第三節



 雨上がりの朝、私は里咲に手を引かれて濡れた街を歩いた。


 時刻は早朝で、その所為もあってなのか人影は全く無い。

 まるで、世界には私と里咲だけしか居ないような、そんな素敵な錯覚を覚える。


 雨上がりのベタつく世界は、私の瞳には澱んで見える。

 けれど、視界に入る一つ一つが里咲の瞳には輝いて見えるようで、物の正しい見方と言うものを里咲は一つ一つ丁寧に、教えるように私へ語ってみせてくれた。


 例えば雨に濡れた木。

 里咲が言うには木々は露を葉に纏い、太陽の光を弱々しく反射しているそうだ。

 私にはただ陰湿な光景にしか見えなかった。


 例えば道路の水溜り。

 忌々しくて仕方がないはずの水溜りを里咲は美しいものを見るように語った。

 里咲の瞳には道路の水溜りが青空を映す綺麗な鏡に見えるらしい。

 その感覚は私にはわからない。


 里咲はその水溜りを指差して嬉しそうに言った。


「子供ってさ、不思議なんだよ」


「不思議?」


「うん。不思議」


「どうしてまた」


「いやいや、そんなに難しいことじゃないよ。子供ってさ、意味もないのになぜか水溜りを踏みたがるよね」


「そう? それは個人差じゃない?」


 私が指摘すると、里咲は嬉しそうに笑った。


「うん。個人差だよ。でもさ、みんな雨の日は決まって長靴を履いていてさ、長靴を履いているからこそちょっと強気になれてさ、そんな状態だからこそ、人生で一回は水溜りをわざと踏むでしょ?」


 里咲の語りはありふれた複数の日常の中からまるで小説のようにワンシーンを切り取ったものであり、それは逆説的に里咲の瞳には世界が物語のように映っていることを意味していた。

 羨ましかった。

 多分、里咲の持つそれは今の私が何よりも欲しかった観点だ。


「子供たちはね。雨の日は気分が落ち込むの。でもね、雨上がりには晴れた空に炊きつけられるように気分が舞い上がってね、必要もないのにわざと水溜りを踏んで歩くの。バシャーって水しぶきを上げてさ。その光景、私は好きだな。だってさ、子供たちが空を歩いているみたいでしょ? ものすごくロマンティックだと思うんだ」


 里咲の語るロマンティックの定義はよくわからないけれど、目に見える世界を語る里咲は楽しそうで眩しくて、やっぱり、私は里咲には届かないのだと実感させられた。


「ねぇ、雨上がりってさ、いい匂いがするよね」


「いい匂い?」


 促されるようにして辺りの匂いを嗅ぐと、濡れた土の匂いがするだけで別段いい匂いだとは感じられなかった。


「雨上がりの朝ってさ、空気は湿った土の香りを含んでいてさ、なんていうか、ものすごく現実的な感じがするよね。自分が生きているんだってよく分かる」


 そう言いながら、里咲は変色したままの皮膚で回復が止まってしまった大きな火傷跡を指でなぞった。

 私は返すべき言葉を見つけることができなくて、その代わりとでも言うべきか、見惚れるように里咲の挙動を見た。


「あ!」


 雅さんのことで迷える子羊となった私が惑っていると、里咲は何かに気づいたように私の傍を駆け抜けた。


「ふふふ。猫ちゃん。ほらほらおいで〜」


 里咲は可愛らしい黒色のノラ猫の前で立ち止まると、目線を合わせるようにしゃがみ込んでチッチッと舌を鳴らして自分の元に来るように呼びかけた。

 猫は警戒する様子で里咲の顔を見ていたけれど、根負けしたのか里咲の元にゆっくりと近づいていった。


「あーよしよし。可愛いなぁ」


 歩み寄ってくれた猫を撫でながら、里咲はため息を漏らした。

 そのため息は思いつめた際に出る類のものとは違って、単に癒されている際に出るリラックスの類のものだ。


 嬉しそうに猫を撫でる里咲を見ていると、なんだか私の方まで嬉しい気持ちになってきた。

 きっと、里咲は私を慰めるために連れ出したのだと思う。


 雅さんのこともあって、少し前に里咲に酷いことを言ってしまって、色々とあって気分が落ち込んだ私を良かったらと連れ出してくれたのだ。


 里咲は聡明だし、優しい。

 だから、自分のことよりも私のことを考えてくれる。


 そんな思考をする自分に笑いそうになった。

 つい数日前とは真逆の思いを里咲に対して抱いているから。

 きっと、あの時の私は、里咲を否定した私はどこかがおかしかったのだ。


 私に拒絶されても私を拒絶しないでいてくれた優しい里咲。

 そんな里咲に、私は何もしてあげられていない。


 できれば、私も里咲の抱える苦しみを一緒に背負いたかった。

 里咲に、私を信用して肩を預けてほしいと言いたかった。


 けれど、私にはそんな勇気はない。

 そんな権限は無い。

 そんな資格はない。


 私は、里咲の背中を見て歩くことしかできない。

 眩しい里咲の陰に隠れて生きる事しかできない。


「ほら、燈ちゃんもおいでよ」


 促されるようにして、私は恐る恐る里咲と猫に近づいた。

 里咲の隣にしゃがみ込み、里咲を真似て猫を撫でようとした。

 けれど、猫は私の手が近づいてくるのを視認すると慌てて警戒の姿勢を見せ、私を威嚇してきた。


「あれ?」


「あははは。燈ちゃんがびくびくしているから不安な感情がこの子に伝わっちゃたんだよ。私たち人間とは違って、猫とか犬とかの動物はもっと敏感な生き物なの。相手の気持ちを過剰なくらいに汲み取っちゃうの。だから燈ちゃんが不安な気持ちでこの子に近づいたら、この子もその不安な感情を汲み取って不安になっちゃう」


 だからほら。安心して落ち着いて、昔の自分に語りかけるようなつもりで手を伸ばしてみて。と里咲はいった。

 けれど、その言葉の意味なんか私にはわからなくて、私が試行錯誤して手を差し出すたびに猫の警戒はより一層強いものへと変わって行き、


「あっ」


「あーあ。逃げちゃったね」


 ノラ猫はせっせと逃げて行ってしまった。

 里咲は「よしっ」と立ち上がると、遠くに見える虹のふもと指差して「行こっか」と言った。

 私たちは再び歩き始める。


「ねぇ。道に迷ったりしないの?」


 不思議に思って聞いた。

 里咲はここまで寄り道はしたけれどずっと堂々と歩き続けていて、道に迷っているような様子はなかった。


 なのに、里咲は私の問いに大きくかぶりを振った。


「迷うよ。だって私もこの辺りのことを完全に知っているわけじゃないもん。それに私たちは人間だしね。迷って当然」


 里咲の言葉は回答にならない回答だった。



 そのうち何度か路地の行き止まりと出会いながら、私たちは私たちの暮らす生き辛い街を抜け出した。



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