第7話「コーギーが行く」

 日が落ちた住宅街を滝沢は息が走っていた。


「ほっ、ほっ、ほっ……」


 規則正しい呼吸を心がけ、爪先で踏み切るのではなく、かかとで踏むのは運足法を意識してのステップなのだが、今は時折、忘れてしまいそうになっていた。



 その理由は、左手に持ったリードと、それに繋がれている亜紀あきの愛犬、ちまの存在だ。



「走るのが速いなぁ」


 呼吸と手足の動きを意識するのだが、それでも尚、頬が緩んでしまう。滝沢にとっては、コーギーはペットとして一般的な犬種ではなかった。短足胴長の身体で飛び跳ねるように走る姿は、思わず笑みがこぼれてしまう程、愛らしい。


 しかし暴走しているかといえばそうではなく、リードを引っ張って滝沢を引き摺ろうとしていると感じると、ちまはUターンして帰ってくるのだから、滝沢はペットは飼い主に似るという言葉を思い出してしまう。


「良い事も、悪い事も極端な時代だな」


 思わず呟いてしまうのは、昼から有給休暇を取った亜紀と共に行っていた情報収集の途中、見てしまったテレビCMに思わぬ衝撃を受けてしまったからだ。


 柳が何らかの個人情報を売買していると推測されたため、何でもいいからと情報収集を行っていたのだが、昼の情報番組といえば視聴者層を考えてかスポンサーに下着メーカが入る。


 ――こんな昼日中から、半裸の女性が映されるなど、思っても見なかった……。


 思わず赤面してしまった滝沢は、亜紀がきょとんとした顔をしている事こそに羞恥心を刺激された。


 ――しかし甘粕あまかすさんの方が、この時代では当たり前の感性なのだろう。


 そのギャップは自分よりも柳の方がストレスになっているはずだ、と滝沢は感じていた。滝沢は亜紀という協力者を得られたが、柳が見つけられているかどうかは怪しいものだ。


 ――個人で乗用車を所有する事が当たり前になり、チョコレートやキャラメルどころか、ホールケーキが毎週でも食べられる時代だが、倫理観は変化してしまい、どこか皆、幸せそうな顔をしていない。


 そして感覚の変化といえば、その情報番組でも意識調査が出てきたが、赤ん坊に関する事も滝沢には衝撃的だった。


 ――赤ちゃんが迷惑だと感じる事の多くが、泣き声がうるさい、なのだな。


 滝沢の感覚では、泣き声よりも寧ろ気になるのはだった。紙おむつが一般的ではなかった時代、お漏らしの臭いが最も強烈だったのだが、今、赤ん坊を臭いという者は少数派だ。


 ――それら感覚の違いを、柳はどう処理しているだろうか?


