第5話 春風を返して
逃げる逃げる、ひたすら逃げる。整備の行き届いた道は走るのに申し分ないが、追跡する敵も負けじと素早く、中々振り切れずにいた。
「クソが。しつこいヤツらだな!」
敵はツタを巧みに操り、枝から枝へ飛ぶことで高速移動を可能にしている。鈍重そうな見た目と違って俊敏だ。まるで猿の枝渡り。万がいちオレがスッ転びでもしたら先回りされかねない。
「魔術師様、私の事は放って貴方だけでもお逃げください!」
「バカ言うんじゃない。絶対に2人揃って逃げ切るんだ」
そう、見捨てたりなんかしない。クロエには今後ともオレの人生を照らしてくれなくては困るのだから。
「ですが、このままでは追いつかれてしまいます」
「心配するな、とにかく全力疾走だ」
ナビには既に帰宅ルートを用意させている。道さえ間違わなければ帰れるはずだった。
「加速するぞ、しっかり掴まれ!」
「ハイッ」
クロエがオレの服をギュッと掴む。オレは返答するようにクロエの身体を強く抱きしめた。
その時、ふと思い出してしまった。二の腕の柔らかさは、おっぱいと同じであることを。オレの右手は今、クロエの二の腕をワシ掴みにしている。それすなわち、おっぱいを揉みしだいている事にはならないか。
なるかもしれない。そう思った瞬間、不意に足元から力が抜けた。
「魔術師様!」
耳に重たい切り裂き音が迫る。ツタによる攻撃だ。
「ふざけてる場合じゃない、オラァッ!」
よろけた足に渾身の力を込め、跳んだ。すると周囲の光景がグングンと背後に消えていく。跳躍距離も5メートル、10メートル、もしかすると更に跳んだかもしれない。公式大会だったら間違いなく世界記録が出ただろう。
化物との距離が開く。しかし連中は追跡を諦めるどころか、むしろ速度を上げたようだ。しつこいなんてモンじゃない。
「やっぱり撒くのは無理だ、マンションに逃げ込むしかないな」
「マンションって何ですか!?」
「あのでっかい建物の事だ」
ナビの示すままに大通りから小径(こみち)に入り、時々よろけながらも全力で駆けた。
残り200メートル、まだ遠い。ラストスパート。やがて塀が見え、それを飛び越して入り口到着した。
自動ドアがのんびりとスライドする。こんなにもノロマだったかと腹立たしくなった。
「早く、早く開けろ!」
隙間から強引に突入したは良いが、敵もいよいよマンション敷地にまで迫っていた。ガラス扉なんて大した障壁にならないだろう。
ここはクロエだけ奥に逃がして戦うべきか。そう思っていたのだが、不意に人の声が聞こえた。抑揚の弱い平坦な声が。
――敵性生物の侵入を確認。セキュリティシステムを作動します。
アドミーナの台詞を皮切りに、入り口に備えられたサーチライトが光を放った。すると次の瞬間には、敵が一斉に発火し、すぐに燃え尽きてしまった。
断末魔の叫びが耳に残る。ずいぶんと不快な協奏曲だったが、オレたちの安全を知らせるものでもあった。
「ふぅ、助かった……!」
思わずその場に腰を降ろしてしまった。尻に伝わる大理石の冷たさが心地よい。
「ここが、塔の中なのですね」
クロエが眼を白黒させて辺りの物を眺めていた。きっと装飾品のひとつでも目新しく映るだろう。
彼女の視線は天井に向いていた。そこには等間隔にぶら下がるシャンデリアがあり、それぞれの両端からアーチ状の飾りが延びて壁と繋がっていた。イメージを膨らませれば、浮島や中洲に掛けられた橋のように見えなくもない。
「なんて神々しい……まるで神殿みたい」
「キレイだろ。オレも気に入ってるんだ」
「ええ。飾りの隙間から精霊が顔を覗かせるような、そんな気分になります」
神々しい、か。とりあえず内装を気にいってくれたらしい。オレと好みが近い気がして、それをまた嬉しく思う。
「ところでクロエ。抱っこしたままで良いのか?」
「ああっ! すみません!」
クロエが慌てて床に降り立つと、続けざまに何度も頭を下げた。命を救っていただいて、とか、抱きかかえてまでとか矢継ぎ早に言葉を並べだす。
その間オレはというと、お座なりな返答をしつつ、じっと両手を見つめていた。汗でジットリ濡れているが、自分だけのものではないハズだ。
この匂いを嗅ぐべきか、嗅がざるべきか。今ここで鼻を近づけたなら不審がられるだろう。しかし後でコッソリとなると、臨場感(ライブかん)は消え失せ、オレの体臭だけが残されるに違いない。
ああ、何て悩ましい2択なんだ。
「オレは、どうしたら良い……!」
二の腕の汗はおっぱいの汗。そう思えば葛藤も激しくなり、その場に立ち尽くしてしまう。運命というものは時として強烈な選択を迫るものらしい。
そうして苦悶に悩み続けていると、背後から声をかけられた。顔を見ずとも誰なのかは分かる。
「タキシンペイ様。おかえりなさいませ」
「おぅただいま」
「魔術師様、この女性は?」
「アドミーナって言うんだ。まぁ、ここの管理人みたいなもんかな」
「……それにしては、ちょっと衣装が」
「服装がどうした……ってお前! なんつう格好してんだよ!」
振り返るなり飛び込んできた光景は想定外なものだった。現れたのは確かにアドミーナなのだが、先刻見たシックな装いとは違い、酷く煽情的な姿となっていた。
