娘③

 「お、やってるやってる」皐月が中華料理屋『乙事主』に指を向けながら言った。

 「さすがと言うかなんと言うか」

 「ボロいね」皐月がきっぱりと言った。

 放課後、私と皐月は『乙事主』の前にいた。店は長年にわたる営業でところどころのボロさが目立っている。大きな看板には当初『乙事主』と綺麗な字で書いてあったのだろうが、今はほとんど剝がれ落ち『主』らしき部分がやっと見える程度だ。

 「まーたこのドア開かないよ」皐月がスライドドアを思い切り引きながら嘆いた。「たてつけ悪すぎ!」

 「コツがいるんだって」私は皐月の横に移動する。

 懐かしい気持ちになる。昔と言っても数年前だが、この店で私が今の皐月のようにドアを開けなれなかったとき、誰かに開け方のコツを教わった。

 私はその時の記憶を呼び起こす。シルエットしか判別できなかった人物が、私の記憶が鮮明になるにつれて徐々に明瞭になり、頭の中の白いモヤが晴れていく。

 あの時開け方のコツを教えてくれたのは。私は思わず苦虫を嚙み潰したような顔をする。

 「どしたの変な顔をして」と皐月が私に言った。

 「いやいや、別に何でもないよ」そう言いながらも私は頭で違うことを考えている。

 あの時開け方のコツを教えてくれたのは、私の父だ。


 あの時の父は、ドアが開かない事に腹をたてる私を必死に宥め「これはな、コツがいるんだよ」と実演して見せた。

 右手でドアを軽く押したかと思うと、左手で力いっぱいドアを横に引き、少し空いた空間に左足をねじ込んで右にスライドさせ、豪快かつ器用に開けていた。

 ドアが開いた後、父が私の方を向いてピースサインをした。少し気恥ずかしさはあったが私も父に向かって、晴れ晴れしい思いでピースサインをした。

 そうだそうだ、と私は記憶をたどりながら思う。あの時までは本当にピース、まさしく平和だった。私は父と仲が良く、休日はよく一緒に出かけに行った。映画を観たり、ショッピングに行ったり、色んな事をした。『乙事主』にも父と食べに行ったあの日のあと何回か行った。

 だけど、出かけに行った時の思い出は憶えていない。いや正確には、憶えてない事にしてる。今日の昼の時間のように、私は嫌な気持ちを頭ではなくどこか違う場所に封じ込める。

 あれほど楽しかった思い出を忘れるわけがない。でも、『あんな出来事』があった以上、そんなこと言ってられない。

 あっけらかんとして、それでいて気配り上手な父を尊敬していた。信頼していた。それだけに『あんな出来事』は辛かったし、ショックだった。本当にショックだった。


 四人掛けのテーブル席に着いてから、皐月が「千尋はなに頼む?」と訊いてきた。

 「毎度おなじみ」

 「毎度おなじみ?」

 「回鍋肉」私はメニュー表にでかでかと「一番人気!」と書かれた回鍋肉を指さす。

 「ぶれないねぇ」皐月が呆れるように言った。

 「じゃあ、わたしはこれでいいや」とピータンを指さした。

 「すいませーん」と皐月が店員を呼んで、注文した。

 店員が水を置いて立ち去った。

 「あ、そうそう千尋」

 「なに」言った後に少しぶっきらぼうだったな、と悔いる。

 「これからテストあるじゃん」

 「そうだね」三、四か月に一回のペースで行う学科テストが、あと一週間と目前に迫っていた。

 「千尋の家で勉強会しようよ」

 「えっ」

  だーかーら、と皐月は続ける「テストに備えて千尋の家で勉強会しようよ」

 「な、なんでよ」

 「なんでって、わたしが千尋と勉強したいからだよ」皐月が口を尖らした。

 そっか、とだけ漏らした。ばれない程度に、グッ、と足に力を入れる。

 信じられないほどうれしい。勉強会なんて初めてだ。

 「あのさ、皐月」言いたい言葉はわかっている。

 「ごめん。私の家さ、親がいるから無理っぽいんだよね」言い終わった後、私は思わず愕然とした。体が凍る。え、なに言ってんの、私。

 「そっかー」皐月は少し寂しげに目線を落とした。

 ちょっとまって違うの、今のミス。と言いたいところだけど、覆水盆に返らず。やったことはやり直しがきかない。

 ごめんね、ごめんね皐月。と私は心の中で皐月に謝る。私だって本当は一緒に勉強したいんだよ。だけど、頭はわかってるのに体が反応しないんだよ。勉強会やりたい! なんて言いたいけど口から言葉が出てこないんだよ。

