Good Bye, Good Night

 夢見ることを忘れないで――。

 先生の言葉は今も私の中に根づいている。

 はい。忘れません。きっと。きっと。

 私はそう言おうとするけれど、言葉は水中のあぶくのように口の周りからこぼれて散っていってしまう。

 そこで目が覚める。

 私は深海へと潜っていた。息を止め、増していく水圧に意識を奪われそうになりながらも、深く、深くへと。

 おい、何をやっている。

 誰かが私の首根っこを捕まえて、思いきり上へと引き上げる。あっという間に私は海上の漁船へと引き揚げられ、急激な気圧変化で体内の臓器がぱんぱんに膨れ上がり、足蹴にされたことで破裂した。

 夢見ることを忘れないで――。

 答えようとして、今の私には不可能であることに思い至る。

 猿ぐつわを嵌められ、目隠しをされ、両手両足を縛られた状態で椅子に固定されている。

 これは熱々の鉄の棒です、と断りを入れられてから、私の剥き出しの腕に何かが押し当てられる。私は悲鳴を上げて痛みに耐える。ああこれは以前テレビで見たプラシーボ効果の実験だろうかと思い当たる。視界を封じられた被験者に熱せられた鉄棒だと言ってなんの変哲もない棒を押し当てると、被験者は勘違いをして押し当てられた部位には本当に火傷ができるとかいう。

 これは鋭い刃物です、と断りを入れられてから、私の小指の第一関節が切断される。

 これもプラシーボ効果だろうか。激痛と失った指先から流れ出る血の脈動をはっきり感じるのだけど。

 先生。先生。私は忘れません。だからどうか、もう一度会いたい。

「あら、珍しい」

 先生は私の記憶の中のまま、笑顔で立っていた。

 私は病床で横になっている。先生の顔を見つけて慌てて起き上がろうとするが、身体中につながれたチューブやケーブルに縛られて叶わない。

「先生」

 私は本当に久しぶりに意味のある言葉を口にした。

 先生は私を見下ろしながら小さく微笑む。ふわりとしたニットにナロースカート、その上に引っかけただけの白衣。

「夢は見ている?」

 頷く。

「そう。ありがとう。あなたのおかげで私たちは生きているの」

 だから――。

「これも夢ですか」

 私の質問に、先生は少し悲しそうな顔をした。

「主観による。あなたにとっては覚える価値のない夢かもしれないけれど、この構築された世界の人々にとっては、生まれた時からずっと続いてきた世界」

「だけど」

「ええ。あなたが目覚めれば、跡形もなく消え去る泡沫」

 私はいったいいくつの世界を滅ぼしてきたのだろう。それとも私の夢の数だけ、今も無数の世界が続いているのか。私は、一度たりとも目覚めたことはないのだから。

 夢の中で目覚めると夢の中にいる。無限に続く夢は、いつしか私をひたすらに不快にさせるものばかりとなっていた。まるで誰かが、私が夢の中にいることを厭うかのように。

 だけど私は先生の言葉を忘れない。

「夢見ることを忘れないで」

「はい。忘れません。きっと。きっと」

 ああ、やっと言えた。先生は私を讃えて笑ってくれる。

 この夢だけがずっと続けばいいのにと思う。だけど私は無限の夢を見続けなければならない。新しく夢を見る度、新しく世界が生まれていく。先生はきっと、どこかでそれを見ている。私によって生まれる世界を。私によって滅んでいく世界を。

 私が夢を見る前。もはやどこにも存在しない世界。私が夢を見ていなかったということは、もはやこの無限の中に含まれることはありえない。

 先生はそこにいる。私が決して見ることのできない場所に。私が目覚めてしまえばすべてが終わってしまう世界に。

 だから私はまた目覚める。結局は違う夢の中に向かうだけだとしても、私は夢見ることを止められない。

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