第9話「悲しみに一番近い場所」

 この時代に来てから、やなぎは毎日、欠かさずにここへ来ていた。



 パワースポットと紹介される事もある、海に面した芝生広場。



 昼間は学生からサラリーマン、OLが訪れる場所であるが、夜は先程のように無軌道な若者が強盗しようとするような場所になっている。


 海へ向かって接地されたベンチに座る柳は、真っ暗な海へ目を向けていた。いや、真っ暗というには語弊がある。


 背後の街灯が海を照らし、波で揺らされている水面でか細い反射を繰り返している。


 月と星しか目立つ光源がなかった時代を生きていた柳にとって、その光は見慣れていない分、いつまでも見ていられた。


 ――ちょっと前まではな。


 当初、ここに来た時、あらゆるものが不思議だった。滝沢が驚愕したように、個人で自動車を所有する事が当たり前となり、食べ物は何もかもが軟らかく、甘い味付けが多い。味噌や塩が効いて腹に溜まればいい、などという食事は、場末の食堂でもありはしなかった。


 横顔を照らす車のヘッドライトですら心地よかったと感じたものだ。


 だがここで生きているうちに気付かされる。


「実は、いう程の極楽ではなかったですか?」


 不意に隣から投げかけられた声へ、柳はハッとした顔を向けた。


 今、柳の横顔を照らした光はベクターフィールドの愛車のもので、そこから降りてきた滝沢は気配もなく柳の隣にやって来ていた。


「……滝……沢さん?」


 一度しか見ていない相手であるのに、柳は滝沢の名を憶えていた。それだけでも死神博士がいった通りの秀才であると分かる。


「不自由な顔をして自由を語る。幸せでないから人の不幸を話す……そういう人たちを見てきましたか?」


 こちらへ来て早々、亜紀あきと知り合えた滝沢は、その出会いこそがショックを和らげたと自覚している。


 柳が受けた衝撃は、怨嗟えんさを呼んでいても当然だ。


「ここには何でもありますね。戦争に敗れ、瓦礫がれきと田んぼしかない中、30年で車とバイクで世界一を取っている。だけど――」


 柳は水面に目を遣り、フッと小さく溜息を吐いた。



 自分が望むものがない。


 柳が感じている孤独は、大正時代にいた頃とは比べものにならなかった。


 その言葉に、滝沢は自分達の懸念が杞憂であったように感じた。


 ――何を持って帰る気もなくなっている、か。


 ならば投げかける言葉は短い一言だけで済む。


「帰りませんか?」


 滝沢が柳の顔を覗き込むように視線を向けていた。無罪放免という訳にはいかないが、償う方法はいくらでも提供できる。


「帰る?」


 柳は海を見つけたまま鸚鵡おうむかえしにした。


「ここは私たちの世界とも、時代とも違います。同じ未来が来るとは限らない。よりよい未来のため――」


 説得の言葉を続ける滝沢であったが、柳はそれを遮り呵々大笑。


「ハッハッハッ!」


 愉快な笑いとは言い難いそれは嘲笑だった。


「例え清浄な水だろうと、汚水を一滴でも垂らせば、それは汚水となる」


 柳の絶望は、この世界から元の世界へ何を持って帰る気も失せさせる程だったのだ。


 を潜るまでは思っていた。


 ――だが未来を見てしまった今、何をどうしようとも困窮する事がわかってしまった!


 この時代の優れた医薬品を、工業・農業製品を持って帰れば、これ以上の絶望はない、と。


 ――懐が豊かになろうとも、心が貧しくなる。心が豊かであろうとも、懐が貧しければ死ぬ。


 自分が何をしようと、死神博士が力を貸そうと、黒桜が存在しようとも、こう結論を出してしまった。



「しかし汚水には、どれだけ清浄な水を足そうとも、汚水でなくなる事はない」



 立ち上がると共に、柳が懐へ手を伸ばす。


 その動作に覚えの合った滝沢であったが、今、滝沢の手に聖剣ジェラールはなく、阻止する手段がなかった。



 霊を配下として動かすフィールドを作ったのだ。



 そして今、配下としたのは、上野の彰義隊よりもある意味にいては脅威だ。


「逃げろ!」


 愛車からベクターフィールドが飛び出してきた。恐るべき剣術集団であり、例え滝沢の手に聖剣ジェラールががあっても必勝とはいかない相手であるが、それとは別種だ。


「知っているか? この海は、何度も海難事故が起きている。中には、国民を守る立場にある護衛艦の事故まである」



 柳が呼び出した霊は、船だ。



 海難事故で沈んだ船を霊として呼び出し、使役しようというのだ。


「どうしようもなく汚い水ならば、いっそ滅んでしまえ!」


 それしかない。


 滝沢の頭上から水死者の霊が降りてくる。



「チッ」


 舌打ちする滝沢は、右腕の軽さを悔やむのだが――、


「使え!」


 ベクターフィールドの声と共に、滝沢の右腕へ投げ渡されたものがある。


「!」


 掴んだ滝沢は、その異様に感触に目を剥かされた。黒い鞘に収められている剣は、片手で持つ事を前提とするが両手で扱う事もできる西洋剣。その鞘の黒と、鳥を意匠した金色の護拳、朱色の柄というコントラストが目を引く。


 その意匠が犬鷲であると分かった滝沢は、剣を鞘から引き抜いた。



 聖剣ジェラールとは真逆の性質を持つ剣は、ベクターフィールドが持つ魔王の剣だ。



 ――軽い!


