第四節


 片側一車線しかない名ばかりの国道に沿って歩き続けると、住宅の数は次第に減っていった。

 代わりに虹の麓がどこにあるのかが明瞭になり、視界には山々が映った。

 その中の一つから虹は生まれていた。


 辺りから住宅が姿を消した頃、私たちは小さな山の麓にたどり着いた。

 麓からは山頂へと続く階段が伸びていて、虹はその山頂から出ているようだった。


「行こう」


 里咲の言葉に引かれ、私達は階段を上り始める。

 階段と言ってもそれは地面を階段状に掘り、それが崩れないようにと木材で補強しただけの心もとない階段で、前日の雨をふんだんに吸い込んでいるせいでベチャベチャとしていた。


 歩を進めるごとに、地面から泥が跳ねて足にまとわりついた。

 冷たくてザラザラとした上に水分の滑らかな感覚が合わさって、歩いていて気持ちいいと感じられるようなものではなかった。

 ハッキリと言い切って仕舞えば、不快な感覚が強かった。


 一歩歩くごとに私は顔をしかめたのだが、一方の里咲は足が汚れることを機にする様子もなくズカズカと歩き続けた。

 それどころか、里咲はどこか楽しそう。


 私は、そんな里咲の背を追った。


 風が木々を揺らす心地のいい音が耳に届く。

 けれど、同じように風に煽られるようにして、より一層強い土の香りも私の元に届いてきた。


 里咲はこの音も香りも心が安らぐものだと言った。

 私は音には同意できるが香りには同意しかねると思った。

 けれど、それを口に出すようなことはしなかった。


 小さな山とはいえ普段まともに運動をしない私からしたら登ると言う単純な動作が辛い。

 次第に息切れし始めて里咲のペースについていけなくなっていった。


 ちょっと待って。そう言おうとした時、風がやんだ。


 辺りからは、つい数秒前まで私の耳に届いていた音達は姿を消し、その代わりに私と里咲のペースの異なる息遣いが聞こえてきた。

 それと、申しわけ程度に鳴くのが下手な鳩の鳴き声や、若いセミの鳴き声が聞こえて来た。


 もうそんな季節か。と、実感した。

 今が雨上がりということもあり、辺りは涼しい。

 その所為なのか全くもって気づけていなかったけれど、どうやら夏が姿を見せはじめているようだ。


 思わず立ち止まってしまった私を置いて、里咲は尚も進み続ける。

 私の息遣いはいつまでも聞こえ続けるけれど、里咲の息遣いは私から遠ざかっていく。

 そんな当たり前の事実になぜか悲しくなって、私は里咲に置き去りにされないように慌てて階段を駆け上がった。


「ねぇ」


 進む中で、不意に里咲が声をかけてきた。


「何?」


「もしも…………。もしも……さ、虹の麓にたどり着けなかったら、どうする?」


 その声は、わかりやすく不安に濡れていた。


「どうするって……私にはわからないよ」


 私には、雨上がりの宝物を信じられるような純粋な心はない。

 素直に純粋に、望んだ虹の麓にたどり着けなかったならばの絶望を想像することはできない。

 だから、私にはわからない。


「そっか」


「うん」


 どこか安心したように、里咲はポツリと言った。

 それに、私はうなずき返す。

 彼女の背を見つめたまま。


「………」


「………」


「ねぇ」


「うん」


 里咲が歩き続けたまま深呼吸をした。

 その深呼吸の意味は、多分だけれど心の準備だとか、タイミングの擦り合わせだとか、そう言ったものだと思う。

 私の方を向くことはせず、里咲は優しい声音で言った。


「もし、虹の麓にたどり着けたらさ、私……全部を話すよ」


 その言葉が何を意味するのか、私の拙い思考能力では理解することができなかった。

 彼女の指す全部という言葉が一体何を指しての全部なのか、その全部を話した上でどうなることを望んでいるのか。

 私には何もわからない。


 ただ、里咲が苦しそうだという事だけはよくわかった。


 私は里咲の言葉にどんな言葉も返さなかった。

 肯定であり否定でもある無言の時を返すことで、私が里咲の覚悟のようなものを拒絶しているのだと主張した。

 里咲から全部を聞きたくはないのだと、そう主張しているつもりだった。


 だって、彼女が話そうとしている全部を聞いて仕舞えば、里咲が捨てないでいてくれた私達の関係が今度こそ本当に崩れてしまいそうだったから。

 そんな意図を含めての無言という返答だが、私の意図が彼女に伝わったのかはわからない。


 登り始めてから三十分ほど経ち、とうとう木々に囲まれていた視界は開け、山頂にたどり着いた。

 先ほどまで木々に遮られていた太陽の光が、私と里咲を直接襲う。


 あまりの眩しさに、手のひらで日の光を少しだけ遮って目を細めた。

 里咲も、同じようにしていた。

 ほんの一瞬、私たちは目が太陽の光に慣れるまでの時間をそうやってやり過ごした。


 ”そこ”には虹の麓があるはずで、私たちはそれを両の瞳でしっかりと見なければならなかったから。


 視界が光に慣れ、瞳孔が眼前に広がる景色を明瞭に拾った。



 そして_______



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