第8話「宵の海」

 事実、やなぎは家電量販店の非正規社員として働いていた。当然、情報セクションではなくフロア係であるが、オンラインから情報を盗み出すのは不可能でも、アナログの手段はいくらでもある。防衛省だろうと警察庁だろうと、庁舎内での機密保持は万全だが、近所の赤提灯あかちょうちんでダダ漏れという事がある世界なのだから。


 日々の糧を得るために売った。


 そこに抵抗などない。


 滝沢が感じていた「裕福だが、どこか寂しい街」は、柳にとっては悪夢に等しかった。日清、日露で戦勝を拾い、辛うじて繋いでいた命脈は、第二次大戦で断たれた。


 ――アメリカからもらった自由とは、平和とは……。


 給料の入った茶封筒を握る手を震わせながら、キラキラと明るい街へ目を群れる。


「繁栄とは、何なんだ!」


 貧しい祖国を見たくはないが、昼間から半裸の女がテレビに出てくる事も、親の子殺し、子の親殺しを伝えるニュースも見たくはなかった。


「なーにイキってんの? おっさん」


 そこへ投げつけられた声は、決して大きくもなく、怒声とはいいがたいものであったのだが、妙に――いやらしい甘ったるさをまとっていた。


 おっさんといわれて振り返る柳。


「まだ弱冠じゃっかんを迎えたところだ」


 そうはいうものの、声を掛けてきた連中は弱冠の意味が二十歳はたちであるとは知らない。


「封筒の中身、差し支えなかったら教えてくださ~い」


「恵まれない俺たちに愛の手を~」


「差し支えあっても教えてくださ~い」


 近寄ってくるのは三人。柳をおっさんというくらいであるから、身長から見ても中学生だろうか。とはいえ、大正時代の住人である柳よりは大きい。


「恵まれてないようには見えないんだがな」


 溜息を吐かされるのだから、柳もカツアゲは初めてではない。


「まぁ、歯ぁ食い縛れ!」


 先手必勝とばかりに、その横っ面に平手をぶちかました。この手合いが口げんかから始めるのも知っている。


 そして柳が放ったのは拳ではなく平手なのだが、少年はもんどり打って倒れ、その口から飛び出した歯がアスファルトを鳴らした。


「相変わらず、奥歯の脆い連中だ。歯を食い縛って我慢した事がないのか!」


「てめェ!」


 少年が怒声を上げるが、それも威嚇に過ぎない。


「柔らかいものばかり食べてるからだ!」


 いきり立った少年にも平手を見舞う。


「少しは逆上をこらえて、我慢してみせろ!」


 一人に一発ずつの平手は、絶対的な痛みを少年たちに与えていた。


 ――死神博士……お前も、ここを見たのか? だから、誰も来させたくなかったのか?


 尻尾を巻いて逃げ出すという言葉そのままに走る少年たちを、もう柳は見ていなかった。天を仰いで、答えなど返ってくるはずもないと知っていながらも、旧友に訊ね続けてしまう心境だけ見ている。



***



 その柳の元へと行く道々だ。


 ベクターフィールドの愛車ソアラ2.5GT-Tは、滝沢にとっては想像を絶する存在だった。


 ――これは革張りか!


 内装から驚かされる。シートは全て本牛革。室内の静音性は亜紀のコペンなど比較にならず、280PSを絞り出すエンジンから聞こえるターボの咆哮は、それこそ聞いた覚えがない。


 ――金属音? エンジンの音ではないぞ。


 開け放たれた窓から入ってくる風は、旅順で感じた鋭さすらも伴っているように感じられた。


「この未来から持ち帰るとしたら、何を持ち帰るでしょうか?」


 そんな滝沢を余所に、助手席に乗る亜紀あきが訊ねてきた。


「そうですね……」


 眉間に皺を寄せて考える滝沢だが、滝沢とて柳の詳しい事情などは知らない。


 ――生活費はカツカツだろうが、大正の暮らしぶりを思えば、ここの貧乏暮らしは苦になるまい。どれだけ稼いだか分からないが、犯罪に手を染めているなら、ある程度、纏まった金があるだろうな……。


「パソコンとプリンタじゃねェか?」


 運転席のベクターフィールドがいった。


「偽札でも作れば、結構なダメージ喰らわせられる」


 現代であれば日本円は透かしや特殊インク、ホログラム印刷など偽造防止の様々な技術が使われているが、大正となれば話は別だ。


「プリンタは、お札とか旅券とか、そういうものを印刷しようとするとエラーになるようにされてるでしょ」


 そう簡単にできるものかという亜紀であるが、ベクターフィールドはチッチッと舌を鳴らし、


「だからパソコンで、肖像とか額面とか、パーツにばらして、重ねて印刷するんだよ。印刷ムラとかズレとか起きるが、そこまで印刷技術が高くなかった大正時代なら、今のパソコン一式で不可能じゃねェ」


 自分ならばそうするというベクターフィールドであるが、滝沢は首を横に振った。


「いいえ」


 偽札を流通させて混乱するのは日本なのだ。


「偽札は恐らく……違います」


 そういった滝沢が思いついたものは……、


「私は、稲の苗だと思います」


「苗ですか?」


 鸚鵡おうむがえしにした亜紀に、滝沢は「ええ」と大きく頷いた。


「私がこちらへ来て驚いたのは、北海道でも米が収穫され、流通量がずば抜けている事でした。しかも美味うまい。私が知る限り、そんな品種は存在しませんでした」


 北海道の稲作自体は明治初頭に開始されているが、冷害に強い北海道米が作られたのは昭和の末だ。


「柳が本気で故国の再生を願うとすれば、農業を置いて他にはない。私はそう思います」


 武器や家電という事も考えられるのだが、経済と密接な関係にある工業は、現代の武器や電気製品を量産させるまで途方もない時間がかかる。


 だが米ならば、一反いったんに過ぎずとも結果が出るし、二年後、三年後には何倍にも増やす事ができる。


 ――帝国農会がどういうかは分からないが、北海道でも作れるとなれば飛びつく官庁がいる。


「良い事……ではないんですよね?」


 訊ねた亜紀の声は、軽く震えていた。


「良くないでしょう。こちらから向こうへ物を送る、また向こうからこちらへ物を持ってくるという行為は、禁忌きんきとされています……」


 止めなければならない、と滝沢は断言した。確かに大きな実りをもたらす事は間違いないが、柳がひとり来ただけで住民の記憶に改変が起きているのだ。世界に目を向ければ、悪い事しかない。一反分の苗が、世界を滅ぼす事だってあるのだ。


「……説得できればいいですね……」


 亜紀の声が沈み込む。


 三人を乗せたベクターフィールドの愛車は、柳が黄昏たそがれているウォーターフロントへ到着しようとしていた。

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