宵へ向かう星-剣客×喪女×魔王-

玉椿 沢

第1話「旅順からの来客」

樋口ひぐち少佐は御在室ですか?」


 その日の夜、聖都ホテルを訪れた一風変わった男を出迎えたのは、燕尾服を纏った初老の男、滝沢たきざわであった。


 ――帝大の学生だろうか?


 滝沢は無礼と思いつつも、その男の素性を探ろうとしてしまった。男の身長は180センチに届くのだから、大正末期という時代を考えれば相当な長身。それが白い背広に黒い外套という出で立ちであるから、相当に目立つ。しかも外套がいとうの裏地は赤だ。


 生憎と不在であると伝えると、男は「そうですか」と短く答えたが、しかし立ち去る気配はない。


 小首を傾げるような仕草をする男に対し、滝沢はたまらず「あの……」と気の抜けた声を掛けてしまうのだが、男は「失礼」と詫び、


「人の名前は、覚えるのも思い出すのも不便なので苦手で……」


 聖都ホテルの支配人として様々な人物と接してきた滝沢であるが、この青年は独特な言葉遣いをするものだと思わされた。


 少佐は決して高い地位ではないが、後にハルピン特務機関の長となる樋口は多忙であると青年も心得たもので、


渡辺わたなべ中尉ちゅういか、平井ひらい准尉じゅんいならば?」


 その二人ならば在室であるが、樋口は兎も角、後の二人は特別な意味を持つ組み合わせだ。



 帝国陸軍特務機関黒桜。



 帝国陸軍の創設とほば同時期に設立された、皇族や高級華族を霊的障害から警護するためにつくられた組織である。


 だが陸軍内部ではクロという隠語で呼ばれる彼らは、その呼び名の通り黒い軍服が制服であるが、今、眼前に立つ男は外套こそ黒いが身に避けているのは軍服ですらない。


「失礼ですが……」


 名前を尋ねられると、これまた男は首を傾げた。自分の名前すら思い出すのに苦労するのか、と滝沢は苦笑いさせられてしまう。


「矢野といいます。あまり呼ばれないもので、自分でも忘れてしまうのです」


 名字しか名乗らないのは、名前はそれこそ誰も呼ぶ者がいないからだろうか。


旅順りょじゅん工科学堂こうかがくどうで電気工学を修めていますが、専攻は物理と数学。特にベクトル場を」


 学生であるという滝沢の見立ては正しかったが、しかし数学も電気工学も、どうも黒桜とは繋がらない。


「名前は、専攻は


 しかし愉快そうにいう言葉に、滝沢の頬も幾分、緩んでしまう。


 そして最も説得力を持たせたのは、不意に現れた渡辺中尉――つかさの言葉だった。


「人呼んで、死神博士」



 死神博士。



 成る程、そう呼ばれるのももっともだ、と誰もが思う。背が高い矢野だが、青白い痩せた顔は黒い外套と相まって、酷く顔色が悪く見える。この、どこかピントの外れた話し方も同様に、不気味さを感じさせられる点が多い。


「渡辺中尉」


 死神博士が一礼すると、つかさは柔やかに片手を上げて玄関までやってくる。果たして二人が如何いかなる縁で知り合ったのかは聞けなかった。


 司は居室に招くと在室であった平井夢子准尉を呼び、滝沢にも残るよう告げた。


「面白い説を唱えている学生から、力を借りたいと申し出があったと聞いた」


 誰からの紹介であるかは、やはり司の口からは語られない。そこが問題ではないからだ。


「封印と、討伐の是非について」


 司のいう「面白い説」は、提唱している死神博士から語られた。


「それは……?」


 考えた事がなかった、と夢子が首を傾げた。この二つが、どういった基準で運用されているかなど、それこそ黒桜でも考えた事がある者の方が少数派ではないだろうか。


「僕も考えた事がなかった」


 司も同様だ。封じられている妖怪、モンスターが、何故、封じられなければならなかったのかを考えた事はない。命を奪うのが忍びないから、また滅する事ができなかったから仕方なく封じているのではないか、という推測だけでも十分であったからだ。


「最近、向く、向かないという話を見つけました。基礎定数が崩されるかどうかで使い分けるのが正しいのです」


「基礎定数?」


 聞き慣れない言葉が夢子の首を傾げさせた。


「基礎定数。エネルギー保存の法則、質量保存の法則などに代表されるように、宇宙開闢かいびゃく以来、この世の原子数は変わっていないという事です」


 死神博士の解説は、酷く曖昧だった。


「黒桜で扱っている事件には、異界からの悪鬼、悪神の召喚もあるのでしょう?」


「ありますな」


 滝沢が答えた。


「その場合、どうしています?」


「どう……?」


 死神博士の問いに対し、滝沢も回答に困った。標的の特性、隊員それぞれの適性に応じて決定されていると思っていた。


「まさに、基礎定数です。基礎定数を乱すような、異界から召喚されたものは、同じく異世界へ封印を。この世で力を持ったならば討伐が成されている風に思います。事実、歴史に残るような大物、酒呑童子や大嶽丸、悪事の高丸などは討伐されてます。しかし逆に、九頭竜川流域に散見されるような、星から来た神などは封印された、押し返したという記述があります」


