第43話 待ち望んだ暮らし

 トントントン。トントントン。規則正しい音が台所から響く。この光景も、なんだか久しぶりな気がする。


 セルシオとヤミールはもう村の中に居る。だからこの部屋にはクロエと2人っきりだ。正確に言えば、今もシャーリィが壁に張り付いているのだが、彼女は真昼のカブトムシのように大人しかった。


 これは気まずいというか、気恥ずかしいというか、こそばゆい。待ちに待ったクロエとの日々は、実際迎えてみるとソワソワして落ち着かなかった。


「ねぇ、クロエ」


 手持ち無沙汰で声をかけてみた。


「ひゃう!?」


 奇声とともに包丁がグサリと深い音をたてた。


「ごめん急に話しかけたりして! 大丈夫!?」


「はい、怪我はありません。でもおイモさんを切るのに失敗しちゃいました」


「それくらい良いよ。平気平気」


 まな板の上には、切り揃えられたジャガイモの隣に、歪な角切りが転がっていた。内心で安堵すると共に、シンクの洗い物に手を伸ばした。


 会話はやはり弾まない。そのせいか作業だけが順調に進む。オレは調理器具の水切りまでを終え、クロエも下ごしらえを完了している。キレイに切り分けられた猪肉、ジャガイモ、人参や玉ねぎ。今晩は汁物になるらしい。


「今日はトンボとか、そういうのは入らないんだね」


「季節柄ですよ。今はどこを探しても見つからないと思います」


「そりゃそうか。外はだいぶ肌寒いもんな」


「今からでも獲ってきましょうか? くまなく探せば一品分くらいは見つかるかもしれません」


「いやいや。このスープだけで十分だよ」


 馴染みきった食材があるんだから、わざわざ虫を追加する意味もない。料理を続行してもらう事にする。


 鍋の方は手際よく進められていく。角切り野菜を湯につけて火を通し、薄切りの玉ねぎ、最後にスライス肉を投じていく。アク抜きしたら乱切りの葉物。これは臭み取りなんだそうだ。


「村のおばさんにレシピを聞いたんで、たぶん美味しく出来たと思います」


 お鍋のフタを開けばホワホワっと湯気が浮かんだ。鼻腔が暖まると共に、濃厚な香りがヨダレを誘う。


「味噌が欲しくなるな」


 具材からして塩味より味噌風味が合いそうだ。


「味噌って、キノチトで売ってるやつですか?」


「えっ。存在するの?」


「あの塩辛い調味料ですよね。北の方で買えると思いますよ。キノチト、キャスリーバ、マーグーンのどこでも」


「そうなのか。知らなかった」


「地方によって茶色だったり赤色だったりしますけどね、どっちも美味しいと評判ですよ」


 喋る間に食器に盛り付けられていく。主食は小麦パン。丼にはふんだんの猪汁。眺めるだけで、胃の方から押し寄せる催促が激しくなった。


 クロエの着席を待ち、そして手を付けた。スプーンで冷ますのは程々に、まずは一口目。アッツアツの猪肉、ほっこりジャガイモが口の中で踊り狂う。


「あっついコレ。でも美味い!」


「本当ですか? 良かったぁ」


 薄くスライスした肉は絶妙に柔らかく、ちょっと噛んだだけで解(ほど)けるのに、豊かな脂を舌に残してくれた。強めの塩味も食欲をそそる。汁の染み込んだジャガイモは絶品だし、その一方で、人参と玉ねぎの甘みが絶妙な変化を生み出していた。 


 食べ進めるほどに和らぐ緊張感。クロエが浮かべる笑みも、随分と自然なものになっていた。不意に視線が重なる。特に言葉はなく、互いに笑顔を浮かべた。この何気ない瞬間が不思議と尊く感じられた。


