第18話 もう一つの宿題

「あーあ。だめだった」

 雨の屋外から戻った蒼井と野木村は、濡れた髪や肩口を手で払った。

「このまま上がってもいいのかな」

「たいして濡れてないし、大丈夫と思う」

 野木村の問い掛けに瑠音が推測まじりに応じる。そこへちょうど月子が姿を見せた。

「何だか騒がしいなと思って来てみたのだけれど。あら」

 月子は若干濡れている二人を見て、タオルを取りに廊下を走った。止める間もなかった。

 約一分後にタオルを受け取り、髪や露出している肌を念入りに拭く蒼井と野木村。必要ないと思っていたところへタオルを渡されて、この厚意を無碍にしてはいけないと意識が働いた。

「そういうことでしたら、最初にはっきり言ってくださればよかったのに」

 車の汚れの件に関して、ある種の疑いを持っていることを野木村が話すと、月子は小さく息をついた。

「防犯カメラが設置してありますから。さすがに車のドアに着いた泥汚れの痕までは無理でしょうけれど、誰かが入り込んできていたのなら映っている可能性はあると思います。あとで見られるようにしておきましょうか」

「え、あ。そうか防犯カメラ、あるんだ? ぜひ頼みます」

「さっすが、お医者さん、お金持ち~」

 野木村、蒼井の順で反応し、最後に瑠音が蒼井の頭を後ろからぺしっと叩いた。今回は叩かれても仕方がないと自覚があったのか、蒼井は叩かれた部分を両手で押さえるだけで、特に言い返しては来ない。

 タオルを礼とともに返し、広間に行こうとする三人。ところが月子が、野木村だけを呼び止めた。

「何か?」

「あの、非常に厚かましいお願いになるのですが、聞いてもらえますか」

「ま、まあ聞くだけなら、かなうとは限りませんよ」

「実は、宿題をしていてどうしても解けない問題が一つだけあるんです」

「はあ。それの解き方を教えて欲しいと」

「できれば」

「教科は? 僕も得手不得手は当然ありますし、高校の頃の勉強内容を覚えているかというと、いささか心許ないのですが一宿一飯、いやそれ以上の恩義には報いねばなりませんね」

 外野から、つまり蒼井から「何を格好付けてんのさ」と声が飛んできた。

「数学です。証明問題なのですが」

「数学ならどうにかなるかな……、分かりました、すぐに勉強部屋に伺うとしましょう。あ、いや、問題集か何か知りませんが、こちらに持って来てもらった方がいいかな」

 慌て口調で付け加える野木村。さして考えずに勉強部屋に行くと口走った直後、女子高生の部屋に男子大学生の自分が行くのはよくないだろと気付いたのだ。

「それではお待たせするのも申し訳ないので、足を運んでくださいます?」

「あれっ。それでいいので?」

「はい」

 先頭を切って廊下を歩き出した月子。しょうがないので着いていく野木村。

「早く戻ってきてよ~。一緒に考えるんだから~」

 瑠音と蒼井のそんな声に送られて。


             *          *


 ドアを開け放した状態とは言え、今日初めて会った女子高校生と彼女の部屋で二人きりになるというシチュエーションは、普段想像もしたことがないので多少緊張した。ここでたとえ誤解からであろうと粗相をしたら、今晩の居場所がなくなるかもしれない。

「これなんです」

 問題集の中程、いや、やや前寄りのページを広げ、野木村の目の高さにずいっと差し出してくる月子。左のページの二つ目ですと続けて言いながら、問題を指差す仕種だけする。

「――おっ、よかった。これなら分かりそうだ」

 図形問題で、補助線一本に気付けば楽に解けるパターンのやつ……と思ったら、問題文のあとに、「証明方法をできれば三つ以上見付けること!」と手書きで書かれて、薄い波線で囲んであった。

「三つも考えなきゃいけない?」

「いえ、二つまではどうにか捻り出しました。残りあと一つ、浮かばなくって」

 てへ、という声をが聞こえて来そうな仕種で舌の先を覗かせた月子。

(お医者さんのところの子供なら勉強できるんだろうなという思い込みがあって、それが宿題を教えて欲しいと来たから、そうでもないのかなと思い直したんだけど、やっぱりちゃんとした優秀な子じゃないか。これはのんびり構えていたら恥をかくかな)

 女子高生と二人きりとはどうしよう、なんていう思いを頭から追い出し、真剣に問題文を再読する。

「分かります?」

 何故かしら上から目線に聞こえる台詞だ。急かされている気がした。

「あの、月子さん。君が見付けたという解法を教えてくれないと、僕は無駄足を踏まされることになりかねないんだけど」

「ああ、そうでした」

 肝心な部分が抜けている。だけど、本人に焦ったそぶりは見られない。ノートを悠然と手に取って、その二通りの解き方を記述したページを開くと、両手に持ったまま、野木村に見せてくれた。あとから付け足した文章があちこちにあったが、適切に矢印が引かれており、読みやすい。

「これでよいですか」

「うん。あ、気持ち、僕の側にノートを傾けてほしいな。光の加減で見えづらい――そうそう、ありがとう読めた」

「……ふふ」

「えっ。何かおかしなこと言った?」

 字を追うのをやめて、視線をノートの向こうの彼女に当てる。

「いいえ、言っていません。机があって椅子も二つあるのにどうして私達、座らないんだろうと思ったらおかしくって」

「それは……この部屋の主たる君が決めることだよ、月子さん」

「ですね。では座りませんか。私もこのままだと腕が疲れます」

 同意の下、野木村は勧められた椅子に腰を落とした。そう、落としたと表現するのにふさわしい、野木村が使うにはやや高さの足りない円柱型の椅子だった。

「低いですね、代わりましょうか」

 月子自身は、いつも使っているであろう勉強机とセットの、肘掛け付きの椅子に座っている。

「いや、大丈夫。机の上が見えたら充分だから」

 円柱型の椅子を手で持って、勉強机に近寄った。

 それからあとは順調だった。野木村は考えること五分くらいで、第三の解き方を思い付き、まずは補助線を引くだけ引いて見せた。

「下手な図でごめん。これでもう解けるんじゃないかな?」

 野木村はフリーハンドで描いた図形を月子はじっと見つめ、じきに目を輝かせた。

「分かりました。へえー、こんな考え方もできるんだ」

 彼女はペンを取り、ノートの真新しいページを開いた。そこで少し考え、ペンのキャップでおでこをコツコツと刺激していたかと思うと、やおら、解答を書き始めた。なかなかの速筆である。書きながら野木村に頭をちょこんと下げる。

「ありがとうございます、野木村さん。ほんと、助かりました」

「いえ。どういたしまして」

「ところで気になったのですが、野木村さんは女性にもてると、瑠音ちゃんから伺っていたのですが、その割におどおどしていらっしゃいませんか?」

 数学の問題を解きながら、何を聞いてくるんだ。戸惑いを強く感じたものの、野木村は「ははは」と乾いた笑いをまず返した。

「恋人がいたという意味でなら、まあもてたことになるのかな。ただし、どうも長続きしない。肝心な部分が僕には足りないみたいだ」

「そうですか。少なくともとても優しいですよ」

「そう思えるのは恐らく、僕が今、反省のまっただ中にいるからではないかと」

 ふられて間もないことは確か月子の前でも言ったと思うが、ちょっぴり詳しめに語った。その途中で、月子が「できた!」と短く叫んだのにはびっくりしたが、宿題のことだった。

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