第六節


「私さ、この時間が好きなんだ」


 無言の時間がしばらく続いた後、里咲はゆっくりと語り出した。


「虹ってさ、近づいても近づいてもどんどん遠くに行っちゃうでしょ? でもさ、その麓に行けたなら、何か特別なことがあるんじゃないかってずっと思っていたの。そしたらね、ある日ネットの掲示板で虹の麓の宝物の話を聞いたの。中学校一年生の冬だったかな」


 虹の麓の宝物の話を、さっき里咲はお兄ちゃんの友達から聞いたと言っていた。

 けれど、今はネットの掲示板で聞いたと言っている。

 一体、どちらが本当なのだろうか。


 そう考えている私の思考を読んでか、里咲は笑って補足した。


「でね、もっと詳しい話を知りたいって思って、お兄ちゃんの物知りな友達に聞いたの。虹の麓の宝物の話を知ってる? って。そしたらね、お兄ちゃんの友達はその話を知っていて、『雨上がりの宝物の事かな』って頷いて、私に詳しく教えてくれたの」


 眩しそうに街並みを眺め続けたまま、里咲は続ける。


「それから私は、雨上がりには決まって虹の麓を目指すようにしたの。学校の日だったら学校をサボって、何よりも優先して私は虹の麓を目指したの。お兄ちゃんの友達みたいに、いつか救われると信じてね」


「救われるって……何から?」


 冷やかしではない。単純に気になった事柄だったから聞いただけだ。

 けれど、聞いて私は後悔をした。

 私は彼女の時間に水を差すという無粋なことをしてしまったのだ。

 到底許されるべき行為ではない。


 私がハッとした顔になると、里咲は小さくクスリと笑い、私の問いを無視して語りを続けた。


「虹の麓を目指して歩くときはさ、ほかのことが頭に入ってこないの。虹を目指して歩くっていう事柄に関係するもの以外はね。そうなると必然的に、歩く途中に入ってきた情報がより鮮明で生々しいものに感じられるんだ。生き生きしてるっていうのかな。なんて言えばいいのか、世界がより輝いて見えるし、本来の姿を見ることができている気がするの」


 選び取られ、紡がれる里咲の言葉はなんだか詩的で、なんだか普通の会話を聞いているというよりは演劇の一部分を見ているみたいだなと思った。


「この時間はね、私の宝物なの。何もかもが素敵に見えて、生きているって実感出来る。だから、たとえ虹の麓にたどり着けることができなかったとしても、この時間自体が私の宝物だから私は悲しく感じることはない。雨上がりのこの時間が私にとっての宝物。今日はね、それを伝えたくて燈を誘ったの」


 私のことを呼び捨てで呼んだのは、私がさっき里咲を呼び捨てで呼んだことの仕返しだとよくわかった。


 けれど、彼女が私に「宝物を伝えたかった」と言ったその真意は全くわからなかった。

 この話が里咲が話すと言っていた全部なのかもわからなかった。


 里咲は私の手を取り、火傷の痕が生々しい自身の頬にあてがう。

 火傷痕の皮膚はもっとザラザラとしているものだろうと思っていたけれど、その感触は通常の肌と同じでとても柔らかく、暖かかった。


 私の手のひらが里咲の頬に触れているのをしっかりと確認し、里咲は嬉しそうに「あぁ」と言った。


「どうしたの?」


 私が問うと、里咲は嬉しそうに「あったかい」と言った。

 なんだかむず痒かった。

 大人の階段を上るのとはまた別種のむず痒さ。


「ねぇ」


 再び、里咲が私を呼んだ。


「何?」


「どうして私を里咲って呼び捨てで呼んでくれたの?」


「それは……」


 ちょっとしたうっかりだったとは言わないほうがいいのだろう。

 きっと、彼女はこのなんでもないような一つの事実を特別だと認識している。

 ここで選択を違えてしまえば取り返しがつかなくなってしまう。

 そう感じた。


「ふふふ。嘘だよ嘘。気にしないで」


 そう言ってごまかした後、里咲はまた「ねぇ」と言って私に呼びかけた。

 わざわざ会話を切っているようであまりいい気はしなかった。

 私はこれまでと同じように「何?」と返した。


「私の宝物。覚えていてね」


「それはどういう……」


「私の宝物。忘れないでね」


 明らかに里咲の様子が異常だった。

 まるで、もうすぐ死んでしまう人間のようだと思った。


「ねぇ!」


 次は私がそう言った。

 会話を彼女のペースに任せてはダメだと思った。


「……何?」


 不服そうにではあるが、里咲は頷き返してくれた。


「死なないよね?」


 唐突で失礼極まりない私のその質問に里咲は笑った。

「何それ」と言って楽しそうに笑った。

 ケラケラと、本当に楽しそうに。


 そうして一頻ひとしきり笑った後、里咲は真剣な様相で再び街並みを眺めた。


「死なないよ。私は死なない。絶対に、寿命まで生き続けてやる」


 力強い口調で吐き出された里咲のその言葉は、決意表明のようなものだと思った。


 何故そう思ったのかと問われてしまえば、答えることはできない。

 けれど、里咲が何かを決意したようであることはハッキリとわかった。

 この感覚にも明確な根拠はない。


 自分は死なないのだと力強く答えた里咲の表情は凛々しくて美しくて、私はその表情に見惚れた。

 ぽぅっと見惚れる私に、突然、里咲は抱きついてきた。

 とっさの事ではあったけれど、私は里咲の体をしっかりと抱きしめた。


「燈も私の宝物だよ」


 耳元で里咲がそう囁いた。

 少しだけ寒気がして身震いした。

 里咲も私の宝物だよ。と、そう返したかったけど、身震いに制されて出来なかった。


 それから日が真南に登る頃まで、私たちはその場所に置かれていたベンチに座って話をした。

 小さな山の頂上に置かれたベンチは木製で、雨を含んで湿っていた。

 けれど、そこに座って服が湿り気を帯びていく感覚は、別段気になりはしなかった。


 学校生活の話だとか、これまでの人生の忘れられない思い出だとか、私たちはそう言った他愛のない話をした。

 話が途切れると、聞こえてくる音や鼻に届く香りに意識を向けた。

 少しずつ、こんな時間が楽しいと思えていった。



 帰り際、遠く向こうに見える山から虹が見えた。




「どうする?」と里咲に問うと、里咲は「いいや」と笑い飛ばした。



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