「シンペイ様ぁ。シャーリィにも欲しいですよぉ」


 壁をカサる少女が恨み言を漏らした。


「お兄ちゃんとこ行ってきなさい。村でもそろそろ晩御飯になる頃だ」


「いえ、それは出来ないのです。シャーリィが眼を離した隙に、すんごい事が始まったら大変です」


「子供が変な事を気にしなくて良いの!」


 腕輪でフレッドを呼んでみた。すると彼は頼もしくも速攻で現れ、妹を抱きかかえた。


「ほら行くよ。ちょうどご飯になるってさ」


「兄さん離して! シャーリィは監視しなきゃいけないんです!」


「今日は生姜焼きだってね。楽しみだね」


「ううっ。シンペイ様、食べ物に釣られるシャーリィをお許しください……」


「食べ盛りが妙な気を遣うなって。フレッド、任せたぞ」


「ごめんね。邪魔をしちゃって」


 こうして兄妹も立ち去ると、本格的に2人きりになった。それでも、ついさっきに比べたら落ち着いたもんだ。


「クロエ。お風呂に入るよね」


「いただいても良いですか? 実を言うと、温かいお湯に浸かるのが気に入ってて」


「アハハ。まぁ冬場に真水は辛いもんな」


 お風呂の用意はワンタッチ。雑談で暇を潰すうちに準備は整った。


「先に入ってきて良いよ。着替えも用意しておくから」


「そうですか? ではお言葉に甘えて」


「じゃあごゆっくり」


 この時、失敗したと思った。つい着替えを、だなんて安請け合いしたが、準備なんか無い。あるとすれば面白Tシャツくらいで、そんな物はムードをぶち壊しにする事請け合いだ。


「マシなやつ、比較的マシなヤツは無いか……」


 部屋の隅に鎮座するダンボール箱を逆さにして、忘れ去られた何かを求めて探しまくった。だが無い、無い、どこ探しても見つからない。時間の猶予はどれくらいだろう。クロエは割と手早く済ませるタイプだ。じっくり品定めする余裕などあるハズもない。


 やがて、遠くでバタンと音が鳴る。早い、もうあがったのか。仕方なく眼の前のシャツとジャージをひっ掴んで急行した。


「遅くなってごめんよ。良かったらコレに着替えてみて」


 扉の隙間から手を差し入れ、服を手渡した。何の警戒心も無く受け取ってくれたらしい。


「はぁい。ありがとうございます」


 愛想の良い返事がすると、やがて脱衣所が開かれた。


「どうですか。ちゃんと上手く着れてますかね」


 クロエが身にまとうのは、下半身にカーキのジャージ。生地は厚く保温性が高いので、冬場でも快適だろう。そして問題は上の長袖Tシャツ。黒字に白文字で『よう腐ってりあ』と書かれており、端っこには不貞腐れた子犬が描かれている。


 よりによってコレか。咄嗟とはいえ、こんなものを手にした自分を呪いたい。


「それじゃあ代わってくれるかな」


「はぁい。ごゆっくりどうぞ!」


 次はオレが入る番だ。疲れた身体を湯に沈め、存分に温まったら、アチコチを丹念に洗う。


 オッサン特有の臭いはどこからだ。耳の裏、頭皮、肘のカサカサするとこ? 片っ端から洗って臭いを排除排除。切ったばかりの爪にも黒ずみが見える。それもキレイに、きったねぇのを排除排除。


「よし。こんな所だろう」


 ちょっとだけ爽やかさを増したオレは、風呂からあがると寝間着に着替え、リビングへ向かった。


 その時クロエは、窓から夜景を眺めている所だった。


「どうだい。キレイかな」


 胸元のプリントには目を向けず、そっと隣に立った。


「ええ、とっても。星がこんなにも」


 窓越しに見上げた空は、確かに美しいものだった。宝石を散りばめたかのようで、月が無い点を除けば、リゾート地で見るものと比べて遜色は無い。


 口数は自然と減った。だが気まずさは無い。何かのタイミングが迫るのを感じ、言葉を失っているだけだ。


「じゃあ、そろそろ行こうか」


 クロエがぎこちない動きで頷く。今宵、オレは喪失する。その代わりに極めて尊い信頼と実績を得るのだ。


 緊張するなんてもんじゃない。だから先導するオレの手足が、左右同士で揃って動いてしまうのも、仕方のない話なのである。

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