後編

 私は、幼い時からこの世の全てを恨んでいた。そして、恨むもの全てに復讐を果たすのが生きるすべてであった。けれどもそんな復讐心に支配された自分を他者に見られるわけにはいかない。だから私は、“仮面”を被ることに決めたのだ。復讐とは縁のない、いい人のお手本のような人間の“仮面”を被ることを。

 学生時代は、誰かの下にいる自分を恨み、その復讐として誰よりも勉強に励んだ。結果として大学卒業まで常に学年トップを維持し続けた。

 また、この幼く可愛らしい容姿のおかげで友人にも恵まれ、寄ってくる男も多かった為、私の隣には常に男がいた。まあ、その男たちを好きになったことなど一度もなかったが。 

 学力、人気を共に手に入れ、この世は私中心で回っているのではないかと錯覚してしまうほどに全てが順調であった。

 しかし、就職となるとそうはいかなかった。

 戦後最大とも呼ばれた就職難の前に私は負けたのだ。

 当時、私はどうしても長谷川家具に就職したかった。これは復讐とは全く関係のない憧れからであった。けれども必死の対策も空しく、最終試験で不採用となった。長谷川家具以外での就職は私にとって敗北を意味していた為、他社の就職試験には一切参加していなかった。絶望に暮れていた私は、友人の紹介で派遣会社に就くことになった。学生時代のような輝きを失い、普遍的となってしまった私に復讐心が酷く疼いていた。


 そんな中で舞い込んできたのが梅原克己とのお見合いであった。彼が長谷川家具に勤めている事を知った時は驚きと共に恨めしさでどうにかなりそうだった。

 私が初めて見た克己は背が高く、程よく筋肉質な体をしていた。所謂、細マッチョといった感じだ。また、彫りが深く整った顔立ちをしていて安い女であれば一発で堕ちるだろう、と偏見混じりに思っていた。


 梅原はどうやら私に一目惚れしたらしかった。本人は気付いていなかったようだが、彼の瞳の奥がハートで輝いていたのが見えた。

 とは言え、彼が一目惚れをしたのは私の被る仮面であって、復讐心に支配された本当の私ではないのだ。

 お見合い後も積極的にアプローチをしてくる彼に負けて、私は彼と結婚を前提に付き合うことを決めた。常に私を第一に行動してくれる彼に少しも惹かれなかったと言えば嘘になるが、本当の私が見えない相手に恋をするほど私は愚かではなかった。


 付き合い始めてから二年ほどたったある時、私は彼にプロポーズされた。送られた婚約指輪は、リング全体が華やかな宝石で彩られた『永遠の愛』を意味するエタニティリングであった。私は彼を特に好きではなかったが、一緒にいても苦ではないタイプだったから素直に話を受け入れた。

 また、世間ではイケメンの部類に入る男が相手となれば、私にとって大きなステータスになると、本体の復讐心はむしろ満足していた。結婚式は、私は盛大に行いたかったが、彼の意志を尊重し親族のみで静かにおこなった。


 結婚から約四年、私は長谷川家具への派遣が決まった。彼には強く反対されたが、憧れ続けた場所で働くチャンスを逃すまいと激しく反発した。思えばこれが最初で最後の夫婦喧嘩であった。珍しく私が彼に強く迫ったこともあり、彼は怯んでいた。

 彼は、職場では榛川という私の旧姓を使い、社内の人間には夫婦であることを一切口外しないという条件付きで、私がそこで働くことを許してくれた。こんな不思議な条件を提示される理由は理解不能であったが、目標としていた場所で働ける喜びの前では些細なことに過ぎなかった。

 とは言え、結婚指輪をつける事さえ許されないのには納得がいかなかった。

 だから、婚約指輪をリフォームしてネックレスを作った。彼との結婚という事実を私自身が感じられなければ彼と結婚した意味がなかったからだ。

 本来、婚約指輪のリフォームというのは、自分の親から譲り受けた指輪で行い、宝石は自分の婚約指輪として、リングはネックレスにして親への贈り物とするのが常識である。 

 しかし、私は自分が身に着けるためにこのリフォームを行ったのだ。

 それと同時期に私は、彼の私に対する愛が消えたのを感じた。彼は普段通りに振舞っていたつもりだろうが、初めて会った時から私に純度100%の愛を向けてきたのだから、言葉に込められた愛に不純物が混じれば当然気付く。その不純物が一体何なのかまでは分からなかったが、倦怠期によるものだと勝手に納得していた。当時の私は結婚という事実があれば満足していた為、気にする程でもなかった。

 しかし実際は、倦怠期のせい、なんて可愛いものではなかった。私は見てしまったのだ。彼が同じ会社の若い女と浮気しているところを。

 私はすぐさま探偵を頼った。どうやら彼は、ジムに通う時間を利用して浮気をしていたらしい。どうりで最近、彼の肉付きが良くなっていたわけだ。

 相手の名前は河名凛。私たちより五つ下の子だ。大きくつぶらな瞳、薄く妖艶な唇が目を引く綺麗な顔、モデルのように細い脚とそれを強調するような短いスカートが印象的だった。また、茶色がかった髪のポニーテールが彼女に明るい印象を持たせていた。私と大して身長に差はなかったが、あえてうぶに振舞っていた私と比べると輝いていて、全くタイプの違う女であった。

