第5話「ランチの行列に並ぶ魔王」

「小さな軽自動車なので、申し訳ないのですが……」


 愛車を前に亜紀は恐縮していた。高級スポーツカーに憧れのある亜紀だが、フェアレディZだ、GT-Rだ、と買える身分ではなく、愛車はコペンだ。


「それ程の有名人という訳でもないので、気にしないで下さい。本当に」


 だが助手席に乗る滝沢に、コペンが悪い車と映るはずもない。滝沢の知っている乗用車は、時速100キロを出す事を目標にしのぎを削っていた。しかも国産の軍用実用四輪駆動車が登場するのは、昭和11年の事。


「いい車ですよ」


 大正時代の人間の目からすれば高性能な部類に入る。1.2リッターのエンジンを使っても33PSも出なかったのが滝沢の時代であるから、660ccで64PSを発揮する性能は未知のものだ。


 走り出せば静音性にも目を引かれる。


「スムーズな加速、安定性、走りながら話ができる程、静かな車内。素晴らしい」


 決して世辞ではない。本当にそう思っているからこその言葉であるから、亜紀も照れてしまう。


「そんな、そんな……。私の知ってる相手に、2.5リットル、280馬力なんて車を転がしてるのがいますよ」


「280!」


 それは滝沢の想像を絶する。


「それよりも、お昼はどうしましょうか?」


 ハンドルを握る亜紀が訊ねたが、店を滝沢が知っているはずもない。


「あぁ、私もこの辺りには不慣れでしてね」


 案内を頼みたいと遠回しにいっているが、店となれば亜紀も不案内だ。


「何か知っているお店があれば良いのですが……すみません。妙な事件を追っているからか、他の事が頭に入りにくくて」


 その言い訳は、少し滝沢の興味を引いた。


「妙な事件……。実は私も、探している事件があります」


 やなぎの行方だ。そういう意味では警察官の協力者が得られた事は幸運だ。


「私が調べてるのは、連続窃盗事件です。空き巣なんですけど、パターンがあるように感じて……」


「空き巣」


 鸚鵡おうむがえしにした滝沢は、どこにでもある事件だと感じつつも、同時にこの景色に相応しいと感じない点に興味を懐いた。


 ――道行く人々に不安そうな雰囲気はなく、このように当たり前のように車を走らせられる時代に、盗みか。


 平成不況が続く街並みであるが、戦争をしていた時代から来た滝沢の目には明るい未来のように映っている。


 だが結論は容易かった。


「貧しいから盗む。懐が貧しくなくとも、心が貧しい者は何かを盗みますね」


 寧ろ、その方が害悪ではないかと思う感性は、亜紀にとってこれ以上になく好ましい。


「そうです! あ、協力してもらってる人がいて、多分、その人だとお店にも詳しいかも。ちょっと連絡しますね」


 トントン拍子に進むものだ、と滝沢も思ってしまうのだが、亜紀が路地近くに駐車する事には違和感が強かった。


「ちょっと失礼します」


 その路地へ入る亜紀だが、「連絡してきます」と告げられても、携帯電話の存在を知らない滝沢には違和感ばかりが強くなる。


「ヨッド・ハー・ヴァル・ハー」


 路地に入った亜紀が、その言葉を告げた。


「!」


 だが同時に滝沢はコペンを飛び出し、亜紀が消えた路地へと飛び込んだ。余人ならばいざ知らず、黒桜に身を置く滝沢である。亜紀が何者かを召喚した気配を感じ取らないはずもなく、また召喚された相手が人ならざる者である事も察知できる。


甘粕あまかすさん!」


 一瞬、滝沢は亜紀を協力者に選んだのは失敗だったのではないか、と思った。召喚術の遣い手は、善良ではない者もいるのだから。


 ――今までにない気配!


