娘②

 「ちっひっろ! おはよう!」

 「あ、皐月。おはよう」

 一年 一組の教室の中だ。いつも同様、遅刻ギリギリだったせいかほとんどの生徒が揃ってる。

 「今日も遅刻ギリギリだったねえ」皐月はニヤッとしながら言う。

 「朝の占い見てたら遅刻しそうになった」

 「千尋いっつもそれじゃん!」皐月が可愛らしい丸顔をクシャっとさせた。

 「もう席着いたほうがいいよ」

 「わかってるって」そう言いながらも皐月は自分の席に戻らない。ほんとにわかってるのか確認したくなる。

 「皐月、そろそろまずいよ。ゴリアテがくるよ」

 「そうじゃんそうじゃん! 早く言ってよ!」言ってるって、と心の内で皐月に反論する。

 皐月が大慌てで席に着いたちょうどのタイミングでゴリアテが力強くドアを開けた。ドカンと大きな音が教室中に響き、ピリッと張り詰める空気が流れる。どんな授業でも騒いでいる運動部の子たちも、この時ばかりは静かに背筋を伸ばして座っている。

 「みんなそろってるな。おはよう」

 おはようございます、と教室に溶けていくような声で何人かが返事をした。

 「うん? 聞こえないぞ。みんな、おはよう」幼い頃教育番組で見た体操のお兄さんと同じようなセリフのはずなのに、容姿が違うだけでこれほどの恐怖を抱くなんて。むしろ感動すら覚える。

 私達の担任の草壁先生は、ラグビーだか柔道だかを習っていたらしく体は筋骨隆々でその厚い胸板は野生のゴリラを彷彿とさせる。更に、聞くだけで鳥肌が立つドスのきいた声はドン・コルレオーネよろしく恐ろしいマフィアのようだ。そんなことだから誰がつけたか、旧約聖書の巨人兵士になぞらえて通称ゴリアテと呼ばれている。

 クラス皆がそれぞれの顔を見回す。全員が無言で各々の呼吸に合わそうとしている。せーのっ、と私は声を出さずに唱える。

 「おはようございます」クラス全員のしっかりと揃った朝の挨拶も、もはや恒例になった。

 「はい、おはよう」ゴリアテは何事もなかったかのように低い声で返事をする。


 「最初は、軍隊かよ! って思っちゃったけど」皐月が言う

 「今だと?」

 「今だとクラスの絆が深まった気がして、私は案外好きだな」

 休み時間になっていた。朝のホームルームが終わった瞬間、電光石火で皐月は私の机に来た。他に友達いないのと言いたくなったが、私も同じようなものかと反省する。

 「朝の挨拶ヤバかったねぇ」

 「ね。皐月はあれどう思う?」と私が訊き、話の話題は朝の挨拶になった。

 私は案外好きだな、と皐月が言った。 

 「皐月も好きなんだ」

 「ってことは、まさか千尋も?」同士よ! と叫びだしそうな雰囲気があったから、食い気味に「まあまあかな」と言った。

 話はそこで打ち切りとなった。そっかぁ、とだけ言ってトボトボと寂しげに自席に帰っていった皐月に申し訳なさが募る。席に座った皐月は、つまらなそうに窓の外を見上げている。皐月の席の周りは誰もいないし、もちろん私の周りにも誰もいない。


 『会話のキャッチボール』とは道徳の教科書とかでよく使用されてきた文言だけど、私は昔からその『会話のキャッチボール』がニガテだった。

 クラスの子達が野球選手のように、会話の話題となる『球』を握り相手に向かって投げグローブの芯で『球』をとる。実に見事な『キャッチボール』をするのを傍目に、私は『球』すら握れなかった。いざ話そうとすると緊張で何を話せばいいか分からなくなってしまう。さすがに幼馴染の皐月相手には出来るが、皐月が投げた『球』は今だに上手くとることが出来ない。これが今までの人生で関わりのなかったクラスの子達なら、なおさらだ。

 当の皐月は私と極端なぐらい正反対で、初対面の人にでもズケズケと物を言うタイプだった。言わば、全力の火の玉ストレートをミットなしの相手に向かって投げる。中学までは周り全員が幼馴染だったから皐月のキャラが許されていたが、高校はそう甘くなかった。結果、皐月も私と同様、一緒に会話する相手がいなかった。

 完全に、とまではいかなくても私と皐月はクラスで浮いていた。


 キーンコーン、と鳴った一拍後に、カーンコーンとスピーカーから流れた。

 「お昼だ!」と言いながら皐月が例のごとく私の机に近づいてきた。

 「弁当食べよっか」

 「うん!」皐月はとなりの席から椅子だけ持ってきて私の目の前に座る。

 お昼の時間は学食組と弁当組で分かれる。目に見える線引きはないけど学食組が運動部系の子達で、弁当組が私達のような日陰者ってことぐらいはさすがに知っていた。いや、なんとなく肌で感じた。あいつら弁当組がさ、なんて言う場面を見たことはないけど学校全体にそういう特有の雰囲気がある。だから学校は嫌いなんだ。

 そんなことを思いながら弁当の蓋を開ける。

 「千尋のお弁当、今日も美味しそうだし綺麗だね」

 「そうでしょ」毎朝、お母さんは私のために早起きしてお弁当を作ってくれる。作っている姿を見たことはないが、朝起きて一階に降りるとテーブルの上に弁当箱だけ置いてある。はい、作りましたよ、なんて恩着せがましい事を言わないのが、プロフェッショナルみたいでカッコイイ。

 そのお母さんの日々の努力が報われたようで私は嬉しくなる。

 あの男、私の父とは大違いだ。父は毎度毎度、私が朝食を食べているときに「やっべ、会社遅刻する」と言って寝間着のままドタドタ降りてくる。学習能力ゼロなのか、と私はその度にいつも呆れる。いい加減父にもお母さんを見習ってほしい。

 二階から降りてきた後、朝ごはんのトーストを食べている私に「千尋の目の前の弁当おいしそうだなぁ」と社会人だからって余裕ぶった声で話す父には心底腹が立つ。

 お母さんはなんで『あんな出来事』を起こした男と結婚したんだろう、と私は常々思う。


 「ねぇ千尋、千尋ってば。わたしの話聞いてる?」皐月が心配そうな面持ちで私の顔を見つめる。

 「あ、ごめんごめん。ぼーっとしてた」

 「よかったー、なんか病気なのかなって」

 「私は元気だよ」

 「そっかぁ、じゃあ大丈夫だね!」皐月はピースサインをする。

 「うん。で何の話だっけ」

 「やっぱり私の話聞いてないじゃん」と嘆くが、私のこういう対応に慣れているのか全然残念そうでない。

 「千尋が話聞かないのはいつもどうりだね!」と皐月が続ける。教室内の他の子たちが、なんて辛辣なことを言うのだと目をギョッとさせていたが、経験上皐月からしたらこの発言が軽口のつもりだと私は知ってる。悪気があって言っているわけじゃない。スルーするのが一番だ。

 「で何の話だっけ」言いながら弁当を食べ進める。さすが私のお母さんだ。私の好みをちゃんと知っている。とっても美味しい。

 「放課後、いつものように、あそこ行こって話」

 「言ってもいいけど、お金がないかも」

 「お金ぐらい、この皐月がどうにかしましょう!」皐月は自分の胸を叩いた。

 「じゃあ行こっか」断る理由がなくなちゃったからねと私は私自身に言い訳する。必殺のお金足りないかもが不発だったらどうしようもないもんね、と言い訳を頭の中で並べる。

 これが何の言い訳なのか私もよくわからないけど、なぜか、なぜだか言い訳をしてしまう。ほんとはうれしいはずなのに。

 「やった! 今から楽しみだ!」皐月が感情を発散させるあまり机が少し揺れた。私も皐月ぐらいうれしいはずなのに。なんでだろう。

 私のことが、私自身のことが不思議でしょうがない。

 このモヤモヤした気持ちを空になった弁当箱の中に閉じ込める、そんな思いで弁当の蓋を閉じた。蓋を閉じるとき、初めは上手く閉まらなかったけどすぐに蓋が閉まった。パチッと乾いた音がした。

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