ぐおっ」

 左肩から倒れたが、どうやら下は何かやわらかいものがあったようで、叩きつけられた勢いの割には痛みを感じない。

 しかしながら、いましめをほどくどころではない、不自由な姿勢になってしまった。それに、倒れた物音や、つい上げてしまったうめき声を犯人に聞かれたかもしれない。

 苦しい姿勢ながらも、少し静かにして物音を探る。

 すると、何やら足音が聞こえてきて、割と近くで立ち止まった。

 がんがんと、金属製の扉をノックする音。

 応じたものかどうか、文妻が悩んでいると、扉が開く重々しい音が響いた。

「誰かいるんですか?」

 おずおずと問う女性の声がする。

 そろそろと進む足音が近づいてきて、ひっと息を飲む声が聞こえた。

「ど、どうしたんですか、大丈夫ですか?」

 一応自分のすぐそばまで来ているようだが、文妻は一応確認してみた。

「俺のことかな」

「他に誰がいるんですか! 大丈夫ですか、なんでこんな目にあってるんですか?」

 会話の感じからすると、どうやらこの場には自分とその女性しかいないらしい。他のメンバーが無事かどうかはわからないながらも、少なくともこの場に死体で転がってることはないらしいとひとまずは安堵した。

「質問したい気持ちもよくわかるんだが」

 普段目にしないであろう異様な光景を前に、すこし混乱しているらしい女性に次の行動を促す。

「とりあえずこれ、解いてくれないかな」

「あ、あぁ、気が付きませんで」

 そのまま近づいて、すぐに解きにかかる、と思いきや。

 軽く二十秒ほどの沈黙があって、

「ええと、何か切るものを持ってきます」

 と言って、駆け去る足音がした。

「おーい」

 あっという間に聞こえなくなった足音に、無駄だと思いながら呼びかけてみる。案の定返答はない。

「せめて、起してくれるとか、頭の布だけでも取ってくれるとかしてくんないかな」

 ドアも開きっぱなしらしい。

 野次馬がいっぱい来たりしないよう祈りながら、文妻は待つしかなかった。


 ほどなくして、駆けもどってくる足音が聞こえた。

「お待たせしました。手から切りますから、じっとしててください。切れ味がいいので、ちょっとずれるとスパッといっちゃいますから」

 恐ろしいことをさらっと言って、もぞもぞと腕のあたりをまさぐる。

 ぷつっと、軽い音が何度かして、まず腕が自由になった。女性は続けて足のほうを切ってくれているらしい。

 文妻は手探りで頭の布の結び目を探し、何とかほどくと一気に取り去った。

 まず吸い込んだ空気はいささかほこりっぽい匂いがした。

 周りは多少薄暗いようだが、ほとんど真闇の中にあった眼を射る光に慣れるまで少しの時間がかかる。

 その間に、女性は足のいましめまで切り終わり、文妻は完全に自由の身になった。

「いやぁ、助かった、ありがとう。命の恩人だ」

 立ち上がって、体に異常がないことを確認しつつ、目の前の制服姿の女性に礼をいう。校章バッジの色を見るに一年生のようだ。

 立ち上がりながらにっこりと応じる彼女の手には、古風な懐剣が握られていた。慣れた手つきで鞘に納める。

「どうやら、無事みたいですね。でも、なんであんなことになっていたんですか?」

 問われて思い返すが、なにも思い当らず、首をひねる。

「いや、昨日の晩は普通に合宿に参加して、夜は布団で寝たはずなんだよな。なのに、起きたらこのありさまで……そういや、みんなは無事なのか?」

 半ば独り言のような文妻のつぶやきに、女性は首をかしげる。

「わたしも、剣道部の合宿で昨日からいますけど、特に何か大変なことが起きたりって話は聞いてませんけど……」

「ふむ」

 改めて場所を確かめると、ここは体育館裏の器材倉庫のようだ。まだ使っているのかどうか、微妙な体育用具が乱雑に詰められている。

「ともあれ、まずはうちの連中の無事を確かめなきゃな。あ、そうだ。命の恩人の名前をうかがってない。いずれ礼をしなきゃだし、教えてくれないか」

 展開の速さについて行きかねている風の彼女は、いえいえ、とか、いやいやとか、微妙にはっきりしない言葉を発した後で、きちんと姿勢を正して名乗った。

「一年E組、剣道部所属の斎藤さいとう智葉ともはです。いや、でもお礼とか結構ですよ。当然のことをしたまでですから」

「いや、それは俺なりのけじめってやつだ。あとできちんとさせてもらう。ともあれ、今はほかの連中の安否が心配なので、これで失礼する」

 と、倉庫から出て行きかけて、ふっと振り向くと智葉が何か言いたそうに見つめているのに気がついた。少し考えて思い当る。

「そういや、俺が名乗ってなかったな。三年A組の文妻だ」

 名を聞いたとたん、今まで友好的だった智葉の顔が、すっと険しくなった。そしてすたすたと近づいてきて、間近で文妻の顔を見上げる。

「文妻、先輩?」

 値踏みするような視線を受けて、文妻が少したじろぐと、智葉はぼそっと

「助けなきゃよかった」

 と言い捨てて、倉庫から走り去って行った。

 後には訳も分からず固まる文妻が取り残される。

「助けなきゃ、よかった?」

 智葉の言葉を繰り返すと、すぐに気を取り直して、合宿メンバーのいそうな所に駆け出して行った。

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