3年生編

桜一枝

 桜時、と言えば、高校では入学式のシーズンである。

 ここ、県立西が丘高校でも、真新しい制服に身を包んだ新入生が期待と不安を半々にした表情で校門をくぐり、桜舞い散る下、各部活からの熾烈な勧誘合戦に直面していた。



 県立西が丘高校には、全部で二十三本の桜の樹がある。

 内二十二本までは、前庭、校庭、中庭で数えることができるが、残る二十三本目の場所を知る者はかなり少ない。

 特別棟と事務棟を結ぶ渡り廊下、そして約五メートルのがけとしてそびえる隣の敷地との境界に囲われた、谷間のようなその場所に二十三本目の桜の樹はあった。

 校内でも最も奥まった場所でもあるそこは、前庭の喧騒からは完全に切り離されて、花びらの落ちる音まで聞こえてきそうなほどの静寂に満ちていた。

 地形からして、決して日当たりが良くないはずながら、他の二十二本よりも大きく枝を拡げて、桜はただ静かに緩やかな風になぶられている。

 その樹の下に、眠そうな表情の男子生徒が一人、ぼうっと座り込んで舞い散る花びらを眺めていた。

 その名は文妻ふみつま京司郎きょうじろう

 校内では『部活ジプシー』として知られる、この春三年生に進級した男子生徒である。

 彼は、昨年までに顔を出した部活間で、本人不在のまま決められたシフトで勧誘に参加させられ、疲れ切ってこの場に逃げ込んできたのであった。

 彼を知る人たちでも、この場所は知らない、若しくは、知っていたとしても探しに来ることを思いつかない場所だと踏んでのことである。

 既に逃げ込んできてから二十分。

 その間、渡り廊下を含め、誰一人通りがかることもない事実に満足しながら、文妻は桜をぼうっと見ていた。

 桜の樹に対面するようにあぐらをかいて見上げていた文妻は、大きく伸びをするとその根元に移動して、寄りかかって目を閉じる。

 眠るつもりだったか、そうでなかったか。

 本人にもよくわからないうちに、暖かさと静寂に誘われて文妻は眠りの淵に沈みこんで行った。



「文妻はまだなの!」

 調理研の勧誘スペースにそう怒鳴り込んできたのは、女子空手部部長の上坂うえさか陽子ようこである。

 その剣幕をまともに受けることになった調理研の二年生、君川きみかわ利恵りえはびくっと震え、涙目でふるふると首を振った。

「次はうちの番でしょ。時間はとっくに過ぎてるのに、なんであいつは来ないのよっ!」

 文妻がこの場にいないことにも気付かずに怒鳴る陽子に、利恵はほとんど泣き出しそうな表情をしている。

「ちょっと、うちの部員を怒鳴らないでよね。ただでさえ利恵ちゃんは気が弱いんだから」

 呆れたように口をはさむのは調理研三年、鈴城すずしろ量子りょうこ。その声に、陽子の首が、ぎぎぎぎと音を立てそうに向き直る。

「ほらほら落ち着いて。勧誘時期だってのに、そんな鬼のような形相してたんじゃ、新入部員候補が寄り付かないでしょうが」

 言われて初めて、周りがドン引きで視線を送っていることに気が付き、かろうじて愛想笑いのようなものを浮かべてから、量子に向き直る。

「んで、文妻は? 姿が見えないみたいだけど」

「うちにも現れなかったんだよねぇ。それで、千里が探しに行ってるんだけど、戻ってこない」

 やや諦めたような笑顔で言う量子の言葉に、陽子は眉を寄せる。

「ここの前はどこだったっけ」

「茶道部、で、その前が占い研」

 『文妻シフト表』と書かれた紙を確認して答える量子の手元を覗き込み、一つうなずいた陽子は、ひらひらと手を振る。

「じゃあ、ちょっとそっちを当たってみるわ。怒鳴ったりしてごめんね」

 最後の一言は未だおびえ切っている利恵にかけて、陽子は茶道部の勧誘スペースに足を向けた。



 この時期の生徒会は、新入生歓迎行事群の準備、運営に大わらわである。それが終わると、提出された入部届けを元に各部の名簿作成、そして、少し先に控えた生徒総会、役員選挙と、休む暇がない有様である。

