仮面と蒸気機関

星彩 涼

前編

 これは、一人の女に一人の男が魅せられ始まった物語。彼らの物語にハッピーエンドで終わる資格は当然なかった。


         *


「あなたのことが好きだ。僕と付き合って欲しい。」

 仕事の打ち上げの別れ際に放った言葉。自分でも笑ってしまうほどに捻りのない告白だった。例えばこれが、青春を謳歌する不器用な少年であれば百点満点だろう。しかし、もうすぐ三十路を迎える大人の男としては五十点にも満たない告白であった。

 背景に見事なオレンジ色にライトアップされた東京タワー、そしてそれを取り囲む高層ビル群の輝き。東京ラブストーリーのワンシーンを彷彿とさせる最高にロマンチックな場面にはとても似合わない告白に、彼女は小さく

「はい。」

 と答えた。その時、彼女のスカートの一部が一瞬輝いた気がした。

        

 実森紳助さねもりしんすけが恋をしたのは榛川志菜乃はるかわしなのという同い年の女性だった。

 彼女は、半年前に実森の勤める家具専門の大手商社に派遣されてきた派遣社員だ。肩にかかるくらいに伸ばされた艶のある黒髪のボブヘア、幼い顔立ちが彼女を年齢よりも若く見せていた。身長も高くはなく、かわいらしい女性という印象を受けた。そして、首にかけられた、あまり目立たないながらも美しいネックレスが特徴的であった。


 実森の世代は、戦後最大の就職難と言われるほどの不況で、同期は社内に殆どいない。当時、部署内に同期が一人もおらず、先輩と後輩の間で板挟みになっていた彼にとって、志菜乃の配置は心の余裕を作る要素としては充分すぎた。仕事面での志菜乃の優秀さは同時期に派遣されてきた社員の中でも群を抜いており、部長からも一目置かれる存在となっていた。実森自身、ともに企画を進める中で彼女の機転に救われる場面が多かった。


 最初こそお互いに距離があったものの、学生時代にハマったバンドや芸人、ドラマが同じなど共通の話題が多く、次第に会話に柔らかさが生まれた。しばらくすると、二人で飲みに行くほどの仲になっていた。初めは実森から誘うことがほとんどだったが、回数を重ねるうちに志菜乃から誘いが来ることもあった。そうして日々が過ぎるうち、実森は一つの事を疑問に感じるようになった。

 それは、志菜乃ほど優秀な人間がなぜ、派遣をしているのかということだ。あそこまでの能力がある人間ならばどんな会社でも喉から手が出るほど欲しいはずだ。現にうちの会社がそうであるように。彼女の仕事ぶりを部長が上層部に報告したところ、嬉々として獲得に乗り出したのだ。しかし彼女はその誘いをことごとく跳ね返している、というから謎が深まるばかりでいた。


 疑念が強まるある日、二人で飲みに行くことになった。勿論、誘ったのは実森からだ。飲み始めは、いつものような他愛のない話で盛り上がっていた。けれど、普段よりもハイペースでジョッキを消費する志菜乃からは、いつものような余裕は感じられなかった。しばらくすると彼女が突然、会社の上層部のしつこさを愚痴ったのだ。志菜乃は、日頃他者への愚痴をこぼさないため、ここぞとばかりに実森は彼女にその疑問を投げかけてみた。途端、先程まで酒の助けで流暢だった彼女の口が塞がった。しまった、と実森が話題を変えようとした時、志菜乃がぼそりと答えた。

「派遣には派遣の良さがあるから、かな?」

 それ以上は彼女の雰囲気から聞けなかったが、その気を遣った愛想笑いと慎重に言葉を選ぶような口調から本当のこととは到底思えなかった。

         

 志菜乃が実森の勤める会社に派遣されてから三カ月程経った時。実森は、自分が彼女によせる信頼の源が恋心であることに気が付いた。彼が自らの思いに気付いたきっかけは、実に酷いものであった。

 ある日、仕事に対するストレスから歓楽街にある夜の店に入った。約半年ぶりの入店となったその店は、新人の頃先輩に連れられ、風俗というものに初めて触れた場所でもあり、自分が初めて常連になった場所でもあった。

 いつも通りに贔屓にしている嬢を指名し、ことに及ぶも、なぜかいつものような高揚感が得られなかった。久し振りで緊張していたのかとも思った。けれど違った。なぜなら、サービス中に頭に志菜乃のことが浮かび、自分がどこか上の空であったからだ。嬢との時間に集中しようとするが、気を抜くと志菜乃が頭の中に現れた。延長を重ね、別の嬢で試してみても頭の中の志菜乃を最後まで追い払うことはできなかった。

 結果、過去最高額を清算することになったが、それに見合う満足感を得ることはできなかった。

 代わりに手に入れたのは、嬢が気落ちして部屋を去っていく後ろ姿と志菜乃への恋心の自覚であった。

        

