第2話「一握の砂」

 風呂敷で包まれた仰々しい荷物を持った男が上野駅へ出た頃、丁度、空から雪が降り始めていた。


「ハァ……」


 かじかむ指先に息を吐きかけ、襟巻えりまききを口元まで上げる。


 ――このまま気温が低下すれば、夜明け前には不忍池も凍り付いているだろう。


 時刻は分からない。時計など持っていなかった。最後に食事を取ったのが18時だった事を考えると、腹の減り具合から21時頃だろうか?


 ――どこかで雪を凌がなければ。


 詰め襟の学生服に大津脚絆おおつきゃはんと襟巻きでは、如何にも寒そうだ。また履き物は靴ではなく地下足袋じかたびだった。ただ長靴ちょうかがあれば格好がつくのかも知れないが、地下足袋が長靴に劣る点は保護性能のみ。足場固め、携行性では勝っている。


 そもそも男は自分の格好など気にしていない。大荷物を持って手に息を吐きかけている姿は、日露戦争の後に訪れた、物価の高騰と税金によって逼迫ひっぱくし、何とかするために上京してきた田舎者くらいにしか見られていない。


 誰もが限界を感じつつある世であり、それが男にとっては都合の良い事に誰の記憶にも姿を残さずにいられた。


 ――行こう。


 あててなどはないが、男は歩き始めた。腹拵はらごしらえとはいかないが、時が来るまで雪から身を守らなければならない。



***



「つまり、を二枚並べて、そのカシミール効果? が期待できる力を発揮すれば、並列世界へ行ける、と?」


 確認しようとするつかさに対し、死神博士は「はい」と頷いた。


「そして都合が良いのか悪いのか、今夜は、この冷え込みようです」


 死神博士の視線を皆で追えば、暗闇の中、しんしんと降る雪がある。


「不忍池は凍ってしまうでしょうね。人ひとりが載っても大丈夫なくらいには」


「上野ですか……」


 何が見えると言う訳でもないのに、滝沢の目が上野の方を向く。黒桜に所属している者には、上野は特別な意味を持つ土地の一つである。


「江戸の昔から、東京の鬼門を守っているという寛永寺だが……その実、当時の江戸城本丸から正確に鬼門を計れば、そこは寛永寺ではなく、浅草の浅草寺になる」


 司のいう通りの事象がある。


「そうなんですか?」


 だが死神博士はそういうのだから、今回、その食い違いは関係がない。


「並列世界へのを開ける方法は、余剰エネルギーがどうしても発生してしまいます。その点、水や氷の上というのは便利なのです」


 不忍池が選ばれる理由はそれだと死神博士はいった。


「しかし不忍池以外にも、帝都には池がありますよ?」


 だが夢子の疑問も尤もである。池、沼がつく地名が多いように、江戸幕府以前は湿地帯だった場所だ。不忍池は有名であるが、水辺というだけならばいくらでも存在する。


 しかし疑問は簡単に解ける。


「……知らないのですよ、他に。自分も、彼も」


 田舎者なのだ。死神博士自身、通っているのは旅順りょじゅん工科学堂こうかどうと海の向こう。帝都の情報には疎い。


 男、男と、個人名を挙げない死神博士であるが、そこから受ける感想は、死神博士が男の名前を思い出す事に苦労するといっている事よりも、その背景を想像させられる、という事だった。


 ――うまいですね、トンカツ。しかし今後、口に出来る人は減っていくのではないですか?


 死神博士が口にした言葉の意味を、皆、知っているからだ。物価の高騰と値上げされた税金は、貧しい地方を荒らしに荒らしている。後の世を何年も不況に陥れる事は想像に易く、簡単な洋食に過ぎないトンカツだが、いずれは庶民の口に入らなくなる。


 ――軍に入る事がエリートへの道だ、などと考え始めているという話があるのでは、決して遠い未来の話ではないな。


 司は独り言ですら呟く気にはならなかった。


「……今から上野へ向かい、それらしい男を確保するという訳にはいかないですね」


 滝沢も心得ていた。黒桜は陸軍の特務機関であるが、警察ではない。部隊として、大兵力を備えているという事はなく、上野で人ひとりを、しかも手掛かりらしい手掛かりなしで探し出すには絶対的に人員が足りない。


「不忍池が凍るのを待ち、出向いてきた所を抑える事が良策と思います」


 死神博士の提案に反対する言葉はなかった。


「凍るのは夜明け前でしょうね」


 夢子は置き時計に目を向けた。ようやく日付が変わったくらいの時刻で、冬の夜明けは遅いのだが、それでもゆっくりしていられる時間はないと感じていた。


「でも何故、凍るまで待つのですか?」


 窓の外から室内へと視線を戻した夢子に対し、死神博士は青白い顔を窓の外へ向けたまま、


「余剰エネルギーを水に吸収させるためです。乗れる程、凍れば最高ですが……東京では、人が乗れる程、分厚い氷ができるのは、まず滅多にないでしょう」


 今夜が東京らしくない、室内でも暖房が効ききらない寒波に見舞われているとしても。


 そんな三人へ、湯気の立つティーカップを載せたトレイが差し出された。


「寒いでしょう。紅茶を用意しました」


 トレイを持っていたのは滝沢だった。暖房をかけても、もう一枚、羽織はおりたくなる寒気の中、このまま夜明け前まで待つ身を考えての事だった。


「チョコレートもまんで下さい」


 湯気の立つ紅茶と共に、一口サイズのチョコレートもあった。森永製菓がカカオからの一貫生産を始め、徐々に庶民に味となり、全国への広がりを見せているものの、未だ高級品の玉チョコだ。