 そんな多忙な日々の中、今日はぽっかりと空いたエアポケットのように、生徒会長、嬉ヶ谷うれしがやしのぶは処理案件を一件も抱えていなかった。

 生徒会室でお茶をすすりつつ暇を持て余していると、副会長にして会長官房長(非公式)である影山治也かげやまはるやは、大量に積み上げられた処理案件の隙間からやや尖った笑顔を見せ、

「お暇でしたら、勧誘の視察にでも行ってらっしゃったらいかがでしょうか」

 と、声をかけてきた。

 じろり、と視線を送ると、忍耐の限界を試されているかのような笑顔を送って来たので、忍は言われたとおり、勧誘視察へと赴くことにした。

 百四十三cmと、同年代でもとびきり背の低い忍は、人混みが大の苦手である。

 普段であれば、その身にまとった雰囲気から、自然と人垣が割れるのだが、部員獲得に殺気立っている雰囲気の中では、人混みにもまれてかき回されるだけであった。

 いささか人混みと雰囲気に酔った忍は、自分が知る限り校内で一番静かな所に逃げ込もうと、二十三本目の桜へと足を向けた。

 誰も通らない校舎の隙間を抜けて、時の流れに取り残されたような、見事な桜の前へとたどり着く。

 他の桜に比べて背が低いながら、横には立派に枝を伸ばしたこの桜が、何となく自分に似ているような気がして忍は好きだった。

 誰も知らない秘密の場所。

 そんな言葉を胸中に思い浮かべながら、桜を見上げていた視線を下に向けていくと、今までここでは遭遇したことのない人影を見つめ、眉をひそめた。

 それはそうか。

 いささかの落胆とともに、ひそかなため息を吐く。

 校内にある以上、私以外誰一人知らない場所、などと期待する方が間違っているな。

 こちらに気づいていない様子の人影を少し気にしながら桜の樹に近づいた忍は、その正体を知って軽く驚き、すぐに笑顔になった。



「えーっと、二年E組の上坂さん、だったかな?」

 茶道部の勧誘スペースで陽子を出迎えたのは、茶道部顧問の英語教師、葛原恭子くずはらきょうこ教諭、二十五歳独身であった。

「先生こんなところでどうしたんですか?」

「えっと、勧誘をしています」

 にっこりと笑って答える葛原教諭。その笑顔には隠しきれないとまどいが認められた。

「うちは弱小部活ですからね。私もこうして手伝っているんですよ」

「はぁ」

 少々毒気を抜かれて、陽子が生返事をする。顧問が直接勧誘をする部活なんて、少なくとも西が丘高校では前代未聞ではないだろうか。

 気を取り直して本題に入ることにする。

「先生、文妻くん、いませんでしたか?」

 訊いたとたん、教諭の眉が曇った。

「そう、その文妻くんが来てくれなかったんです」

「はぁ、ここもですか」

「千山君が迎えに出かけて帰ってこなくなってしまい、その間神崎さんをずっとひとりで放っておくわけにもいかなくて、私が代打を務めているんですよ」

「なるほど」

 呆れたような溜息といっしょに、陽子は相槌を打った。

「わかりました。あいつはここもサボってるわけですね。後ほど力づくでも引っ張ってきて謝罪させますから、少し待っててください」

 背後に炎が見えたような気がして、葛原教諭はごくっとつばを飲み込み、かくん、とうなずいた。



 完璧に熟睡していた。

 特に足音を殺すようなつもりでもなく近づいても、まったく無反応なその人影、文妻は、怪訝そうにのぞきこんだ忍の視線の先で、桜の根元にだらしなく寄りかかって寝こけていた。

