菊花を束ねて

 ごめんなさい、とあなたは笑った。

 なぜ謝るのですか、と私は訊ねた。

 あなたがこの町を訪れたのは半年前のことでしたね。酷い夫から逃れて、着の身着のまま見知らぬ町に流れてきたあなたを、私はどういうわけ放っておくことができずに狭いアパートに匿ったのでした。

 私はあなたからじっくりと話を聞きました。そんな男とはもう縁を切りなさい。さっさと新しい人生を始めなさい。私は何度もそう言い聞かせました。

 だけどあなたはいつも泣きながら、あの人には私がいないと駄目なのだ、今頃怒って家中を荒らし回っているかもしれない、などと、ふざけたことを抜かして、家に戻るのだと言って聞きませんでしたね。

 ですので私はこう言いました。もしもまた、暴力を振るわれるようなことがあれば、すぐにでもここに戻ってきなさい。これまでの生活で、少しでも私に恩義を感じているのならば、それこそが報恩だと知りなさい。

 そうしてあなたは去っていった。

 半年経ったいま、あなたはまたここに現れた。

「謝るべきはあなたの夫です。あなたは被害者だ。今度こそ、離縁なさい」

「それはできないんです」

「なぜそうまで男に縛られるのですか」

「だって」

 あなたは少し申し訳なさそうな顔をして、私から目を逸らす。

「私には、その気はないですから。ここにいる間、ずっと、気持ち悪かった」

 あなたは一度も私を拒まなかったではないか。言いかけた言葉をぐっと呑み込む。もし他人に対して強く拒否するだけの力が備わっていれば、あなたは今のような状況には陥っていない。私は――ひょっとして付け込んでいたのか。

「でも、ここにまた来たということは」

 私は下卑た意味に捉えられないよう細心の注意を払って訊ねた。かえって白々しさが増していることに、自分の喉の震えで気付く。

「ただ、お礼をひとこと言いたかったんです」

「では――」

 夫からの暴力はなくなったのか――と失望しかけた自分に寒気がした。

「いえ。夫は相変わらずです。今日は、花瓶で頭を殴られたので、以前の約束を果たそうとここにお邪魔しました」

 私の使った「暴力」という言葉の意味するところは、なにも身体的なものだけではない。どうやら彼女はそのニュアンスすら把握できなかったようだ。

「私はこのまま夫の家の墓に入りますが、どうかお気遣いなく」

「なぜですか。警察に通報しなさい。傷害事件ですよ」

「警察には夫が通報しました」

 話がこぼれ落ちている。あなたの言っている意味がわからない。

「お礼をひとこと言いたかったんです。それだけ。それだけなんです。でも私はもう、家から離れられない。だから私は、自分で喉を突きました」

「あなたは――」

「本当に、お礼を言いたくて。どうしても約束を守りたかった。だから、ごめんなさい」

 あなたはまた笑った。

 あなたは決して私のものにはならないと知らしめるために、自ら命を絶ってまで、私の前に化けて出たというのか。そこまで私が嫌いだったのか。こうして、化けて出るほどにまで。

 気付くと私の部屋には、割れた花瓶の欠片が落ちていた。鋭い破片は、血で真っ赤に塗れていた。

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