 浮気の事実を知ってから、しばらく立ち直れなかった。彼は私以外を見ていない、私以外に興味を持つこともない、と自分勝手に安心していたぶん、私へのダメージは大きかった。

 いつから克己はあんな軽そうな女を好むようになったのだろう。私の何が不満だったのだろう。最近少しずつ成長してきた腹回りか?それとも顔のしわやシミ?私よりも若い子に目移りしたのだから外見的なことが理由ではないかと、大して好きでもない男の浮気の動機について必死に考えていた。

 それもこれも自分に驕っていた結果の焦りである。

 そんな時だ。実森君が告白してきたのは。

 実森君は特徴の薄い顔に三十代手前特有の少し出た腹と、克己に比べると残念な見た目をしていた。

 実森君の存在自体は克己からの話で知っていたが、いざ会ってみると話もよく合い、想像以上に仲良くなっていた。

 ごめんなさい、の言葉を放とうとしたところで私の復讐心が待ったを掛けた。私の復讐心は、克己に浮気をされたことでひどく燃えていたのだ。克己が私を裏切ったのならば、私も同じように彼を裏切れば良い。私のような最高の女を裏切ったことへの復讐をしてやるのだ。目の前にはちょうど私に好意を寄せる男がいるじゃないか。利用するほかないではないか。と、“仮面”の下から強く訴えてきた。

 そして、首にかけていたネックレスをそっと外しポケットに収めると、

「はい。」

 と答えた。彼が思わず聞き返してきたときはため息をつきそうになったが、グッとこらえた。

 私は実森君の恋心を己の復讐のために利用したのだ。


 実森君は私が思っていた以上に純粋な人だった。休日デートに訳の分からないような条件を付けても文句の一つも零さず優しくリードしてくれた。いつも幸せそうにしている彼の独特な優しい雰囲気に包まれた私は、復讐心でさえ安らぎを覚えているのを感じた。これは、いつかの飲みの時に、うっかり彼に“仮面”の下を見せてしまったことがある。あの時は、折角の会社からの誘いを克己に反対されて断り続けていた為に苛立っていたのだ。その時から彼の前では“仮面”を外してもいいように感じていたからかもしれない。

 いつしか私は、彼と付き合う目的すら忘れて本当の不倫に溺れていったのだ。


 しかし、そんな甘い時間も長くは続かなかった。『告発文』の登場が全てを白日の下に晒したのだ。私には何が何だか分からなかった。私たちの関係は二人以外知っているはずがないのだ。まさか克己か?けれど彼は河名に夢中で私たちのことなど知る由もないはずだ。

 その日のうちに長谷川家具の方から契約解除を告げられ、家にこもっていると、克己から電話がかかってきた。ひどく酔っているようで呂律が回っておらず、文の接続が所々怪しかった。

『凛、やったなあ。これで俺とお前が不倫で非難を受けることがなくなったよ。今日はお祝いだ。最初は俺も驚いたよ、まさか実森が志菜乃を好きになるなんてなあ。そんでもって告白させたら見事に成功するなんてさあ。もし成功したら利用できるとは思ったが、さすがに傷付いたよ…。』

 意気揚々と、自らの武勇伝を語るように話す克己に圧倒されて、私は息が苦しくなる。そんなことを知りもしない彼はさらに続ける。

『それにしてもお前が告発文なんて送ってきたときはビックリしたぜ。なんだよ〈Dignified Girl〉って。なんの捻りもなくて思わず笑いそうになったわ。けど、あいつらの鳩が豆鉄砲食らったような顔は傑作だったなあ。お前もそう思うだろう?おい?凛?聞いてるか?まあいい、もうすぐ着くから切るよ。』

 私は、雷に打たれたように動けなかった。全て彼らの筋書きだったのだ。私たちは最初から彼らの手のひらの上で踊らされていたのだ。いや、踊らされていたのではない。自ら彼らの手のひらに乗り、道化師がごとく勝手に踊っていたのだ。なんと哀れであろうか。復讐心に支配された女は自らの復讐で全てを失ったのだ。実森君に会いたい。ふとそう思った。けれど、今の私には彼に合わせる顔がなかった。私は彼の優しさが愛しくて仕方なかった。私は彼に、復讐心の底から恋をしていたようだ。初恋の相手が自分に利用された不倫相手で、本当の気持ちに気付いた時にはもう手遅れとは全く救いようがない。

 もっと早くこの気持ちに気付くことが出来たなら、本当の形で彼と愛し合えたならなんて幸せだっただろうか。こんな情けない後悔が私の復讐心を満たしていた。

 気付けば私の視界が涙で歪んでいた。人生で初めて“仮面”の下から泣いていたのだ。


 しばらくは地元に帰って、兄夫婦の経営する実家である店を手伝おう。甥っ子は来年から幼稚園だろうか。好きなだけ欲しいものを買ってあげよう。あの穢れを知らない純粋な瞳を見ていると私までもが澄んだ人間であるように錯覚してしまう。

 叶うならもう一度だけ実森君に優しく抱いて欲しかった。克己との高揚感を得られるものではなく、安心感を与えてくれる彼の抱擁が欲しかった。今も“仮面”の下で泣き続ける復讐心を優しく包み込んで欲しかった。


 記入済みの離婚届とネックレス、結婚指輪はダイニングテーブルに残した。外の爽やかな風が染みる赤く腫れた目を大きく拭い、私は街を後にした。

 

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仮面と蒸気機関 星彩 涼 @ochappa

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