 しばらく立ったままじっとのぞきこんだが、まったく目覚める気配がない。

 思うさま寝顔を見て満足げな笑顔を浮かべた忍は、起こさないようにそっと、隣に座り込む。

 ちらっと横目で目を開かない文妻を確認すると、少し小さな声で話しかけた。

「さすがだな、京司郎。この場所は私くらいしか知らないと 思っていたのに」

 またちらりと見て、まだ寝ていることを確認してから口を開く。

「よりによって、と、まぁ多少は思わなくもないが、京司郎とここを共有できるのは、少し、いや、素直にうれしいな」

 名前を立て続けに呼ばれたせいか、うぅ、と軽くうなり声をあげて身じろぎをする。

 起きたのか、と思って振り返った忍の顔は少し朱が差している。

 まだ寝ていることを確認して安心したとたん、文妻の体が寄りかかって来た。

「え、ちょっと、京司郎、起きているのか?」

 言葉をかけても全く反応がない。完璧に寝ているようだ。

 どうやら先ほど身じろぎしたせいで寄りかかっていたバランスが崩れているようである。

 身長差が四十cm近くあるその体を支えようとした忍だったがさすがに無理がある。

 ずるずると横倒しになった文妻は、忍にひざまくらをされているような形になってしまった。どかそうとしても重すぎて無理。

 起こすのも忍びなく、わたわたと周りを見回す忍だったが、誰の目もないことを確認すると、ふっと、柔らかく微笑んで文妻の髪を梳いた。

 やがて、睡魔が忍の体をも包み込む。

 桜の花びらが、そんな二人の上に静かに舞い散っていた。




 元気一杯。

 傍から見た占い研部長、ユゴス宮川こと、宮川みやがわ由比香ゆいかの様子を一言で表現するとこうなる。

 念願の占い研創設にこぎつけ、最初の勧誘期間を迎えているのだ。そうでないなら、何か大問題が起こっているに違いない。

 創設メンバーの三年生、通称西高の魔女、時任ときとう夕見ゆみと、一年生ながら既に勧誘する側に回っている、矢羽茉莉やばねまつりの表情を見ても、明るさにあふれてなにも陰などないように見えた。

 だが、スペースの前には、困惑顔の調理研会長、茉莉の姉でもある矢羽千里やばねちさとの顔があった。陽子と目が合って、ふぅ、と大きなため息が出る。

「やっぱり、見つかってないんだ」

 つい、同じようなため息が出かかって、陽子は自制した。

「ここは最後まで全うして行ったそうなんだけどね」

「でしょうね」

「文妻先輩、サボってるんですか?」

 由比香が怪訝そうに訊ねると、千里と陽子は顔を見合せてうなずいた。

「うーん、時間になって千山君が迎えに来て、そのまま一緒に茶道部に行ったもんだと思ったんだけどな」

 笑みを崩さないまま、真夏のように日焼けした夕見が顎に人差し指を当てる。

「その千山君はどうしたんだろ」

「ここにいる」

 千里の言葉にタイミングよく、茶道部部長、千山ちやま宗孝むねたかが現れた。その横には、だるそうな表情の写真部部長代行、南周みなみあまねと、白衣に伊達眼鏡のいつものスタイルで、化学部部長、東海林眞君しょうじまきみもいる。

「ったく、俺も写真部で忙しいってのによ」

 南周があたまをぼりぼり掻いて言うと、千山が申し訳なさそうに頭を下げた。

「すまんねぇ。自分がまかれたりしなければ、面倒をかけることもなかったんだが」

「いや、悪ぃのは文妻のバカ野郎だ。千山は悪くねぇよ」

 南周はふん、と鼻を鳴らした。

「で、まきちゃんはどうしたの? 今年化学部は勧誘ないはずじゃなかったっけ?」

 千里が訊ねると、東海林は伊達眼鏡をきらりと光らせて、含み笑いでもしそうな顔になった。

 千里の言うとおり、化学部は今年度いっぱいで統廃合されることが決まっているので、今回は勧誘がないのである。

「千山くんが、ナンシュウに居場所の心当たりを訊ねて、結果として二人がうちの部室に現れ、事情を聴いてぼくも乗り出すことにしたわけさ」

 化学部部室は校内で唯一、サイフォンでコーヒーが淹れられる場所であり、文妻はよく勝手に入り込んで使っていたのである。転がり先としては、まず候補に上がっても不思議ではない。

