第8話「宵の海」
事実、
日々の糧を得るために売った。
そこに抵抗などない。
滝沢が感じていた「裕福だが、どこか寂しい街」は、柳にとっては悪夢に等しかった。日清、日露で戦勝を拾い、辛うじて繋いでいた命脈は、第二次大戦で断たれた。
――アメリカからもらった自由とは、平和とは……。
給料の入った茶封筒を握る手を震わせながら、キラキラと明るい街へ目を群れる。
「繁栄とは、何なんだ!」
貧しい祖国を見たくはないが、昼間から半裸の女がテレビに出てくる事も、親の子殺し、子の親殺しを伝えるニュースも見たくはなかった。
「なーにイキってんの? おっさん」
そこへ投げつけられた声は、決して大きくもなく、怒声とはいいがたいものであったのだが、妙に――
おっさんといわれて振り返る柳。
「まだ
そうはいうものの、声を掛けてきた連中は弱冠の意味が
「封筒の中身、差し支えなかったら教えてくださ~い」
「恵まれない俺たちに愛の手を~」
「差し支えあっても教えてくださ~い」
近寄ってくるのは三人。柳をおっさんというくらいであるから、身長から見ても中学生だろうか。とはいえ、大正時代の住人である柳よりは大きい。
「恵まれてないようには見えないんだがな」
溜息を吐かされるのだから、柳もカツアゲは初めてではない。
「まぁ、歯ぁ食い縛れ!」
先手必勝とばかりに、その横っ面に平手をぶちかました。この手合いが口げんかから始めるのも知っている。
そして柳が放ったのは拳ではなく平手なのだが、少年はもんどり打って倒れ、その口から飛び出した歯がアスファルトを鳴らした。
「相変わらず、奥歯の脆い連中だ。歯を食い縛って我慢した事がないのか!」
「てめェ!」
少年が怒声を上げるが、それも威嚇に過ぎない。
「柔らかいものばかり食べてるからだ!」
いきり立った少年にも平手を見舞う。
「少しは逆上を
一人に一発ずつの平手は、絶対的な痛みを少年たちに与えていた。
――死神博士……お前も、ここを見たのか? だから、誰も来させたくなかったのか?
尻尾を巻いて逃げ出すという言葉そのままに走る少年たちを、もう柳は見ていなかった。天を仰いで、答えなど返ってくるはずもないと知っていながらも、旧友に訊ね続けてしまう心境だけ見ている。
***
その柳の元へと行く道々だ。
ベクターフィールドの愛車ソアラ2.5GT-Tは、滝沢にとっては想像を絶する存在だった。
――これは革張りか!
内装から驚かされる。シートは全て本牛革。室内の静音性は亜紀のコペンなど比較にならず、280PSを絞り出すエンジンから聞こえるターボの咆哮は、それこそ聞いた覚えがない。
――金属音? エンジンの音ではないぞ。
開け放たれた窓から入ってくる風は、旅順で感じた鋭さすらも伴っているように感じられた。
「この未来から持ち帰るとしたら、何を持ち帰るでしょうか?」
そんな滝沢を余所に、助手席に乗る
「そうですね……」
眉間に皺を寄せて考える滝沢だが、滝沢とて柳の詳しい事情などは知らない。
――生活費はカツカツだろうが、大正の暮らしぶりを思えば、ここの貧乏暮らしは苦になるまい。どれだけ稼いだか分からないが、犯罪に手を染めているなら、ある程度、纏まった金があるだろうな……。
「パソコンとプリンタじゃねェか?」
運転席のベクターフィールドがいった。
「偽札でも作れば、結構なダメージ喰らわせられる」
現代であれば日本円は透かしや特殊インク、ホログラム印刷など偽造防止の様々な技術が使われているが、大正となれば話は別だ。
「プリンタは、お札とか旅券とか、そういうものを印刷しようとするとエラーになるようにされてるでしょ」
そう簡単にできるものかという亜紀であるが、ベクターフィールドはチッチッと舌を鳴らし、
「だからパソコンで、肖像とか額面とか、パーツにばらして、重ねて印刷するんだよ。印刷ムラとかズレとか起きるが、そこまで印刷技術が高くなかった大正時代なら、今のパソコン一式で不可能じゃねェ」
自分ならばそうするというベクターフィールドであるが、滝沢は首を横に振った。
「いいえ」
偽札を流通させて混乱するのは日本なのだ。
「偽札は恐らく……違います」
そういった滝沢が思いついたものは……、
「私は、稲の苗だと思います」
「苗ですか?」
「私がこちらへ来て驚いたのは、北海道でも米が収穫され、流通量がずば抜けている事でした。しかも
北海道の稲作自体は明治初頭に開始されているが、冷害に強い北海道米が作られたのは昭和の末だ。
「柳が本気で故国の再生を願うとすれば、農業を置いて他にはない。私はそう思います」
武器や家電という事も考えられるのだが、経済と密接な関係にある工業は、現代の武器や電気製品を量産させるまで途方もない時間がかかる。
だが米ならば、
――帝国農会がどういうかは分からないが、北海道でも作れるとなれば飛びつく官庁がいる。
「良い事……ではないんですよね?」
訊ねた亜紀の声は、軽く震えていた。
「良くないでしょう。こちらから向こうへ物を送る、また向こうからこちらへ物を持ってくるという行為は、
止めなければならない、と滝沢は断言した。確かに大きな実りをもたらす事は間違いないが、柳がひとり来ただけで住民の記憶に改変が起きているのだ。世界に目を向ければ、悪い事しかない。一反分の苗が、世界を滅ぼす事だってあるのだ。
「……説得できればいいですね……」
亜紀の声が沈み込む。
三人を乗せたベクターフィールドの愛車は、柳が
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