サマータイム・エラーコード

伊島糸雨

夏の庭先、向日葵の翳


 夏には決まって、庭先に向日葵が咲いた。

 母が趣味で植えた種は、毎年大輪の花をつけて太陽を追いかけている。

 そのすぐそばで、ギコギコと特徴的な音が響く。縁側に腰掛け足を投げ出したまま、視線は自然と音の鳴る方を向いた。

 台の上に木の角材を乗せ、それを片足で踏みつけながら熱心にノコギリを引く姉がいる。脚を短パンから無防備に晒して、肩まで捲った半袖には汗が滲んでいる。肌は健康的に日焼けし、焦げ茶色の髪をポニーテールにして、額に張り付く前髪を時折拭う。

 ギコギコ、ギコギコ、と熱心に腕を動かしている。その腕にはうっすらと、筋肉の影が浮いていた。

「なに、どうかした?」

 ふと、こちらの様子に気づいた姉が不思議そうに問いかけた。

「いや、なんでもないよ」

 平静を装って答えると、姉は「そう?」と言ってまた作業へと戻っていった。

 照りつける日差しは容赦なく、肌を撫でる風はどれも生ぬるい。蝉の声は湿った空気を震わせて、鮮烈な色を放つ向日葵は、直視すれば目が潰れる輝きを、身を投げ出して見つめ続けている。

 三歳上の姉は、まるで太陽のような人だった。

 活発で、挑戦的で、朗らかで凛々しく、自分とは違うのだといつも思わされる。日陰に逃げ込むことなく、むしろ積極的に日に当たって、今日も飽きずに身体を動かしている。

 日曜大工がしたいというので、俺はその付き添いだった。姉の様子を両親は危なっかしく思うようで、対極の性格に育った俺をよくお目付役にする。両親は久しぶりに二人で出かけている。家にいるのは、俺と姉の二人だけだった。

 仲はいいほうだと思っている。喧嘩らしい喧嘩はほとんどしたことがなかったし、お互いに融通も利きやすい。特別距離が近いわけでもないが、よその話を聞いていると、歳の近い姉弟としてはいささか穏やか過ぎるような気がしないでもなかった。

 姉の足元には、切断された角材が次々と転がった。「上手でしょ」と自慢するのに「そうだね」と返すと、得意げに鼻を鳴らした。

 椅子を作るのだと張り切って、図面まで引いていたから、きっといいのができるのだろうとぼんやり思う。何でもかんでも、ある程度までは器用にこなしてしまう人だった。

 どんな時でも、俺の先を行っている。俺が新しく始めようとすることの多くには、すでに姉の足跡が刻まれている。本を読むのも、映画を見るのも、勉強や日曜大工だってそうだ。そこかしこに、姉の残り香が漂っている。

 三年ぶん、俺はいつも遅れている。誕生日を迎えて真っ先に感じるのは、姉との隔たりだった。毎年毎年、自分とこの人は交わることもないのだろうと再確認する。

 だからこうして、少し離れた場所から姉の背中を追いかけている。心の底で願う形で、あの人と向き合うことができるとは思っていない。近づき過ぎれば、俺はきっと燃え尽きてしまうから。

 諦めなければ、やりきれないと思う。


「ぃっ」

 不意に姉が声を上げ、顔を歪めてノコギリを地面に落とした。手首を押さえて持ち上げられた左手の先では。赤々とした血が流れ出て、木材に垂れては染みを作っていた。

 サンダルをつっかけて慌てて駆け寄ると、姉は頬に汗を伝わせながら「やっちゃった」とおどけてみせた。指先はぱっくりと割れて、とくとくと血が流れ続けていた。

 ひとまず何かで覆わなければと、自分のハンカチを取り出してその指に巻きつける。

「ちょっと、悪いよ……」

「……そんなこと言ってる場合かよ」

 身じろぎして逃れようとするのを腕を掴んで引き留めて、自分より背の高い姉の陰に入り込む。わずかに早い姉の呼吸がすぐそばにあった。それを意識すると、自分の血流ががなりたてるように響いて、目が回りそうになる。