 迷惑、というよりは降ってわいた事件を面白がっている感じで、東海林は笑みを浮かべている。

「で、千山くんは京司にまかれちゃったわけなんだそうだけどね」

「面目ない」

 常に笑顔のその表情をやや曇らせて、千山が頭を下げると、一同は恐縮した体で、口々に千山を慰める。

「ともあれ、とにかく捕まえてとっちめてやらないと」

 そう、場を総括した陽子の言葉に一同がうなずく。

「とは言え、どこにいるんでしょうねぇ」

 茉莉の言葉に、皆が首を傾げるしかなかった。



 違和感を覚えて目覚めた。

 いつの間にか寝てしまっていたようだ、と気が付きはしたが、今の自分がどうなっているのか把握するには少し時間がかかった。まだ頭は完全に目覚めていないようだ。

 確か、最後は桜に寄りかかって座り込んでいたはず。そして、今はどうやら寝ころんでいて……この枕にしているものは何だ?

 そこまで思考して目を開ける。

 枕になっているのは、紺色の布地。それが女子制服のプリーツスカートだと気が付くまでにまた少し、時間がかかった。

 スカートの下には、温かい何かがある。普通に考えると、これは誰かの腿である可能性が高い。まさか、スカートを脱いで枕代わりに提供する女子がいるとも思えない。

 と、なると、誰かにひざまくらしてもらってるのか、俺。

 つい、男子のサガで、幸せな気分になってしまってから、不意に冷静になった。

 ところで、これ誰の腿?

 まったく反応のないところから、腿の持ち主はどうやら寝ているらしい。起こさないようにそろそろと、かなり無理な感じではあるが体を回して持ち主を確かめて、思考が停止した。

 うれし、がや?

 うつむいて眠っている様子の忍の顔をまじまじと見つめる。

 寝顔はなんだか幼く見えるなぁ、などと、本人が聞いたらどんな目に遭わされるかわからないようなことを考えつつ困っていた。

 どうやって、この状態から抜け出そう。

 忍の体勢は、かなりうつむき加減で、半ば文妻に覆いかぶさるような形になっている。そのまま起き上がれば、頭突きをするようなことになってしまいかねない。

 と、なると、そろそろを頭を抜くしか方法はないが、そうなるとスカートが足と擦れて、かなりくすぐったいことになるだろう。それでは忍が起きてしまいかねない。

 文妻としては、状況がわからないながら、忍を起こさないようにこの体勢から脱出すべきだと確信していた。

 仰向けの状態から横向きに体勢を戻し、腹筋背筋を総動員して、頭を浮かし、ゆっくりと、そろそろと、体ごと抜いていく。

 とてつもなく長い時間がかかったような気がするが、実際は二分とかかってはいないだろう。

 なんとか上体を直立させた文妻は、普段使わない筋肉を総動員した疲労で、桜の樹に少し強めに寄りかかった。

「ん、んにゅ」

 振動を感じたのか、体を起こして薄目を開けた忍と目が合う。

「よ、よぉ」

 ぎこちなく手を上げてあいさつした文妻をじぃっと薄目で見ていた忍は、そのままばたんと、投げ出していた文妻の脚にダイブした。

「うぇ、えぇ、おい」

 焦りまくる文妻を尻目に、しばらく、ふにゅふにゅ良くわからない声を上げて身じろぎしていた忍は、やがて落ち着く場所を見つけたのか、片方の腿を腕で抱え込んで枕にして、すぅすぅと寝息を立て始める。