 とんでもない者を呼び出したはずだ、と身構える滝沢の勘は当たっている。


 亜紀が呼び出した相手は、魔王の位を持つ男、名をベクターフィールドという。


 だが驚いた顔をしている亜紀の眼前にいるベクターフィールドは呆然とした顔で――、


「戻せーッ!」


 第一声の絶叫は、チラシを手にしたまま発せられた。


「お前、いつもいつも何で昼飯時に、しかも俺が退きならない状況の時に呼び出すんだよ!? 行列が進み始めたところだったんだぞ」


「そんな場合じゃなくて……」


 亜紀は頬を引きつらせながら、ベクターフィールドを落ち着かせようと言葉をつむぐ。まさか滝沢に召喚するシーンを見られるとは思っておらず、二重の意味で慌ててしまう。


「あ……?」


 ベクターフィールドも召喚術を目撃された事は気にしたようであるが、滝沢の顔を見ると……、


「珍しい相手と組んでるな」


 ベクターフィールドはククッと喉を鳴らす、独特な薄笑いを発した。


「あんた、こっちの世界の人じゃねェだろ?」


 亜紀を押しのけ、滝沢に近づくベクターフィールド。


「……分かるのか?」


 警戒しつつ、滝沢が訊ねた。ベクターフィールドのたたずまい、気配、その全てにただならぬ力を感じ取っていた。聖剣ジェラールを持たない身が悔やまれるが、逃げるという選択肢はない。戦闘の放棄は、軍規以前に有り得ない選択肢なのだ。


「え?」


 亜紀も目を瞬かせて滝沢を振り返る。


「ほら」


 そんな亜紀の前へベクターフィールドが開いた手を突きつけ、


「指の間から見ろ。二重露光で撮った写真みたいになってるだろう?」


 ユラユラと揺れている滝沢の姿に、亜紀も息を呑んだ。


 ――じゃあ、私が知らないのも無理はない? 先輩たちは、何で?


 柳が渡ってきた事により、記憶の改ざんが起きている事など知らない。


「あんた、何しに来たんだ?」


 手を下ろしたベクターフィールドは、小首を傾げて滝沢を見遣みやった。


 もし滝沢とベクターフィールドのどちらかに分別がなかったならば、この場で戦闘が開始されていたのかも知れないが……、


「話が長くなるなら、昼飯食いながらにする? ランチタイムで、すき焼きがお手頃価格なんだ」


 ベクターフィールドは手にしていたチラシを見せた。



***



 もう一度、並び直す事となったベクターフィールド行き付けのすき焼き、しゃぶしゃぶの店は、すき焼きやしゃぶしゃぶといった昭和の響きとは無縁の、ブラウンを基調としたシックな空間だった。


「ランチで2500円なんだぜ」


 胸を反らすベクターフィールドであるが、亜紀はしかめっつらを見せ、


「お手軽な値段?」


 ワンコインランチで済ませている亜紀にとって、2500円は夕食ディナーの値段だ。ただし上すき焼き定食には神戸牛が使われているとポップに字が踊っているのだから、ベクターフィールドの言う通りお手頃価格に嘘はないが。


 ――神戸牛……神戸牛ね……。


 だが食べた事がない亜紀は値段を気にしているのだから、牛肉の味など分からない。


「神戸牛を使ってない方は1000円だぜ?」


「まぁ、そっちなら……」


 亜紀は折れて滝沢へ顔を向けた。


「先生、どうでしょう?」


「は、はぁ」


 だが珍しく滝沢が鼻白んでしまう。牛鍋といっていた世代であるが、すき焼きという名称は知っている。知らないのは値段だ。


 ――甘粕さんが鼻白んでいるから高いのだろうが……。


 米10キロが4円の時代を生きてきた滝沢にとって、2500円は遊女を一人、身請みうけする程の大金だった。


「あぁ」


 そんな様子を見て、ベクターフィールドがククッと笑った。こういう事を見抜ける能力がベクターフィールドにはある。


「ゴールデンバット20本が210円だ」


 そういわれればた滝沢とて計算ができる。大正末のゴールデンバットは10本入りで7銭程度。約1500倍に物価が上がったという事は、この2500円は滝沢の感覚でいえば1円67銭となる。


「豪勢ですね」


 贅沢を知らない滝沢にとっては「安くない」ではなく「高い」のだが。


「では、ここは私が――」


 失礼と知りつつも提案する亜紀だったが、滝沢は片手を上げ、


「いえ、ここは私が」


 裏手当と叩かれもするが、非常勤の剣道師範には術科特別訓練員からの心付こころづけがある。大金ではないが、三人分のすき焼きくらいはおごれる。

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