 生地の薄いハンカチは、巻いている間にもみるみる赤くなっていった。最後に結び目を作って引っ張ると、姉は「いてて」と呟いた。

「終わったよ──」

 そう言って、見上げた瞬間、


「ぁ……」


 目が合って、硬直する。

 俺のことを見つめるその瞳は何もかもを見透かすようで、心臓の鼓動は速度を増した。

 こそぎ落とされた木の香りと、足元の土の匂い、夏日のもったりとして焼けるような熱気に、汗と、血と、向日葵のほんのりと甘く、青い匂い。

 すべてが渾然として、何か触れてはならないものに手を伸ばすような、そんな危うさと淫靡さが、粘度をもって蟠っている。

 一度絡み合ったものはなかなか解くことができずに、向かい合って、立ち尽くしていた。

 蝉が鳴いている。

 いっそどうにかなってしまえたらと、目を眇めて、思う。

「……絆創膏と包帯、とってくるから」

「あ、うん……」

 無理やり視線を剥がして、逃げるように日陰へと転がり込んだ。

「ありがと」

 姉の声が、脳裏に残響する。

 姉は太陽のような人だった。

 でも俺はきっと、向日葵のなりそこないでしかない。

 いっそこの目を潰してくれたらと思う。そうすれば、もう追いかけずに済むはずだから。

 輝きが翳れば、別の光を向けるはずだから。

 救急箱ごと姉に届けて、目を逸らしながら処置をして、包帯の代わりに、姉の体液に塗れた薄布を握りしめる。隠れて鼻に近づけると、花の香のようにかぐわしく匂った。

 幽遠な生の香り。

 劣情の矛先は、間違いを抱えたまま。

 向日葵を前にするたびに、あの匂いを思い出している。



 お盆には毎年帰省することになっている。だから今年も、それを言い訳に、俺は姉に会いに行く。

 歳を重ねることを成長と言えなくなっても、庭先には変わらず向日葵が咲いた。

 門をくぐると、母が世話していたはずの大輪には、姉が如雨露で水をやっている。「姉さん」と声をかけると、顔を上げて嬉しそうに微笑んだ。

 右手に如雨露を持ったまま駆け寄る姉に近づいていく。背はいつの間にか姉を追い越して、以降視点の位置が変わることはなかった。「久しぶり」と言うのに、頷きを返す。かつてのような日焼けは薄れて、その肌は白さを増していた。

「荷物、持とっか」

 はい、と差し出された左手の薬指には、指輪が嵌められている。

 指先には、うっすらと線状の傷痕が刻まれていた。

「いや、いいよ。リュックとお菓子だけだし」

「そう?」

 姉はすんなりと引き下がると、「じゃあ中まで一緒に行こう」と言って如雨露を置きに行った。

 後頭部で髪の束が揺れるのを、なんとなしに眺めていた。

 あの日以来、姉が怪我するところに出くわすことはなかった。

 ハンカチは、数日経ってからゴミに出した。躊躇っていたら、いつまでも持ち続けてしまいそうなのが恐ろしかったからだ。

 姉には、傷ついて欲しくないと思う。

 けれど、あの匂いが忘れられないのも事実だった。だから以前は、またいつか姉が日曜大工とか言ってノコギリを握らないかと密かな期待を寄せていたが、そんな馬鹿げた妄想は、終ぞ現実にはならなかった。

 いっそ俺が、というのも考えはしたが、その想像はあまりにも暴力的で、刺激に満ちて、背徳的に過ぎた。幸いだったのは、そんな妄想に駆り立てられてたまらなくなる前に、姉が家を出たことだった。

 今ではそんな考えも湧かなくなって、穏やかなものだった。

 姉との関係は今に至るまで変わっていない。姉が大学に進学して家を出てから多少疎遠になりはしたが、それでも年末年始やお盆には会っていた。姉が今の旦那と付き合うようになって結婚してからも、それが変わることはなかった。

 両親や姉の旦那に挨拶を済ませ、荷物を置いてから縁側に腰掛けた。しばらくすると麦茶の入ったグラスを持った姉が現れて、俺にそれを手渡しつつ隣に座った。

 夏の盛り、日がじりじりと照る日向で、蝉が鳴いていた。

「結婚とか、しないの?」

 何の前触れもなしに、姉はそんなことを言った。

 無邪気な質問だった。

 俺は「ああ」と呟いて、太陽を追う向日葵を見る。

「俺は、いいかな」

 すぐそばで、いつかの匂いがふわりと香る。

 そっか、と姉は言って、汗をかいたグラスの中で、氷がからりと音を立てた。



 姉はずっと、太陽のように眩しいままだ。

 輝きは翳ることなく、今もまだ、俺の隣にある。

 手には入らず、狂うこともままならないが、それでも、光がそこにあるのなら。

 できそこないでも間違いでも、見つめ続けてしまうものだろうかと、そんなことを思っている。

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