「おい、嬉ヶ谷。おい」

 起こすべきか、起こすべきでないか迷っている文妻の呼びかけは中途半端に弱い。

 まったく起きる気配のない忍に脚を占領されたままで、文妻はじっとしているほかなかった。



 チャイムが鳴る。最終下校十分前。勧誘の終了時間。



 文妻探しに奔走したメンバーの努力は、全くの徒労に終わった。

 教室に荷物が置いたままなのを見ると、まだ帰宅したわけではないということはわかる――そもそも、勧誘自体を正門前でやっているのだから、誰にも見つからずに帰宅することはほぼ不可能なわけだが――のだが、ではどこにいるのか、ということになると全くのお手上げだった。

 千里と陽子は全身からオーラを吹きそうなほど怒っているし、他のメンバーは疲れきった顔でぐったりしている。常と変わらないように見えるのは、飄々とした雰囲気のままの東海林と、普段から疲れているように見える南周くらいである。

「もうこれ以上は探し回るだけ無駄な気もするけどな」

 東海林が腕時計を見ながら言うと、千里はぎっと睨みつけて口を開いた。

「でも、このまますんなり帰らせる、というわけにはいかないでしょ」

 その言葉に、陽子がうなずく。

「でも、もういそうなところなんてわかりませんよ。時間もありませんし」

 由比香は、疲れ切ったという顔でその場にしゃがみこんだ。占い研の仕事を全うした文妻探しに付き合う必要はなかったはずなのだが、少し責任を感じて付き合っていたのである。

