第36話 姉の心、弟知らずにして、弟の心、姉知らず
本間 夏美が朝起きてリビングに行くと、弟がサメに食べられていた。
正確に言うと、ヴィレッジヴァンガードのサメは寝袋の形態をしている。弟は頭からサメの寝袋に入っており、足しか見えていない。
そういえば、昨日は飲みだと言っていた。
弟は酔っぱらったまま、寝間着にも着替えないまま、ベッドにもたどり着けずリビングの寝袋に入ったのだろう。
寝袋であるものの、床は冷たいから風邪をひいてしまうかもしれない。
起してあげようと、夏美はサメの尻尾をつかんで引っ張った。
意外にもスルスルと引っかからず、弟の胴体が出てくる。最後に頭がコテンと床に落ちた。
「ん」
寒さのためか弟はぶるっと体を震わせると、寝ぼけまなこで、もそもそと自らサメに食べられていく。そして、また足しか見えなくなった。
「……かわいい」
と夏美は目を輝かせた。(残念なことに、「なにが?」「かわいいって、目は大丈夫か?」と冷静なツッコミを入れる第三者がいない)
(撮らなきゃ)
いそいそと、夏美はスマホを取りに自分の部屋へと戻っていった。
【姉の心、弟知らずにして、弟の心、姉知らず】
ガバッ、と本間 続はいきなり覚醒した。
身を起こすと頭が重いのを感じる。服を脱ぐように腕を上げて、重いものを取り除く。
―サメだった。
(サメ?)
薄ぼんやりとしか覚えていないが、酔っぱらった勢いでサメの寝袋に頭から突っ込んだのだろう。
(サメはもう十分だ)
もう散々な目にあった。
続はサメを部屋の隅に追いやって、立ち上がる。
(朝食を作らないと)
酔っててはいても、昨日の飲みの結論は覚えていた。姉の不満を無くすためにも、こなすことはこなさなければ。
その時、固い物が落ちる音がした。
下に落ちたスマホを持っていただろう手はそのままに、姉が涙目になって、こちらを睨みつけてくる。
「どうして起きちゃうのー?」
(えええええぇ)
わからない。わからないが、自分の所為で姉が気分を害したというのはわかる。
何をした。
起きただけだ。
そして、起きたことを責められている。
(永眠してろと?)
そこまで嫌われているかと思ったら、マリアナ海溝深く沈み込んでクラゲとお友達になりたい。
「ええっと、悪かった。寝てくる。今から、なるべく姉さんの目に入らないようにするから、いないように努めるから安心して」
「どういうこと? それはダメ!」
姉の声がより強くなっている。逆効果だったようだ。
どうすればいいのか、わからない。
そもそも、なぜ姉が不機嫌なのかがわからない。
何が原因か直接訊こうかとも思ったが、妻帯者の先輩が愚痴っていたのを思い出す。
―何で妻が怒っているかわからなかったので訊いたら、「そんなこともわからないの?!」と怒りを倍増させてしまった。
(……ええっと)
部屋は寒いのに、汗が出てくる。
なんとか適切な言葉を探し出せ。無難で、普通で、日常に戻れるような言葉を。
「わかった。わかったから。朝ごはん食べよう、な」
「何がわかったの?」
姉の目がすぅっと細くなる。
(一番駄目パターン入ったあ!)
両手を上げて降参する、白旗も上げるから許して欲しい。
わかったもなにも、何もわかってはいない。口から出まかせだ。
「その……。そのな……」
おかしいな。今、夏だったっけな。汗が噴き出てくるんだけど。
なんとか、話題を変えよう。
怒りの矛先を逸らさなければ。
「あー。俺にできることがあれば、言って欲しいのだけれど」
「……」
姉が黙ったまま、こちらを見つめてくる。
地獄での閻魔の審判を待つ間の心境って、こんな感じじゃないだろうか。とても重苦しい。
姉の口が開く。
「水族館へ行って欲しい」
「わかった。待ってて、すぐにでも行ってくる」
それはもう超特急で。
「一緒に水族館へ行って欲しい」
「一緒に?」
「一緒に」
よくわからないが、たぶん、嫌われてはいない……のか。
****
暗い空間の中で、長い水槽の中だけがライトで照らされている。ふわり、ふわりとゆっくりと舞うクラゲだけが浮かびあがっていた。
(あー癒されるー)
ぼーっといつまででも眺めていられる。
積もりに積もる仕事、問題を起こす部下、無茶ぶりをしてくる上司のことなど、どうでもいいと思えてくる。
(生まれかわったらクラゲになりたい)
姉と一緒に水族館に来ているのに、続はそう思う。長い時間にわたって、クラゲの水槽の前に居過ぎではないかと姉の方をみる。
姉は隣の触手が長く棚引いたクラゲの方を眺めていた。循環する水流のため、一定のところでクラゲが流されていく。
「自分の毒で死なないのかな」
ぽつりと姉が呟いたのが聞こえた。
クラゲの長い触手は毒があると説明書きにある。
「どうかな。カメムシは自分の匂いで死ぬっていうけど」
姉がふっと息を吐いて、ゆるりと笑う。
「ムードがない」
「ムード……」
姉とでムードも何もないだろうが。デート中に同じようなことを言われた記憶はある。だから彼女ができないのだろうか。いい勉強になった。身になるかはどうかとして。
「私はいいと思うけどね。のんきで」
姉の希望でお土産にサメのぬいぐるみを買って、コレクションが一つ増えた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます