第7話 思わぬ大失態
「とりあえず入って、どうぞ」
「失礼しまぁす……」
生まれて初めて女性を連れてきたとあって、やたらと緊張させられた。そのせいで解錠するだけなのに上手くカードが刺さらず、妙に手間取ってしまった。もっとスマートに、自然な動きをと思えば思うほど、身体は真逆の反応を示してしまう。天の邪鬼ボディめ。
しかし、オレ以上の緊張を強いられたのはクロエだろう。眼にする物の全てが目新しいようで、頻繁に左右を見回しては足を止めてしまう。さっきもエレベーターを呼び出した時なんか、中々足を踏み入れてもらえず、ちょっと苦労させられたもんだ。
「ここで靴を脱いで、中に入る時は素足になってね」
「分かりました。靴を脱ぐんですね」
クロエの靴は底に革紐が着いていて、それを足首に巻きつけるという作りをしていた。着脱は簡単でも、真冬なんかは辛そうに見える。
「さてと。軽く説明すると、手前のドアからお風呂、トイレ。突き当りがリビング兼キッチン。その奥には寝室。他にも予備の部屋や物置があるよ」
「り、りびんぐ……?」
「住んでるうちに覚えるさ、おいで」
とりあえず寛(くつろ)ぐ為にリビングへ連れてきたのだが、そこでもクロエは硬直してしまった。
カーテンの隙間に見える景色を凝視したかと思えば、今度は備え付けの家具にも驚きの眼を向けている。他にもガラステーブルの板面に自分の顔を移してみたり、ソファを指で突っついてみたりと、彼女なりの好奇心を揺さぶっているようだった。しきりにホエェと、感嘆の息みたいなものも漏らしている。
そんな中で取り分け興味を惹いたのが、やはりというかテレビだった。
「あの、これはどういった魔術具なのでしょうか? 鏡にしては暗いですし」
説明を求められると困る。仕方ないので、とりあえずDVDを再生してみる事にした。ここで萌えアニメを流す勇気は無い。結局選んだのは、躍動する野生動物や風光明媚な景色を収録した、当たり障りのない物だった。
この手の作品との出会いは数年前。仕事で酷く病んだ頃に買い漁ったものだ。僅かな休日に、ただボンヤリと眺めた記憶が蘇る。今はその経緯が活かされた瞬間だと言えそうだ。
「これは、もしかして……!」
クロエが画面を見て驚愕した。オレは返答に期待する。『箱の中で動物が生きてる!』みたいな、テンプレめいたフレーズを。テレビを知らない者100人が言うであろう言葉を待って、ジッと見守った。
「通信板です! 大神殿とか、魔術師ギルドにしか無いと言われる水晶の板じゃないですか!」
違った。全く予想しない言葉が返ってきてしまった。
「うん、まぁ似たようなものじゃないかな」
とりあえず合わせておく。
「凄い……。お家にこのような物があるだなんて、魔術師様は貴族様でもあるんですか?」
「確かに、貴族っちゃあ貴族だよね」
ただし頭に『独身』が付く。語弊が無いわけでは無いが、クロエから尊敬の眼差しを貰えたので良しとした。
「ところで、お風呂は入るよね?」
湯張りのボタンを押しながら尋ねてみた。
「お風呂って何ですか?」
割と想定内の返答がある。でも、それしきの事で驚く段階じゃない。
「身体を汚れを落とす事だよ、泥とか垢なんか」
「水浴びですか。それなら小川や湖があれば入ってきますよ。井戸でも大丈夫です」
「これからはそんな苦労しなくて良いぞ」
「どういう事でしょう?」
「テレビを見てるうちに用意が出来るよ。もう少し待ってて」
クロエは訝(いぶか)しむが、その様子もすぐに消えてしまった。何せ画面ではクジラの潮吹きという、だいぶ見ごたえのあるシーンに差し掛かったからだ。これには大興奮したらしく、逐一キャアキャアと微笑ましい反応を示してくれた。幼い姪と似たようなリアクションに、思わず心が温まる。
「さてと、そろそろ沸いたな。ついてきて」
風呂場へと誘導してみた。脱衣所からドアを開けると、心地よい程度の熱気が肌を打つ。湯温も丁度。この世界でも問題なく入浴が出来そうだ。
ちなみにクロエは中の様子をつぶさに観察し、熟考するように押し黙った。それからしばらくして。不敵な笑みを浮かべつつ、こんな事を言い出した。
「もしかして、ここで薬の調合をされるのですか?」
「違うよ!? 身奇麗にする場所だって言ったでしょ」
「そうなのですか? てっきりお湯で魔獣の肝でも煮詰めるのかと……」
「これは身体を暖める為のものなの!」
とりあえず説明に入る。シャワーやらシャンプーはハードルが高いだろうから、固形石鹸を渡してみるとスンナリ理解してくれた。脱いだ服はカゴに入れる事まで教えたところで、クロエを置いて脱衣所を出た。
しかしオレにはまだ仕事が残っている。クロエに着替えを用意しなくてはならない。女物の服なんか一つもないのは言わずもがな。だからオレの私物を貸す形になるが、小柄な彼女に合う物となると、それも難しい。