 そんな一同の顔を見回して一言、

「俺に考えがある」

 南周が言うと、全員の視線が集まった。



 チャイムの余韻が消え去って、すっかり西に傾いた日のおかげで薄暗くなった桜の樹を揺らすかのように、ざぁっと強めの風が吹く。

 一段と多く舞い落ちる花びらに混じり、何かが文妻の頭に落ちてきた。

 手に取って見ると、二輪の花が付いたままの小さな枝。

 しばらく手に取ってくるくる回して見ていた文妻は、一向に起きる気配のない忍をじっと見ると、その枝を髪に挿した。

「ん、んん?」

 少し地肌を刺激してしまったのか、忍は枝を挿したあたりを触りながらゆっくり目を開けた。

 起き上がり、少しきょろきょろとして状態を確認する。

「あれ? 私がひざまくらしてたはずなのに」

 まだ寝ぼけた表情でじっと文妻を見ている。

「おはよう」

 ひざまくらになっていたのはばれてたのか、と思いつつ、精一杯自然に見えるようにあいさつをする。

「うん、おはよう……」

 と、反射で答えて、忍の意識は一気に覚醒した。

「え、あ、あれ。今もしかして、私が京司郎にひざまくらしてもらっていたのか?」

 重々しく文妻がうなずくと、ものすごい勢いで、忍は背を向けた。耳が、真っ赤である。

「むしろ、俺の脚は抱き枕にされていた」

「う、うあぁあ」

 両手で顔面を押えてうつむく忍。

「まぁ、その前は俺がひざまくらしてもらってたみたいだし、おあいこって奴だろ」

 顔面を押えたまま、ちらっと視線を送る忍に、文妻はニカっと笑って見せた。少し赤い顔のままで忍は向き直る。

「ん? 髪に何かついてるな」

 と、枝に触ろうとするのを文妻が押しとどめた。

「あぁ、すまん、俺が挿したんだ」

 取って桜二輪の枝を見せる。喜ぶかと思った忍の柳眉が逆立った。

「京司郎、貴様なんて真似を」

「いや、待て待て」

 枝を持ったまま、両手を広げて詰め寄る忍を押し止める。

「折ったんじゃない。風で落ちてきたんだ」

 枝と文妻を交互に見つめると、忍はひとつうなずいた。

「なるほど。嘘じゃないようだな」

「当たり前だ。選りにも選って、この桜の枝を折るような真似をするか」

 胸を張って言う文妻に、忍はようやっと笑顔になった。

「そうか。それじゃ、これは、桜からのプレゼントなのだな」

「そういうこと」

 文妻がうなずきながら手渡すと、忍はくるくるとまわしながら笑顔で二輪の花を見つめた。

「しかし、よくこの桜を知ってたな」

 文妻が言うと、忍はきょとんとした顔をした。

「むしろそれは私のセリフだ。まさか、自分以外にこの桜を 知っている者がいて、それが京司郎だとは思わなかった」

 笑顔を見合せて、桜の樹を見上げる。

「しかし、嬉ヶ谷はこんなところで油売ってて良かったのか? この時期の生徒会は多忙なんだと思ってたが」

 桜を見上げる視線をそのまま文妻に移動させて、忍は苦笑をもらした。

「まぁ、基本的にはそうなんだが、今日は奇跡的に私だけ暇でな。殺気立ったカゲマルに追い出されてしまったというわけだ。京司郎はは暇つぶしか?」

「いや、」

 桜を見上げたままだった視線を一瞬忍に合わせると、少しその目を泳がせながらためらいがちに口を開く。

「ま、忙しいことは忙しいんだが、寸暇を惜しんで春を愛でに来たんだ」

「はぁ」

 とっさに意味をつかみかねた忍が、少し間の抜けた相づちを打つと、文妻は視線を合わせてばつが悪そうに告白する。

「勧誘でたらいまわしにされていてな。休む暇もないので逃げてきた」

 怪訝そうだった忍の表情が次第に緩み、ついにはぷっと吹き出した。

「つまりはさぼりというわけか。また大層な言い方をするものだから、何かと思ったぞ」

「まぁな。しっかし、勧誘期間中、一分単位でスケジュール切られればうんざりもするぞ。しかもそのシフトが俺の手元にはないと来た」

 文妻の表情が、ここにたどり着いたときと同じような、疲れ切ったものになる。忍はまだ笑ったままでこらえようともしない。

「まぁ、そうは言うが、みなが京司郎を頼りにしているのだろう? だったらいいじゃないか」

「人並みに休憩時間ぐらい取らせてくれれば言うことないんだがなぁ」

 情けない表情で桜を見上げる文妻に、忍はこらえきれずにもう一度吹き出してしまう。少々むっとした顔で忍に視線を投げていた文妻だったが、そのうちつられて一緒に笑いだした。

 ひとしきり笑って落ち着いたころ、再び花びらを吹き散らす風が吹くと、二人はその冷たさに身震いをした。

「もうこんな時間なのだな」

 忍が腕時計を見ながら言うと、文妻も携帯で時間を確かめた。

「すぐに最終下校だな」

「そろそろ帰らねば。荷物を取ってくるから、校門で待っていてくれないか?」

「は?」

 忍の言葉に文妻はきょとんとした。

「一緒に帰ろうと言ってるんだ。たまにはいいだろう?」

 上目づかいに言う忍に、いささかきょとんとした表情で固まる文妻。

 そのままじっと視線を合わせていると、忍の眉が徐々に寄っていく。

「いや、京司郎がいやなら別にいいんだが」

「いやいや、喜んでお供させていただきましょう」

「すぐに取ってくる。校門で落ち合おう」

 苦笑してうなずいた途端、そう叫んで駆け出すその背中を見つめながら、文妻は自分の荷物を教室に取りに向かった。



 結局その日、文妻と忍が一緒に帰ることはなかった。


 

 生徒会室で軽い報告を受けて、約五分後。校門に着いた忍は、待ち合わせの相手が殺気立った一団に拉致されて行く光景を目の当たりにする。

 振り向いた文妻の瞳が何かを訴えていたが、それは果たして、助けを求めてのものだったのか、それとも、関わらずにいろということだったのか。

 どちらであったにせよ、忍には呆然と見送ることしかできなかった。


 その後、文妻は、近くのファミレスにて、関係者全員からの大説教大会に強制参加と相成った。合掌。

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