第十節
翌週、寝不足で体調を崩した私はアケミ先生が居なくなった事で疎遠となっていた保健室へ、久しぶりに足を運んだ。
校舎内の風景は相変わらずで、静かな廊下の乳白色はどこかの教室から漏れ出る声を控えめに反響させる。
自分の上履きが地べたのリノリウムを叩く音に耳を澄ませて、保健室までの道を歩いた。
変わるものは確かにあったが、変わらないものはいつまで経っても変わらないものだ。
ただ、変わって欲しく無いものばかりが変化を孕み、どうでも良いものばかりが変化を拒んだ。
少なくとも、私のこれまではそうだった。
扉を二度ノックし、保健室内から声が返ってくるのを待つ。
「どうぞ」
帰ってきたのは、苦手な初老の女性の声だった。
失礼しますと断りを入れて扉を開けると、そこには懐かしい顔があった。
「あ、アケミ先生……」
私の声に、アケミ先生は振り向いた。
「あら、お久しぶりねぇ。コーヒー飲む?」
アケミ先生は私に小さく手を振った。
その懐かしい様相に、私は目頭が熱くなる。
けれど、必死になって堪えた。
涙が零れ落ちて仕舞わない様、滲んだ涙を瞬きで強引に押し留めた。
そして、アケミ先生の好意を素直に受け取り、コーヒーを貰う。
次いで、私は促されるままにソファへ腰を下ろした。
「最近どう?辛いことはない?」
記憶の通りの調子に、アケミ先生はそう聞いてきた。
何だか以前と同じ優しい時間に触れる事が出来た様な気がして、嬉しくなる。
まるで、変わってしまった日常の一部が昔に戻ったみたいで、私は期待してしまう。
この調子で里咲も直ぐにひょっこりと姿を現してくれるのでは無いかと、そう期待してしまう。
「……はい。私は大丈夫です。もう教室にも普通に行けるようになりました」
「そう……頑張ったのね」
自分は変われたのだと私が言うと、アケミ先生は褒めてくれた。
そして、アケミ先生は丸椅子を持ってきて私の正面に座り、私の頭を撫でてくれた。
私の頭に触れたアケミ先生の手はとても温かくて、とても優しかった。
余りにも暖かくて優しかったものだから、私はまた涙を瞬きで押し留める苦労をしなければならなかった。
「そういえば、先生はどうしてここに?」
誤魔化す様に私は聞いた。
先生は少しだけ考える仕草を見せた後、言葉を選んで私の問いに答えてくれた。
「任せられていた仕事が終わったからねぇ、今日から保健室に戻ってくることになったの」
「きょ…………もど……え、本当?」
「ええ。
微笑むアケミ先生の顔を見て嘘では無いと分かった。
奥のデスクでむすっとした様子でパソコンと向き合っている初老の女性を見て、私は聞く。
「でも、もうアケミ先生はここには来ないって」
アケミ先生は私の視線を追い、その先にいた初老の女性へ可笑しさ半分で笑いながら声をかけた。
「ちょっと〜、どうして嘘なんかついたんですか?」
「別に嘘はついちゃあいないよ。アンタの”仕事”がもっと長引くもんだと思ってたから、卒業までには会えないよって意味合いで言っただけさ」
「あー。言い方が悪かったって奴ですか」
「そうとも言うね」
「”相変わらず下手”ですね」
「ほっとけ」
旧知の仲の様に話す二人の関係が気になって「二人はどういう関係ですか?」とアケミ先生に聞いた。
アケミ先生は初老の女性を指差し、「あの人は私が高校生だった時の保健室の先生。私がしばらく保健室にいられないから代わりに働いてもらってたの」と説明してくれた。
初老の女性は気まずそうに咳払いをすると「第一ね」と弁明を始める。
「アケミがいなくなることは事前に職員室前の掲示板に貼られていたし、同じ紙に”仕事”が終わり次第戻ってくるって事も書かれていただろう」
「え、そうなんですか」
私が驚きながら聞くと、アケミ先生は「そうよぉ」と呑気に言った。
つまり、アケミ先生が居なくなったっていうのは、私がただ勘違いをしていただけと言う話だった。
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