第4話「喪女の婦警が練習中」

 亜紀あきの説明によれば、ここは警察学校で、今日は警察官が義務づけられている朝稽古なのだという。


「特練員が来る日だったからですか?」


 事務室へ案内する道々、亜紀は今日の朝練は一般警察官だけでなく術科特別訓練員じゅつかとくべつくんれんいんが参加していると説明した。日本で唯一、剣道のプロとでもいう存在との合同――例外中の例外という珍しい日だから、見知らぬ男がウロウロしていても仕方がないという判断だった。


「そうですか。心身の育成に、武術はいいですからね」


 滝沢も合わせるのが巧かった。感じの良い壮年紳士は、演じるまでもなく滝沢の素である。


 しかし――、


「ああ、ここにおられた!」


 階段を駆け上がってくる足音と、男の慌てた様子の声には驚かされたが。


「先輩」


 亜紀は自分を探しに来たと思ったようだが、


「見学者が迷っていたので、事務所に案内――」


「何をいってる!」


 滝沢を示した亜紀に対し、先輩警官は目を白黒させて亜紀の腕を引き、滝沢から引き離した。


「!」


 滝沢の目が鋭さを帯びた。記憶の改ざんが起きている可能性があるという死神博士の言葉を思い出し、自分の存在が好ましくないと認識されているのかも知れないと直感したからだ。


 しかし杞憂に終わる。


「バカ野郎」


 先輩警官の怒声は亜紀へ向かった。亜紀の背をバンッと叩き、背筋を伸ばさせる。



「非常勤だが、こちらだ! だぞ! 忘れる奴があるか!」



「え!?」


 今度は亜紀が目を白黒させる番だった。


「失礼しました」


 頭を下げる亜紀。


「失礼しました!」


 その亜紀の頭に手をやり、先輩警官がもっと深々と頭を下げさせた。


「いいえ、構いませんよ。気にしていません」


 これには滝沢も失笑してしまう。先輩警官としては拭いがたい無礼と思ったのだが、滝沢の感覚ではやりすぎだ。


「それに礼が深すぎます」


 従軍経験のある滝沢にとって、礼は屋外用と室内用があり、室内用では10度と45度の2種類だ。45度の礼は棺と国旗、天皇に対する礼だった。


「失礼しました!」


 先輩警官の方は益々、恐縮してしまうのだが、亜紀の方は何度も首を傾げていた。


 ――非常勤の……師範?


 存在している事は知っているが、滝沢の顔に覚えはなかった。警官として人の顔を覚えるのを得意としている亜紀は、非常勤の師範も覚えている。しかも八段は高位だ。



***



 道場に入って上座に座ると、滝沢の目から見ても術科特別訓練員と一般警察官の違いは明確だった。一般警察官は数ヶ月に一度の朝稽古であるから、だらけているのが明白で、対照的に術科特別訓練員は熱が入っている。


甘粕あまかす、来い!」


 そんな中、先程の先輩警官が亜紀を呼ぶのは別だった。


「は、はい!」


 防具を着け、竹刀を構える亜紀に対する滝沢の評価は――、


「様になっている」


 一般警察官である亜紀だが、だらけた雰囲気はなかった。相対している先輩警官の立ち姿も中々であり、先輩、後輩の関係が強固であるとも感じさせられる。


「はぁ! はぁっ!」


 亜紀の気合いの声にも、滝沢は小刻みに頷かされていた。声を出す事は決して相手を威嚇するためのものではない。


 ――丹田式たんでんしき呼吸こきゅうができている。


 ――武道特有の呼吸法で、呼吸を整える効果がある。


 ――まだ腹をへませながら吸い、膨らませながら吐き出すくらいに過ぎないが、実践できるとは、中々……。


 だらけた雰囲気で、惰性で稽古を続けているならばいつまで経っても身に付かない技術だ、と滝沢も唸らされていた。警察学校に通っている間に初段を取る必要があるが、滝沢のいた大正時代の初段と、ここでの初段は意味も重さも違う。


 対する先輩警官にしても、一般警察官ではあるものの、亜紀と同じくだらけて過ごしてきた訳ではない。


「はぁっ!」


 呼吸を整え、亜紀がダンッと床板を踏み鳴らした。


 ――ダメだ。


 だが滝沢の目から見るに、亜紀は呼吸こそ整えているが、が充実していない。


 その状態では文字通り気がはやっているという事だ。


「ッ!」


 先輩警官も分かっている。亜紀が踏み込む先に竹刀を突き出し、迎え突きで機先を制する。竹刀を引かず、残心もないため有効打突となっても一本どころか、技有りとも有効ともならないが、突っ込んでくる相手の機先を制するならば有効な手段となる。


 しかし亜紀は息を吸い込むと、有効打突にならないならば構わないとばかりに突っ込んでいく。


 ――効かないって見せつけてやれば、相手も迎え突きなんてしてこないんじゃねェの?