 父と兄の命と、母と姉の尊厳を犠牲にして勉学に励んでいた柳にとって、今の時代はどう映っているかを考えると、さしもの滝沢も心に冷たい風が去来した。


「くーん……」


 いつの間にか止めてしまっていた滝沢の足に、ちまが心配そうな様子ですり寄っていた。


「ああ、ああ、すまないね」


 滝沢は笑みを浮かべ、ポケットに入れていたオヤツを取り出した。ササミのジャーキーだが、その値段も滝沢にとっては衝撃だ。


 ――犬も、主人の残飯を与えられるような事はない。寧ろ人の食事よりも高いものを食べている。


 ちまがササミのジャーキーにかぶり付く様子を見ながら、滝沢はちまの頭に手を伸ばした。


「ふふふ」


 でると、思わず声が出てしまう。


「美人さんだろ?」


 ふと耳に入ってきた声に顔を上げると、ベクターフィールドが立っていた。滝沢と同じく顔に笑みを浮かべて。


「ええ。賢くて、優しい子ですね」


 亜紀と似ているとまではいわない滝沢に、ベクターフィールドは「ああ」と頷く。その頷きに、滝沢はベクターフィールドが情報を持ってきた事を確信させられた。


「調べは、つきましたか?」


「ま、晩飯でも食べながらにするぜ。甘粕がカレーを作るっていってたから、店屋物だけど白身魚のフライを持ってきた。乗せて食おう」


 ひとつ100円程度だが、このチープな味がベクターフィールドには堪らない。



***



「いただきます!」


 亜紀のアパートに戻ったベクターフィールドは、大盛りのカレーにフライを載せ、手を合わせた。


「滝沢先生も、どうぞ」


「ありがとうございます」


 滝沢も亜紀へ礼をいい、手を合わせた。


「いただきます」


 スプーンを取り、一口、口に運ぶ。日露戦争で脚気かっけが大問題となった事を体験している滝沢にとって、カレーは身近な健康食でもある。


「うん、おいしい」


 その一口で、思わず言葉が口を突いて出た。


「ありがとうございます」


 市販のルーを煮込んだだけなのだから亜紀も恐縮してしまうのだが、カレー風味のシチューに小麦粉でとろみをつけたもの、という意識があった滝沢にとって、この味は素人料理ではない。


「タマネギ、ニンジンの甘み、ジャガイモのコク、グリーンピースもいいですね。それに肉は牛肉ではなく……ニワトリですか? そして香りから、イカの出汁だしを感じます」


「イカ?」


 ベクターフィールドがしかめっつらをしながらスプーンでルーを掻き混ぜるが、無論、イカの形はない。


「そうです。イカの塩辛を隠し味にしてるんです。発酵食品は旨味成分が多いからカレーに最適っていわれたんですけど、ヨーグルトとかチーズは入れるのに抵抗があって」


 シーフードカレーの具にもなるイカだから使ってみたのだが、不安のあった亜紀にとって滝沢の言葉は何より嬉しい。


「美味しいです。栄養もある。そして、やはり野菜が柔らかい」


 香りや味は薄いのだが、それとて煮込み料理には淡泊な方が合う。


「おかわりもあります。遠慮せずに食べてください」


 そういう亜紀であったが、滝沢よりもベクターフィールドが早くカレー皿を空にした。


「おかわり」


「よそうのはセルフサービスでお願い」


 亜紀は空気を読めという顔をしていたが。


「へいへい」


 ベクターフィールドは不承不承という顔で席を立ち、二杯目をよそって来たところで一息、ついた。


「漏れても謝罪で済む個人情報だが、意外なところに繋がったぜ」


 その一言は急すぎたかも知れないが。


「繋がった!?」


 思わず亜紀が腰を浮かしてしまうのだが、滝沢が「落ち着きなさい」と窘めた。


の売り上げ記録が流出してたぜ」


「かでん?」


 滝沢は首を傾げたが、察しは悪くない。


「テレビなどですか」


「そう」


 ベクターフィールドが亜紀の持っている32型の液晶テレビを指差した。


「誰が何を買ったかって、あんまり重要視されてないけど、かなり重要だぜ」


「そうなの?」


 亜紀が目を瞬かせるのだが、ベクターフィールドは首を横に振った。


「クレジットカード情報が含まれてないから気持ち悪いで済む、と思うのは大間違いになりかねないぜ。だって、家電は自分に合ったものしか買わねェもん。例えば――」


 ベクターフィールドが冷蔵庫を指差した。


「一人暮らしなら、でけェ冷蔵庫は必要ない。料理する習慣がないなら、冷蔵より冷凍の機能が大事になる。テレビも、デカいテレビは広いリビングがないと置かないだろう?」


 亜紀が持っている家電は、亜紀が一人暮らしするために揃えたものだ。


「つまり、この部屋にある家電を見たら、女の一人暮らし、ワンルームや1Kに住んでるっていうのを探る手掛かりになる訳だ」


「あ!」


 そういわれると、亜紀も繋がった。


「連続窃盗団の情報元って、これ!?」


 亜紀自身がベクターフィールドに手伝わせている案件が繋がるのだ。


「所在、分かるぞ」


 カレーにスプーンを刺しながら、ベクターフィールドはいった。

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