「もうコレで良いや」
悩んだ末、酷くテキトーなものをチョイスしてしまった。さすがに怒られるかと不安が過る。でもクロエなら嫌がらないという気もして、多少の罪悪感とともに新たな衣服を脱衣所に置いた。
それから待つことしばし。風呂の方からオレを呼ぶ声がする。タイミングからして湯上がりだろうが、やっぱり用意したものは不評だったみたいだ。
「どうした。別の服が良い?」
ドア越しに問いかけてみると、返答は違うものだった。
「着方がわかりません」
そこからか。脱力する心を宥めつつ、ドア越しに説明をした。
「黒い布は上に着るものだ。丸い穴が3つ空いてるけど、一番大きなやつに頭を通すんだ。両端の小さめの穴にはそれぞれ腕を通してくれ」
「うんと……出来ました!」
「ベージュの布は下に着てくれ。腰のサイズが合わないだろうから、紐で調節するんだ」
「はい、着れました!」
「よし。ちょっと入るぞ」
ドアを開けてみると、シッカリ着こなした姿を確認した。サイズも余り気味で、七分袖がフルサイズのようになっているが苦しそうには見えず、機能面をクリアしていると思われる。しかしこうして改めて眺めると、罪悪感にも似た感情が込み上げてきた。
「やっぱり止めときゃ良かったかな」
下のハーフパンツは無難だとしても、やはり上半身に問題がある。何せ黒地Tシャツの胸元には「溢れ出る煩悩」と逞しい白文字が描かれているのだから。クロエには決して読めない文字だとしても、流石にどうよと思わんでもない。
ちなみにこんな物をいつどこで、そして何のつもりで買ったのかは覚えていない。恐らく数年前、ストレスによる病み期での事と思うが、経緯は記憶からスッポリと抜け落ちていた。
人生の中に産み付けられたブラックボックス。そんなものを今ここで垣間見えようとは、いったい何の奇縁なのやら。
「どうでしょう、ちゃんと着れてますかね?」
「お、おう。バッチリだぞ」
「それにしても、胸にある模様は不思議な何かを感じます。もしかして、何か魔術的な意味があるのですか?」
真実を教える訳にはいかない。
「うーん。有るような無いような。ちなみに風呂は空いたんだよね?」
「あぁスミマセン。私は失礼しますね」
追求から逃れる気持ちから話題を切り上げた。退室するクロエを見送るなり、入浴を始めた。
こだわりの風呂場はバスタブが大きく、手足を伸ばせるだけのゆとりがある。安らか。実に安らかなひとときだ。1日の疲れが毛穴から吸い出される錯覚すら感じられた。
「やっぱ風呂は良いよなぁ」
この時になって、意外と疲れている事を知った。今日という日を振り返ってみれば、どこもかしこもビッグイベントが目白押しだった。
まず、目覚めれば異世界。地球より遥か彼方まで連れ去られるという異常事態から始まり、不思議な腕輪を貰ったかと思えば崖から転落しかけた後に生還。そしてリンゴの森でクロエと運命的な出会いを果たすが喜びも束の間。迫りくる化物を撃退しつつマンションへと避難し、腰を落ち着ける間もなく人生初のトンボ料理を振る舞われ、それからようやく帰宅したという訳だ。
「1日でこなす量じゃねぇよ……」
濃すぎる。それ以上に的確な表現を、オレは持ち合わせていなかった。新たな世界の条理にも、いずれは慣れるんだろうか。頭の痺れたような疲れが強すぎる。
消え去れ疲労物質。いつもの様に両手で湯を掬って顔を洗った。すると、そこで異変に気付く。ほのかな甘い薫りが鼻腔をくすぐったのだ。
これまでに嗅いだ記憶のないものだ。石鹸やシャンプーとは違う。そもそも薬品や人工物とは一線を画すような、不思議な匂いだ。そこまで思い至ると、痛烈な衝撃とともに結論が見えた。
「これは……クロエの残り香!」
真相にまで辿り着くと、今度は血の気が一気に引いた。この湯は彼女の裸体を長時間包み込んでいたもの。つまり唯の湯ではない。美女成分がふんだんに溶け込んだ名湯なのだ。
悔やんでも既に遅い。オレは何も考えずにダラダラと湯船に身を委ねてしまった。もはやクロエの要素は半分か、それを下回る程になっているだろう。
せめて予め、手桶に1杯でも湯を掬っていたら違ったのに。そう思っても後の祭りだ。
「こんな簡単な事にも気づかないなんて……嗚呼、オレが変態であったなら!」
なんて事だ。イージーミスにしても痛すぎる。美女湯の活用法なんか知らんが、宝物を不意にした自責の念は凄まじい。ただただ咽び泣く。頬から滴り落ちる涙は、静かに湯気の向こう側へと溶け込んでいった。
こだわりの風呂といえど、傷心までは癒やしてくれそうにない。水面に小さな波紋を打つばかりだった。
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