 竹刀のように軽く振るえる剣だが、霊を切り裂く手応えは重いという感覚に混乱させられる。


 しかし滝沢は剣客の異名を取る男。


 降りかかる霊を縦横に払う。


「柳!」


 声を荒らげる滝沢の相貌そうぼうが柳に向けられる。


 ――場合によっては、柳さんを抹殺する事もありえますが。


 死神博士へ向けた警告が滝沢の中に蘇る。こうも巨大な霊を呼び出したとなれば、連れ戻す事は難しくなる。


 それでも尚、連れ帰る方策を探る滝沢であるが、とうの柳は降りかかる霊とは逆に、船へと乗り込んでいく。


 それが意味する事を悟れない滝沢ではなかった。


「生きてる人間と霊が混じり合う……面倒臭い……いや、厄介な事になるな!」


 船を見上げるベクターフィールドは、滝沢に剣を貸してしまっているため丸腰だ。


「滝沢先生! ベクターフィールド!」


 車から出て来た亜紀の叫び声が聞こえ、ベクターフィールドが「伏せてろ!」と怒鳴り返した。


「車の中より、そこで伏せてる方が安全だ!」


 亜紀を一瞥し、ベクターフィールドは船を見上げ、続いて滝沢へと視線を下ろした。


「あんたには飯奢ってもらった恩があるからな。霊は何とかするから、人の方は頼んだぜ?」


 本来、契約を司る魔王であるベクターフィールドが力を行使するには何かの代価を必要とするのだが、滝沢からは昼食をご馳走になった借りがある。


「できますか?」


 魔王の剣を脇に構えつつ、滝沢が視線のみベクターフィールドへ向けた。


「俺の本当の力を見せる時が来たぜ」


 頷くベクターフィールド。


「ファイアーボールで火の海に沈めてやる!」


 構えた両手に一瞬、赤い光が点った。


 ――ファイアーボール?


 船と同化した柳が浮かべたのはあざけりの表情だった。滝沢よりも長くこの世界にする柳であるから、ファイアーボールといわれてイメージするものは、ゲームでは大抵、最弱の武名される魔法。


 ――魔王だから攻撃力が百倍、千倍とでもいうのか?


 嘲りを笑いに乗せるが、ベクターフィールドは「はぁ?」とわざとらしく戯けて見せた。


「ゲームじゃねェよ」


 手を振るうベクターフィールドは、その手から火の玉を投げつけるのではなかった。


「天体ショーだ」


 天から襲いかかってきた真っ赤な輝き。



 一際、明るい流星をファイアーボールと呼ぶ。



 そして高速で飛来する理由は、石ではなく鉄だからだ。


「お前が霊をこの世に留めておけるのは、木や人の肌と同じ、プラスの電荷をまとった場を作ったからだ。そいつは、マイナスの電荷を持つものをぶつければ破れる」


 鉄は帯電列ではマイナス側にある。


 霊を打ち砕く魔法ファイアーボールは、その轟音でベクターフィールドの声を掻き消していたが。


 柳と同化した船を打ち砕いて尚、轟音と衝撃波を撒き散らすファイアーボールだったが、まずいという顔をしていたのは亜紀だけだ。


 ――柳……!


 衝撃波をくぐり、轟音もものともせずに滝沢は間合いへ侵入していく。


 ――ベクターフィールド氏の魔法は、大規模なものへ放つもの。個人で動く相手には不向き!


 開き直りともいうが、滝沢は自身の勘に賭けた。


 崩れ落ちる船の霊の中に、ただ一人だけの柳を見据える。


「火だ……火だ……」


 宙を見たままの柳には、もう滝沢やベクターフィールドの姿は見えていなかった。


「燃えろ。燃えてしまえ。滅んでしまえ、こんな腐った世界なんぞ、燃え尽きてしまえ」


「……」


 魔王の剣を構える滝沢は、その刀身越しに柳を見つめていた。


「例え幻でも、それを見せる訳にはいかん」


 この世に絶望する理由はわかるが、ただ一人の絶望で――いや、この世の99%の人間が絶望していたとしても、希望を持つ者が一人でもいたならば、この世は守られるのが道理なのだ。


 ――鳴滝流剣闘術三ツ星。


 ベクターフィールドの流星に勝るとも劣らぬ輝きを、滝沢の剣技が見せた。

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