 実森が最後に誰かに恋心を抱いたのはいつだったろうか。思い返せば大学のサークルの先輩以来ではなかろうか。確かあの時は見事にフラれて終わったような気がする。失恋の記憶などは早々に忘れていて定かではない。恋愛関係で覚えているのは、付き合いたての幸せ絶頂期の記憶だけで、別れた原因の事など残っていない。

 それにしても、嬢に対する満足したいという本能にも似た感情と恋情を混同させてしまうほどには、実森は恋愛に疎くなっていたのだろう。


 ある時、この気持ちへの対処に困り果てた実森は、同期で最も仲の良い梅原克己うめはらかつみを行きつけの居酒屋に誘い、相談をしてみた。

 梅原は事業開発部の人間で、同期の中では一番の出世頭と名高い男だ。新人研修で同じ班であったことから実森が経営企画部に配属となってからも時間が合えば二人で飲みに行っていた。多くの友人が身を固め、親や親戚が事あるごとに結婚を急かす中で、浮いた話の一つもなく独りの梅原は、実森にとってありがたい存在であった。思えば、実森が三十路を前にしても結婚に一切の焦りが無かったのはこの男の影響があったのかもしれない。

 実森からの相談に、梅原はひどく強い興味を示した。彼の反応は実森にとって意外であったが、冴えないおっさん同士のコイバナは二人の想像以上に盛り上がっていた。途中、ジョッキを運んでくるバイトの女子大生が怪訝そうな顔をしていたが、そんなものは気にならない。お互いの結婚観や相手に求める条件から理想の営みに至るまで、議題は豊富で尽きる気配がなかった。特に梅原の話は実際に経験したかのような詳しいものが多く、実森が聞き入る場面もあった。

 熱い討論が一段落すると彼は実森に、

「いっそのこと素直に想いを伝えればいい。」

 と冗談っぽく言った。最初は実森もその言葉を相手にしなかったが、近く経営企画部内で打ち上げがあることを知ると、梅原の説得に真剣みが増していった。実森の反撃もむなしく、最後には、結果を梅原に報告するというおまけ付きで打ち上げで告白することに決まった。


 結果から言えば、大成功だった。

 実森自身、彼女からの返答が意外過ぎて、思わず返事を聞き返してしまった。とんだ大馬鹿野郎だ。告白の後、彼女を駅まで送ったが、緊張のあまり実森の口下手には拍車がかかり、まともに目も合わせられなかった。けれど、志菜乃のどこか勝ち誇ったような雰囲気を感じ取ることはできた。

 翌日、掴みどころのない非現実的な幸せとアルコールに酔ったまま梅原に結果を報告した。ニヤケが出ないよう努めて冷静に実森が報告を進めると、徐々に梅原が興奮していくのが分かった。全てを聞き終えた後、興奮冷めやらぬ梅原が言った。

「おお!よくやった!ただ、勝負はここからだぞ。何にも知らないお前へのサポートは任せろ。だから、これからの進捗は逐一報告してくれよ。」

 ただ、その熱量に圧倒された実森には梅原のこぼしたラッキーという言葉は届かなかった。


 告白からしばらくして、実森は志菜乃との恋人関係にいくつか奇妙な点を覚えた。

 一つは、実森が仕事や趣味に対して異様な意欲が湧いていたことだ。これまで実森が仕事に対して感じていた倦怠感や気疲れは一切なく、あるのは疲れ知らずの無限に湧き上がってくるやる気だけであった。そのやる気に比例するように、仕事での成績も右肩上がり、周りからの評価も日に日に変化しているのを感じられた。

 気づけば実森は、石炭を投下されればされるほど出力を上げる蒸気機関のように働き続けていた。

 もう一つの奇妙な点は、志菜乃が全くデートに行こうとしないことだった。仕事終わりの飲みの誘いにはいつものように乗ってくるのだが、休日の誘いには一向に首を縦に振らなかった。

 それでも、熱心に誘い続ける実森にとうとう彼女が折れた。

 しかし、休日デートにはいくつかの制約がついていた。

 例えば、場所や日時、プランに至るまでデートの全てを志菜乃が決めること、自分たちが付き合っている事は絶対に口外しないことなどだ。だから、梅原にこの関係を教えている事は彼女には秘密であった。

 また、映画に行くにしても市内の映画館ではなく、あえて市外の映画館が指定された。当然そのようなデートでは、一回にかかる費用が馬鹿にならないので、頻繁に行くことは叶わなかった。

 そんなデートに対して実森は強い疑念、男としての自尊心の喪失を覚えたが、志菜乃とデートできるだけ良いと自らの気持ちを押し殺した。


 付き合い始めて半年ほど経ったある日の正午、いつも通りの業務時間中、何人かの社員が昼食のために仕事を一段落させようとしていたところであった。

 社員メールで全社員宛に一通のメールが送られてきた。件名に『告発文』とだけ書かれたそのメールに社内中の人間が引き付けられた。その内容はこうだ。

長谷川家具はせがわかぐ  貴社で働く全ての方々

 令和○年○月○日

  社内で行われる不倫について


 私は貴社に勤める一社員でありますが、同社では令和○年○月頃から以下の二人の人間によって社内不倫が行われております。

 □△人材派遣より同社に派遣されております榛川志菜乃は、同社事業開発部所属の梅原克己と夫婦関係にあるにも関わらず、同社経営企画部所属の実森紳助と不倫関係にあります。