 まったくもって意味がないとわかっていながら、私は私自身の頭に言い訳を並び立てる。

 こんな素直になれない自分が本当にみじめだし情けない。私が皐月のように何も考えず誰にでも話せるタイプだったらどれだけ良かったことか。

 

 会話が止まった。あまりの気まずさにテーブルに置いてある水をゴクゴクと飲んだ。別に大して喉が乾いているわけではないけど、ゴクゴク飲んだ。

 店員が料理を運んできた。ドン、とテーブルに無愛想に置いた。

 「なにあの人、かんじわるー」皐月がわざとらしく店員にも聞こえるような声で言った。私は皐月の発言にひやひやすると同時に、憧憬の念を抱いた。そういうふうに思った事を何も考えずに言えたらなぁ。

 「ん、なに、その目は?」怪訝そうにこちらを見る。

 「羨望の眼差しだよ。」

 センボウ、と皐月が子供のように繰り返す。

 「よくわかんないけど私を見てるってことは、このピータンが欲しいんだな?」皐月がテーブルに置かれたピータンの皿を持ち上げた。

 「そうだよ、よくわかったじゃん」

 まあね、と皐月は得意顔になった。

 回鍋肉をセットの白米と一緒に食べ進める。シャキシャキのキャベツと弾力のある豚肉に箸を持つ手が止まらず、濃厚なタレは私の食欲をさらに増進させる。タレをいっぱいにかぶった豚肉で白米を巻いて食べるのは、まさに至福のひと時だ。

 「そんだけ食ってて何で太んないのかねえ」ピータンを小さな口で食べながら皐月が言った。

 「代謝がいいのかなぁ」

 「あ!」と突然、皐月が大きな声を発しながら私の方に指を向けた。これはキャッチボールになってないな、と私は苦笑する。

 「あのテレビみて!」どうやら皐月は私の後方にあるテレビを指しているようだ。

 「どうしたの」と言いながら私は振り返る。ニュース番組が流れていた。

 「空き巣被害 多発」と書かれた左上のテロップに目が行く。

 「空き巣がどうしたの?」

 「え、知らないの! 結構有名だよ。ほら最近お巡りさんが見回りしてるじゃん」

 「そんな有名なの?」警察が出動するほどの事件が近所で起きたなんて。この世の事ではないのでは、と思うほど現実味がない。

 「そうだよ!」

 再度テレビに振り返る。

 「犯人は恐らく単独犯」「恐らくピッキング」「恐らく日本人」「恐らく男性」「恐らく身長は170㎝ぐらいの中肉中背」と不確定要素に満ちた内容をキャスターがとうとうと述べた。

 「ざっくり過ぎるね」と私は呆れる。

 「さすがニュースだねぇ」皐月が詠嘆口調で言った。

 そうだね、と頷きながら左手前方、私たちが座る近くの席に何も考えず、目を向ける。直後、アッ、と思った。皐月に悟られないように平静を装う。が、目線の動きで皐月に感づかれた。 

 私が何を見ているのか確認したのち皐月が言った。「あそこのテーブル席に座った家族がどうしたの?」

 「別に」わざと素っ気なく応える。この話題はしたくない。

 「ほんとにー?」皐月が詰め寄ってくる。

 「あそこのお父さんと女の子、凄く仲いいねぇ」

 「そう?」

 「うん。千尋と千尋のお父さんぐらい」

 「え」

 「だから、千尋と千尋のお父さんぐらい、あの二人も仲いいねって」

 皐月は何を言ってるんだろう? 私は皐月の真意を探ろうと顔をじっと見る。もしかして私を挑発してる? と思ったところで、いや違うな、とその気持ちを打ち消す。皐月は知らないだけだ。私と父の間に起こった『あんな出来事』を。

 「そういえば最近さ、千尋と千尋のお父さんの二人が外にいるの見かけなくなったなー」

 「そ、そうかな」必死に動揺を隠す。

 「うん、絶対そうだよ! 昔はよく二人でデパートとか言ってたじゃん!」 

 頭がくらくらする。この話題はもうやめて! と頭の中で警報が鳴っているのだろう。弱々しく、そうだね、とだけ言った。

 私の不穏な状態をよそに、左手前方に座るお父さんと女の子は楽しそうにおしゃべりしながらご飯を食べている。お父さんは女の子を溺愛しているのがうかがえるし、

女の子は前途洋々、まさに希望に満ち溢れた表情をしている。とても、とても幸せそうだ。

 私も昔はあんな感じだったのか、と思うと何だか無性に胸が締め付けられる。箸を握る手に力が入る。

 無理やり押さえつけてなかったものにしていた記憶が外へ外へとあふれだす。 

 どこからか、パカッと弁当の蓋が開く音がした。

 

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