不連続線を視る詛戸の事
吐息が聞こえるほどの間合い。だが視界は未だにほとんどゼロに近い。
しくじったか。目的の物を所定の位置――山中の詳細は知りたくもない建物に送り届けはしたが、まさか帰路で刺客に出くわすとは。
最初は身を隠すのに好都合だと思っていた深い霧が、相手の姿を完全に隠してしまっている。
「ねえ、あなた」
声はすぐ隣から聞こえた。だが反応は返さない。腕を伸ばして相手の身体を掴めば、身につけた骨法で相手を制圧できるかもしれない。しかし相手がなにか凶器を持っているかどうかすら、この状況では掴めていない。相手の身体を掴んだ途端、ナイフで指を切り落とされないとも限らない。
山を下り、この霧の中から抜け出す必要がある。幸い今は相手のほうも迂闊には手を出してこない。
ああいやだ。肌にじっとりと纏わり付く湿気が、全て相手の指のように感じてしまう。
「不連続線という言葉を知っている? 今はもう使われていないそうだけど」
なにを言い出すかと思えば、謎かけでも始めるつもりか。声を出せば私の位置を気取られる。その手には乗らない。
「大気の中で風や気温が異なる境界面。互いが明確に異なるその線は確かに天気図には表すことができる。だけど、私たちがこの目で見ることは、果たしてできるのか」
なら話は早い。この霧を抜ければ、その不連続線とやらを越えることができるわけだ。
「不連続線は明らかに異質な境界。なのにそれを越えることはできても、越えたかどうかの瞬間を捉えることはできない。ねえ、答えて」
――私の妹をどこに連れていったの。
「妹……?」
私が運んだのは小さなスーツケースだった。中身は無論見ていない。だがその中に、人がひとり入れるようなスペースはなかったはずだ。
ふふ、と。
相手の小さな笑いが霧の中を伝ってくる。
「やっと口を開いてくれた」
焦りを感じつつ、同時に相手の言動から私のほうが優勢であると結論づける。どこかの組織が放った刺客かとばかり思っていたが、肉親を気にかけるなまっちょろい言葉から察するに、訓練を受けたような様子はない。
素人だ。
現に私の位置を掴めてはいないらしい。かく言う私もそれは同じだが、つまり私よりも上手であるはずはないということ。
だがなぜ? ただの素人が私のあとを尾け、わけのわからない話を繰り広げる。
「私の妹は不連続線を見ることができた。よく宙に指で線を引いて、ほら、見て――って私に教えてくれた」
また笑い声。まるで私まで笑っているように、湿った空気の振動は全身をぐらぐらと揺らす。
「ある時妹は、私と自分の間に指で線を引いた。ほら、見て――って私にも見えるようにしてくれた。私と妹の不連続線を」
呻く。私が先か、相手が先だったか。いや、今の私たちはこの霧の中、全く同じ呼吸をしているようにすら感じる。私の吐く息は相手の吸う息であり、濃霧の中にお互いの身体も意識も溶け出してしまっている。
「私は信じたくなかった。私と妹が全く異質で、明確に隔てられた存在だなんて。ねえ、あなたならわかるでしょう」
息が浅く荒くなっている。霧のせいで重い空気を吸っているせいで苦しいのか。女の愁嘆が私の喉から漏れてきているせいなのか。
私は霧を振り払うように、腕を大きく払った。女の身体にぶつかればそのまま相手を組み伏せるつもりだったが、私の腕はむなしく宙を切った。
違う。
私の腕は確かに触れていた。霧に。女に。ともに溶け出した私自身に。
「ほら、もうわかった。私たちに不連続線は見えないもの。だったら、私たちに不連続線なんていうものは存在しない」
私は悟った。私が運んだ物がなんだったのか。なぜこの季節にここまで深い霧が出ているのか。私はどこまで私なのか。不連続線を見つけることはできない。
霧が晴れた時に消えたものなど、誰にも気付けないことを。
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