 よって、社内の和を乱しかねない榛川志菜乃と実森紳助に相応しい処分を求めます。

 告発者 Dignified Girl〉

 実森は何度も何度も同じ文を読み返した。

 梅原と志菜乃が夫婦?俺が不倫?何を言っているのか何一つ理解できなかった、できるはずもなかった。それに、この告発者を名乗る『Dignified Girl』が誰なのか全く見当もつかなかった。混乱が新たな混乱を呼び加速していく。

 実森は、無意識のうちにメールに貼られたリンクを押していた。そこには何枚もの実森と志菜乃のデート場面をとらえた写真があった。それらを一枚一枚じっくり確認するようにスクロールし、キスをとらえた最後の写真を見たところで我に返った。そこでようやく周りからの困惑と軽蔑の入り混じった視線に気が付いた。その視線たちが実森をさらに追い詰めていく…。


 告発文から数日後、実森は平日の昼間から自宅にいた。実森が住む家は二階建てアパートの一室だ。十六帖1LDKでバストイレ別、狭いながらもバルコニー付き、駅から徒歩十分という好条件だ。また、会社のある都心からは少し離れているため物静かで、家賃も七万未満と文句の付け所のない物件だ。

 実森が二十歳で上京した時から住み続けているため所々に傷や壁のシミが目立つが、築年数が浅く、比較的整理のされていた為全体的には明るく清潔な印象を受ける部屋だった。

 実森はベッドに寝転がったまま、寝室とする洋室に積み上げられた空き缶を眺めていた。だが、そこに感情や心情はなかった。あるのは果てしない虚無と気持ちの悪い酒酔いだけであった。

 告発文のあの日、上司から何らかの処分が下されるまで自宅待機を命じられた。周りからの痛い視線に耐えつつ、訳も分からぬまま会社を早退した後、実森は必死で志菜乃と梅原に接触を図った。けれど、彼らがそれに応じることはなかった。

 特に志菜乃には執拗であった。十分おきに電話をかけ、百件近くのメッセージを送った。メッセージの送信を重ねる程、言葉が乱暴になっていくのを自覚できた。それでも自身を止めることは出来なかった。とにかく彼女の声が聞きたかった。ぬくもりに触れたかった。全てが嘘だと、狂った夢だと、ただそう言って欲しかった。

『既読』の二文字が二人の距離の全てを表していた。

 その夜、近くの酒屋で財布が空になるまで買い込んだ安酒を、意識が飛ぶまで浴びるように流し込んだ。

 全てを忘れたい時はヴィンテージ品のワインのような上品なアルコールではなく、安酒特有のタチの悪いアルコールの方が適任なのだ。

 翌日、実森を襲ったのはこの世の終わりとも思える程の酔いであった。急性アルコール中毒で死ななかったのが唯一の救いと言えるだろう。一日の約半分を便器に顔を突っ込んだ状態で過ごし、あまりの惨めさに死にたくなった。


 それからは酒とポルノビデオだけが彼の生活の全てになっていた。本気で愛した女に裏切られた寂しさを紛らわせようと、画面越しで淫らに踊る女を右手で愛でる。けれども果てた先に必ず訪れる無限の虚無がさらに心を締め付ける。その苦しみから逃れるためにアルコールで感覚を麻痺させて意識を飛ばす。そして、酔いがさめた後に忘れず帰ってくる寂しさを紛らわせようとまた、ポルノに逃げる。この悪循環から抜け出せぬ生活が続いていた。


 実森が曜日も昼夜さえも分からなくなった頃、会社からの処分が下された。

 地方支社への左遷だ。今回の混乱を招いた一人である実森と成績でも人徳でも実森より優れ、被害者である梅原。どちらを残せば今後の会社の利益となり得るかなど一目瞭然であった。 

 しかし、もはや全てがどうでもよくなった実森には他人事のように思えて仕方なかった。

 どうでもよくなる、というよりは何も考えられなくなったのだ。アルコールと性欲に侵され切った脳では、正常な思考などできるはずがなかったのだ。それにここ最近、起き上がって動くのがやっとという位に体調が悪かった。体の全てがストライキを起こしているような感覚だ。酒のせいでもあるが主には、実森がこの期間に歯で噛み砕いた固形物がつまみしかないせいだろう。とは言え、そんなことにさえ気付けない程に実森は疲弊しきっていたのだ。


 今や、蒸気機関のようにただ真っ直ぐに、己の愛するものために進み続けた実森紳助の姿はなかった。そこにいるのは、燃料が枯渇し、代わりに酒とポルノしか信用できなくなった、全く動かない男だけであった。


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