 突っ込む亜紀の耳には、そんな言葉を向けてきた相手の声があった。


「そこまで!」


 だが滝沢が声を上げ、止めた。確かに機先を制する事ができないならば迎え突きに意味などなくなってしまうのだが、有効打突面ではないとしても、突きが狙うのは喉だ。喉からズレて脇に入ったとしても大怪我をする危険がある。


「甘粕さん、それはいけない。剣気けんき一体いったいとなっていない事を先輩は教えてくれている。そこへ飛び込むのは、蛮勇が過ぎます」


 滝沢の声は柔和なれども叱っている。


 ――戦場ならば正しいかも知れないが、ここは修練の場。


 は必要だがは無用と、滝沢は断じた。


「その通り!」


 先輩警官も滝沢に認められたと胸を反らすが、当の滝沢は亜紀を立たせて向き直り、


「お見受けするに、四段の腕前では?」


「はい! 昨年秋の昇段試験で四段を印可いただきました!」


 見る目も確かだと、先輩警官は益々、滝沢に傾倒するのだが、次に出てた来た言葉には息を呑まされた。


「成る程。では一手ご指南、つかまつる」


 この言葉は、古風であるからこそ凄みを伴っていた。



 稽古を付けてやるという意味ではなく、という意味になる。



 防具を着ける滝沢に対し、皆の手が止まった。術科特別訓練員は当然の事、一般警察官も滝沢の一挙手一投足に意識を持って行かれた。


「ッッッ」


 気圧されている、と先輩警官は感じていた。青眼に構える滝沢は、その八段という肩書きを抜きにしても強い威圧感がある。


 当然の事だ。


 当然の事であるが、亜紀と同じく拙攻せっこうに走った言い訳にはならない。


 ――今ではない。


 滝沢が動く。亜紀と立場を同じくしてしまった先輩警官であるが、結果は違う。


 滝沢の一手は迎え突きではなく、抜き胴。


「一本!」


 審判の声すら弾む、鮮やかなものだった。


「三段以上、高段者に求められる剣道は、後の先の剣道ですよ。これは、相手の打ち込みを待つ事を意味しません。仕掛けずともをかけ、相手が仕掛けてきた後から剣を振るったとしても、先に動作を完成させる事をいいます」


 痛烈な一撃に顔を歪めた先輩警官に対し、滝沢はここでもさとすようにいう。


「迎え突きでは受ける事はできても、応じる事ができなくなります。すり上げ面や返し胴など、応じる剣道を心がける必要があります。拙攻と分かっていても応じられないならば、自分のつくりが甘いのを相手のせいにしている事になるのですよ」


 自分でも些か偉そうだと思う滝沢であるが、そういう言葉を出したくなる爽やかな気持ちが、この平和な道場にはあったのだ。


 丁度、その言葉が朝稽古終了の時間と重なった。



***



「あの!」


 着替えて戻ろうかという段になって、滝沢は亜紀に呼び止められた。


「今朝は大変、失礼しました。素晴らしい思想、技量をお持ちの先生なのに、お顔を失念してしまって……」


 見学者などとんでもない話だった、と恐縮する亜紀であったが、ここは滝沢が逆に感謝したくなった。


 ――協力を求めるならば、その変化の影響が少ない相手を。


 死神博士の話だ。


 ――影響の少ない者とは、その改ざんが起きていない相手です。滝沢さんを知っている集団の中に、知らないという相手がいれば、その人が影響を受けていない、或いは影響の少ない人物です。



 ここでの存在を知らなかった亜紀は、死神博士の言っていた人物ではないか!



「でしたら甘粕さん、親睦を深めるかたわら、昼食でも一緒に如何ですか?」


 誘い文句としても、誘うタイミングにしても、いった滝沢ですら笑ってしまいそうになる。


 ――親子ほども歳の離れた女性に対し、これでは言い寄っているようではないか。


 だが亜紀の方は面食らった様子もなかった。


「はい。喜んで」


 悪い話ではないし、そもそも亜紀には男から言い寄られた経験などない。

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