「ありがとうございます」


 夢子は礼をいって一つ、手に取るが、自分の口元に寄せるのではなく、死神博士の方へ。


「どうぞ」


 夢子の笑顔と共に差し出されたチョコレートであるが、死神博士は拝み手を見せ、


「チョコは苦手なのです。苦くて……。大福の方が好みです」


「まぁ」


 目を丸くする夢子であるが、死神博士の視線に含まれている光に、口にしたものとは違う言葉を感じ取っていた。


 ――そんな高級品を、食べれない相手もいる。


 死神博士が助けを求めている、この事件の首謀者も、チョコレートなど食べられない身分だ。



***



 甘みとは無縁の、具の何も入っていないうどんをんで、夜明け前という最も気温の下がった上野を男が行く。夜も明けぬ雪の日に、わざわざ出歩く者などいない。周囲に人の熱はなく、ただ白い息が寒々しく感じられるばかりだ。


 うどん玉ひとつ150g程度では空腹を満たす事もできず、空きっ腹を抱えていては寒さもこたえてくるのだが、本当に堪えたのは不忍池に着いてからだ。


 風呂敷包みを降ろし、装置を手早く設置していく中、雪を切り裂いて聞き覚えのある声が飛んでくる。


やなぎ!」


 東京で自分の名を知っている者などいようはずもなく、また聞き馴染んだ声は雪に音を吸収されていても聞き間違えない。


「死神……」


 男――柳の目に死神博士の姿が映った。


 無論、死神博士一人ではなく、司と滝沢の姿もあり、黒い軍服は柳にも思い起こされる名前があった。


「黒桜……」


「左様」


 滝沢が聖剣ジェラールに柄に手を添える。


「ッ!」


 皮肉にも滝沢のよどみない動きが柳にただならぬ予感を与え、えりの内側に手をやらせた。


 ――銃か!


 直感した滝沢が聖剣ジェラールに手をえたまま、一足飛びに柳へと踏み込んだ。決して居合抜きに向く形状ではない聖剣ジェラールであるが、正確無比に剣を抜ける滝沢にとって、反りの有無は関係なかった。


 狙ったのは懐へ突っ込んだ右手であったが、それが幸か不幸か明暗を分けた。


 柳が掴んだものが銃であり、真っ直ぐに手を伸ばしていたらならば右腕を切り落とされていたが、手にしたのは薄い布であり、手を伸ばすのではなく周囲にバラ撒いたのだから、聖剣ジェラールの切っ先は手の甲を斬りつけた程度で済んだ。


「気を付けて!」


 軍刀を抜いた司の鋭い声が飛ぶ。ここに来て白旗もないものだ。


 ――何かある!


 それは直感ではなく経験から来る推測であるから、外れない。


 投げられた布地は宙で丸くなり、続いて人の形を取る。


「霊です!」


 その正体を死神博士が告げた。


「エネルギー保存の法則により、何もない場所にエネルギーは存在できません。そのを作るものです」


 それも柳や死神博士が研究していたものの副産物だった。


 怖れるに足らないという死神博士であるが、うかがれない事柄がある。


「雑霊ならば、そこら中に――」


 どこにでもいる霊ならば、確かにそうだろう。司や滝沢に敵う霊など、早々、存在しようはずもない。


 だが上野という土地は、雑霊だけが漂う場所ではなかった。


「!?」


 霊が振り下ろす剣を受けた滝沢が、その手に感じた重圧は恐るべきものがあったのだから。


「彰義隊を、霊として扱ったな!」


 司が気付いた。ここは目と鼻の先に、英霊の墓所があるのだ。半日で蹴散らされたとはいえ、当時、白兵戦に於いては最強の男たちであった事は確かだ。


「英霊だぞ!」


 死神博士が声を荒らげると、柳も同様に声を荒らげる。


「だからどうした! 憂国の志士だったからこそ、今の世を我慢できると思う方がどうかしている!」


 雑霊として扱ったのではなく、現在の守るべき国を見出せなくなっている世を憂える存在として呼び出したのだ。


「確かに、学内屈指の秀才といわれた柳なら……」


 難しい技術と見極めが必要だが、難なくこなせるはずだと死神博士は歯噛みした。


「ハッ!」


 それに対し、柳が答えたのは――、


「何が秀才だ! 本当の秀才は、国に保護されている!」


 怒声と――、


「俺が旅順工科学堂で学べているのは、大陸で父の、旅順で兄の命を引き換えにした金と、お袋と姉が、身体を売った分だ!」


 嘲笑だった。


 一家全員を犠牲にして掴み取った未来だ。


「それが、国が舵取りを誤って崩れていく? 冗談ではない!」


 生々しい感情、それも憎悪。


 その感情の強さ故に、英霊も答えくれている。


 引き離しにかかる英霊たち。


「これは、まずいですね」


 滝沢も英霊に劣らない力を持っているが、数を捌こうとすれば手がかかる。


 故に眼前に、開かれた。



 ――死神博士が怖れた瞬間だった。



 光の中へと柳は消えていった。

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