第8話 夜通しの大激闘

 風呂の後はいよいよ疲れが重たく感じられ、強い眠気が襲ってきた。それはクロエも同じらしく、7時を過ぎた頃には眠ることになった。


 さすがに寝所を共にする訳にはいかない。クロエはここで良いと、リビングの床に寝そべり、早くも寝息を立て始めた。頭に巻いたタオルもそのままだ。髪を乾かす事すら忘れるのだから、相当に眠たかったのだろうと思う。


「このままじゃ風邪引いちまうかもしれないな」


 寝室には毛布が2枚ある。片方を手にするなり彼女の側へと寄った。月明かりが照らし出すのは安らかな寝姿。そして、心奪われる程の曲線美だった。


「すっかり安心しきってるんだろうな……」


 警戒心が微塵も感じられない。しかも既に熟睡してるらしい。


 これはもう、ヤッてしまって良いんじゃないか。やる事やってしまっても、許されるんじゃないか。一瞬だけ悪意が脳裏に過るなり、胸の奥で活火山を抱いたような衝動が沸き起こった。血の巡りも激しく、鼓動の音が耳にうるさいくらいだ。


 それから眼が吸い寄せられたのは胸元だ。色気の無いプリントは、未知なる曲線によってたゆみ、膨らんでいた。感触はどうなんだろう。柔らかいにしても、どれくらいに柔らかいのか。試すなら今がチャンス。女に無縁だった半生を振り返れば、今夜を逃すのはあまりにも勿体ないシチュエーションだった。


「うぅん……」


 甘ったるい唸り声。思わず飛び退(すさ)る。今のは寝返りを打っただけで、目覚めてはいなかった。思わず安堵の息が漏れていく。


「へへっ。驚かせやがって……」


 その時、クロエの寝顔が眼に映った。月明かりがあどけなさを照らし、何故か胸がズキリと痛んだ。そうして蘇るのは昼間の光景だ。矢継ぎ早に起きた出来事の数々には、いつも彼女の笑顔が寄り添っていたのだ。


 思えば、行きずりのオレに随分と心を開いてくれたもんだ。無邪気な微笑みで、魔術師様と呼んで慕ってくるのだから。それだけでもオレの孤独がどれ程和らいだか計り知れない。


「……この信頼は裏切れないよな」


 胸の衝動は既に鳴りを潜めている。あの荒々しさが嘘みたいに、今は湖の水面のような静けさを取り戻していた。


 毛布をかけてサッサと戻ろう。そう思ったのだが……。


「な、何だコレは!?」


 ふと視界に入った自分の右手に驚かされた。手は不自然なまでに開かれ、指も関節を曲げて絶妙なカーブを描いている。例えばボールやお椀なんかを握りしめるのに最適なフォームだと言えた。


 その手が今、ゆっくりとクロエの身体に迫りゆく。獲物を狙う蛇のように、静かに、そして狡猾に。


「やめろ、やめてくれ」


 オレの意思に反して、腕は伸び続ける。これが理性と本能の争いというやつか。聞きしに勝る激戦は緩やかに、意図せぬ方へと流されていく。


「クソッ。オレの言うことが聞けないのか、右腕よ……!」


 なおも右手(よくぼう)は進む。左手(りせい)では制御が追いつかず、劣勢を覆せる気配はない。ミリ単位ではあるものの、着実にクロエへと迫っていた。


「良い気になるなよ、当方に秘策アリ!」


 使ったのは歯だ。右手親指に噛りつく事で進撃を阻み、楽園(クロエ)から離す事に成功する。


 しかし、これからどうしたもんか。気を抜けばまた右手が野獣のような暴れるかもしれず、余談を許さない状況にあった。だから親指も口に咥えたままにせざるを得ない。


(よし、まずは心を落ち着けよう)


 そうして始めたのは瞑想だ。詳しくは知らない、というか聞きかじったレベルの知識だが、何もしないよりはマシだろう。


 その場に腰を降ろし、何となく試してみる。ちなみに右手首を左手でつかみ、親指は口に咥え、足はアグラという姿勢だ。口から手を離すとか寝室に逃げ帰るのは、眼の前の危機が去ってから。今は僅かな気の緩みすら許されない。


(ダメだ……。全然落ち着きそうにないぞ)


 どれだけ時計の針の音を聞いただろう。手に宿る力(じゃき)は和らぎを見せず、今もなお暴れ回る機会を窺っているようで、猛々しい鼓動を打ち出している。


 やはり、あいまいな知識では役に立たないのかもしれない。ならばいっそ寝てしまえば良いと思い、羊を数えてみる。しかし、それすらも無意味。何千匹の羊を連れたとしても、溢れ出る欲望を前には無力でしかなかった。


(こうなったら、持久戦しかない……)


 オレはそのまま座り込み続けた。胸の中でひたすらに羊を量産しながら、好転するのを心待ちにした。いつまでも、いつまでも、気が遠くなる程に。


 やがて朝日が昇り、室内がゆっくりと明るくなっていく。まだ気は抜けない。意識が遠のく感覚がする。それでもまだ気を抜いてはいけない。失敗とは勝利を目前に罠を張るものだから。


 部屋が明るさを増す。眩しい。朝日がふんだんに降り注ぎ、勝利を称えるかのように暖かだった。やがてクロエの発した掠れ気味の挨拶によって、真夜中の激闘は終わりを告げたのだ。


「ふあぁ。おはようございますぅ」


 楽園(クロエ)は目覚めた。これでもう右手(もみしだき)に怯える必要は無くなった。


「魔術師様、何をなさってるんです?」


 当然の疑問だと思う。


「これは、あれだ。精神修養……」


 拡大解釈をすれば、嘘ではない。


「随分早起きされたのですね。私は全然気が付きませんでしたよ」


「いや、夜通し……」


「ええ!? もしかして寝てないんですか?」


「うん、だから、ちょっとだけ寝させて……」


「魔術師様!?」


 白んじた意識が急速に遠のいていく。眠りに落ちる寸前、頬に柔らかいものが触れた気がするが、それが何なのかは良く分からなかった。


 それから一体どれだけ時間が過ぎただろう。微かな物音に眼を覚ますと、頭にボンヤリとした温かみを感じた。人肌に心地良い具合が、大きな安らぎを恵んでくれるようだった。


「良かった。具合はいかがですか?」


 霞む瞳が焦点を掴もうとしてモタつく。やがて視界が定まってくると、クロエの顔が間近に見えた。態勢からして膝枕をされているらしい。


「オレは、寝ちまったのか」


「そうですね。急に気を失って驚きましたけど、気持ち良さそうな寝顔でしたので様子を見てました」


「それで膝枕を? 痛くないの?」


「大丈夫ですよ。そんなに時間は経ってませんから」


 そこで投げかけられた微笑みは、どこまでも清らかで、そして尊いものだった。まるで美を司る女神、精霊、愛天使に妖精。どれも当てはまるようで有りつつ、一致まではしない。それはきっと、彼女が唯一無二の存在だから。


「クロエ。君の事を絶対に守ってあげるからね」


「えっ、突然どうしたんですか!?」


 そう、必ずや守り通してみせると、心に固く誓った。外をうろつく魔獣からも、そして罪深きオレの右手からもだ。


 起きる前に、少し寝返りを打って姿勢を変えた。頬に暖かくも滑らかな感触が伝わる。これは約得ではない。クロエの足に頬ずりした訳ではなく、顔面でフトモモを堪能したかった為でもなく、ちょっと背中の痛みに堪えがたくなったせいだ。


 だからこれは変態行為ではない。オレはクロエだけの騎士様なのだから。


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