どう見ても下着姿(せんとうたいせい)。それか刺繍が異様に多い水着(ろまんす)。いずれにしても眼のやり場に困らされた。
「タキシンペイ様の性欲を満足させるべく、せめて視覚だけでもと考えた結果です」
「魔術師様はこういうのがお好みなんですか?」
「違う、誤解だ! アドミーナこの野郎!」
「お気に召していただけましたでしょうか?」
「良いから服を着ろ、今すぐだ!」
「承知しました」
最悪なタイミングだと思った。試すにしても、真夜中(コアタイム)にコッソリとやるべきだろう。そもそもオレは変態(へんたい)じゃないので、見当違いなサービスは控えてもらいたい。
「それはさておき。クロエ、君はこれからどうするんだ?」
「そうですね、家族とははぐれてしまいましたし……アテが無いんです」
「ヴァーリアスの街に向かう商隊だっけか。そこに行けば落ち会える?」
「そうかもしれません。でも馬車が逃げたのは真逆の方向でした。それに、魔獣が出たので街道が封鎖されてると思います」
「じゃあ、山道をひたすら探し回るハメになると」
「そうなりそうです……」
それは危険な方法だと思う。別の淫獣(てき)が出ないとも限らないし、当て所もなく歩き回るのも非効率だろう。せめて馬でもあれば違うだろうが、ここに乗り物の類は一切無い。
少し善後策を考えてみる。そうして浮かんだのは、お互いにとってメリットの大きい案だった。
「なぁ、しばらく一緒に住んでみないか? せめて状況が落ち着くまではさ」
「ええ!? ここにですか?」
「やっぱり嫌かな」
「いえいえ、そうじゃありません! 命を助けてもらえただけでも十分なのに、これ以上お世話になっては恩を返せませんから!」
「そんな大げさな。たまたま拾った幸運だと思って甘えちゃいなよ」
そう言っても、彼女は頑として首を縦に振らなかった。真面目な気質なんだろう。自身の性的魅力(ぶき)を活かしてオレを利用するだなんて事は、微塵も考えていないらしい。その直向きさには一層惹きつけられる想いだ。
さて、こういう時は交換条件が効くだろう。公樹園での一幕という前例もあるし、試してみる価値はありそうだ。
「じゃあさ、こういうのはどうだ? オレは安全な暮らしを保障する。君はこの世界の事を教えてくれるって事で」
「世界を……ですか?」
「さっきも言った通り、オレは極端に世間知らずなんだ。ちょっとした昔語りとか、身の上話を聞けるだけだも凄く助かるんだけど」
「そんなもので宜しいのですか?」
「もちろんだとも。どうだい、オレを助けると思って」
提案してはみたものの、正直なところ情報すらも必要ない。傍で微笑んでくれれば十分だ。最悪、呼吸音が聞けるだけでも良いとすら思う。
「そういう事でしたら、お役に立てるかもしれません」
「じゃあ、お願いできるかな?」
「はい。しばらくの間よろしくお願いしますね」
その時オレの腹がグゥと鳴った。安心したせいかもしれない。クロエがクスッと微笑む。可愛い。女神様なんじゃないか。
「お腹が空きましたよね、ちょっと食べ物を探してきます」
「待てよ、外に出たら危ないだろ」
「大丈夫ですよ、すぐそこなんで」
クロエが身をひるがえし、颯爽(さっそう)と駆け出して行った。春風のような爽やかさを辺りに残して。
それから彼女と入れ替わりになるかのようにして、アドミーナが話しかけてきた。
「ゲストの方には、臨時の入館証をお渡ししておきましょう。タキシンペイ様とは色違いの腕輪となります」
アドミーナが耳慣れない言葉を吐いた。多機能な腕輪だが、入館証も兼ねているとは初耳だった。
「とりあえず頼むよ。ちなみにソレが無いとどうなるんだ?」
「セキュリティシステムによって駆逐される可能性があります」
「即刻用意してくれ。なるべく急ぎで」
「承知しました」
おっかねぇ話だ。腕輪が無けりゃ、ついさっきの化物と同じ運命を辿るらしい。
「ところで、あの女性はいつ頃孕ませるご予定でしょうか。登録情報を変更させていただきたく……」
「その台詞は二度と言うな。少なくともクロエの前では」
「委細、承知しました」
そんな話をするうちに、クロエが森の中からこちらへ戻ろうとしていた。スカートの裾をカゴ代わりにしているのか、愛くるしい膝小僧が露わになっていて、頭の中がカッと熱くなる。でも衝動には堪えた、さすがオレ。非変態(せいじゅん)な男の子。
「魔術師様、たくさん取れましたよ!」
クロエは傍まで寄ると収穫物をオレに見せつけた。そこで柔肌に目もくれず、収穫物に釘付けとなったのは、あまりにも異様な代物だったからだ。
虫だ。そこそこ大きく、数え切れない量のトンボが横たわって痙攣していたのだ。
「これから準備をしますので、お庭を借りてもいいですか?」
「う、うん。どうぞ」
「ではすぐに支度しますね」
再びクロエが駆け去っていく。しかし、そこにはさっきのような春風は感じられなかった。
完全に想定外だ。彼女の食性にオレが寄り添うべきか、あるいは1日も早くまともな食材を調達すべきか。深く深く思い悩みながら、ゆっくりと彼女の後を追いかけた。
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