 死神博士は鞄に入っていたノートを示した。巻き舌でまくし立てるように話す口調とは裏腹に、ノートの字は整った楷書体だった。


「考えた事もなかった」


 司も同感だ。


 とはいえ、責められる点ではない。ピラミッド型の組織というものは、円熟していけば台形となる。責任や職務が一人に集中しない上、司も黒桜の全容を知れる立場にはいない。


「その異界の研究が、死神博士の研究ですか?」


 不意に出て来た夢子の言葉に、皆の視線が一斉に集まる。


「いえ、物理学と数学が専攻という事は、そこに繋がるのでしょう?」


「はい、その通り。この異界というものは、この世とは異なる周波数を持っていると仮定しました」


 死神博士の長い指がノートを捲っていく。


「その太陽の電波に似ている波を三角関数で表しました。そのズレが異界からの電波だという証明にもなるはずだ、と。太陽の電波に似ているという事は、波と粒子の両方の特性を持ち、そしてズレがあるという事は、軌道を逸れた光の量子が存在するはずだ、と考えました」


 それらの理論が書かれているのだろうが、ここからは悪筆かどうかではない理由で皆、分からない。


「それをとらえ、二つの世界の間にある……分かり易くいうとを引き延ばせば、異界を覗けるが作れました」


 ただ死神博士の言葉は、皆、聞いていた。


「ました……? 作ったのですか?」


 夢子が身を乗り出すのだが、死神博士はピタリと手を止めた。


「腹が減った」


「は?」


 思わず夢子も頓狂とんきょうな声をあげてしまう。


「腹が減ったな……。気が付けば、今朝から何も食べていない」


 こういう支離滅裂とも取れる言動も、彼を死神博士と呼ばせる理由なのだろう。


「では、夜食を用意致しましょう」


 滝沢が苦笑いしつつ席を外した。



***



 支配人である滝沢であるから、自ら厨房に立ち、包丁を握る必要はない。


 だが今夜は時間も時間であるし、厨房の火を落とし、料理人たちも帰してしまっている事もあり、滝沢自らが包丁を取った。


「さて……」


 冷蔵庫を見ると、立派なヒレ肉が残されていた。雑穀ではなく、トウモロコシを餌に育てた特別なブタだ。


 そのヒレ肉を分厚く切り分け、パン粉、小麦粉、卵を手に取る。


 作ろうとしているのはトンカツ。通常は時間短縮の意味もあり、小麦粉を卵で溶いて作るバッター液を使うのだが、今回は使わない。


 ――口当たりが変わりますから。


 バッター液を使った方がサクサクとした食感になるという者もいるが、そうではないという者もいる事を、滝沢は心得ていた。


 何より死神博士の神経質そうな話し方から、そういった工夫を手抜きと思う可能性がある事を見抜いていた。


 小麦粉、卵、パン粉と順にまぶし、十分に温まった琺瑯引きの片手鍋に入れる。この油の温度も重要で、タイミングを見計らって火を止める事で調整する。


 付け合わせは千切りにしたキャベツ……と行きたいところだが、ここは白菜を選んだ。繊維に沿って細かく刻み、小さじ3分の2程の塩を振り、揉む。そうする事で、白菜の持つ甘さが際立ち、トンカツソースの辛さによく合う。


 味噌汁は白色甘味噌を使う。単語は関西弁、イントネーションは京言葉と、聞く者にとってちぐはぐな印象を受けてしまう死神博士は、瀬戸内の方言を話している。ならば白味噌、特にこうじの多い甘口の味噌が多い地域出身だ。


 白飯、トンカツ、付け合わせに軽く塩もみした白菜に味噌汁――。


「これはうまい」


 がつがつと掻き込む死神博士であるから、滝沢は正解を引いた。


「所で、死神博士。そのを、本当に作られた?」


 食事をしながら話すのも失礼かと思ったが、司も好奇心の方が勝った。


「はい。特にを二枚、使って、カシミール効果を利用した場合、を開ける事ができるのですね」


「あける……?」


 司も「開ける」とすぐには字が浮かばなかった。


「その、パラレルワールドへ行き来できる訳です」


「パラレルワールド……並行世界?」


 異界へ移動する窓――夢子はハッと口元を押さえた。


「パラレルを並行というのは、少々、語弊が出て来そうですね。こう、決して交わらないのが並行で、また電池のパラレル接続といえば、こうL字になっていても良いのですから、並列世界という用語を私は推しています」


 死神博士はハハッと笑うが、それこそどうでもいい。


「では相談事というのは、そのの事ですか?」


 司が水を向けると、死神博士は食べる手を止めて「はい」と首を縦に振った。


「うまいですね、トンカツ。しかし今後、口に出来る人は減っていくのではないですか?」


 死神博士の言葉に、皆、返答を詰まらせた。


 日清戦争、日露戦争と立て続けに凱歌をあげた大日本帝国であったが、それに費やした戦費は、日清戦争で国家歳入の3倍、日露戦争に至っては8倍だった。それ以上に、日露戦争では賠償金が取れていない。


 いずれ訪れる不況の足音は、皆、感じ取っている。


「つまり、並行世界……いや、並列世界へ足を伸ばそうという者がいる?」


 司の問いに、死神博士は首肯した。

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