世界一の笑顔
最後に残った魔法少女――スレイフルは絶望的な状況でもなお諦めない。
敵は一人。たった一人。魔女ゼバンは最初から最後まで、たった一人でスレイフルたち魔法少女と戦い、彼女の仲間たちを容赦なく屠ってきた。
今まさに始まる世界の命運を賭けた戦い。スレイフルは怯え、震えていた。いくら今日まで生き残ってきたとはいえ、魔女ゼバンにかつて一矢でも報いたことさえない。
だけど、諦めることはしない。それはそのまま魔法少女の敗北を意味するのだから。
「あら、お出かけ?」
家の玄関を出ると、お隣の優しいお姉さんに呼び止められた。
魔法少女と魔女の戦いは、この世界とは位相の異なる
スレイフルはあっと言葉に詰まり、もじもじとお姉さんの顔を上目遣いで見上げる。
お姉さんと話すと、いつもこうだった。昔から隣のお家にいたはずなのに、いざ話すとなると妙に緊張と、よくわからないどきどきで胸がいっぱいになる。
お姉さんは穏やかに笑っている。スレイフルはありがとうございます、と心中で呟いた。
人々の笑顔こそ、魔法少女の力の源である。だから魔法少女が今界で戦う時、この世界では空が急に晴れたり、虹がかかったり、爽やかな風が吹いたりする。
みんなを笑顔にするため。
みんなの笑顔を守るため。
魔法少女が戦う理由とは、結局のところそれに尽きるのだ。
「お姉さん――」
スレイフルは勇気を振り絞って、お姉さんに声をかける。
「なあに?」
「私、必ず帰ってきますから。待っていて、くれますか」
お姉さんはスレイフルの決意の言葉に小首を傾げ、それでも秘められた覚悟をしかと受け取ったのか、やはり穏やかに笑った。
「心配しなくても、帰れなくなったら、私が迎えに行ってあげる」
「――ありがとうございます」
今度は声に出して、お姉さんに感謝を述べる。スレイフルは人気のない路地裏までくると、魔法の手鏡を取り出して詠唱を開始する。
目を開けると、そこは今界であった。見た目は今までいた世界と違いはない。だが人の気配は全くなく、無人の建物が並び立つばかりの無味乾燥な世界。
いや、いた。スレイフルが必ずや倒さなければならない相手――魔女ゼバンが。
先に仕掛けてきたのは魔女。黒い魔力の矢がどこからともなく放たれ、正確にスレイフル目がけて襲い来る。
「スマイレイジ!」
魔法の呪文を唱え、矢を魔力を展開したシールドで防御する。
周囲の空気が震えている。違う。これは哄笑だ。魔女がいかにも楽しげに笑っている。
「出てきなさい! ゼバン!」
地面が炸裂する。魔力による発破。スレイフルは空中へと飛び上がり爆発から距離を取る。
「どうしたの。もっと楽しませて。もっと抗って。もっと私を笑顔にしてよ」
黒衣のローブに全身を覆われた魔女ゼバンが空へと飛んだスレイフルのさらに上に漂っていた。
「ゼバン……!」
スレイフルの脳裏に散っていった仲間たちの姿が去来する。今界で消滅した魔法少女は、元の世界の誰からも記憶が消失する。みんなのことを覚えているのはもうスレイフルだけだ。そして、彼女たちの存在を奪ったのは、魔女ゼバン。
「スマイレイジ――フルチャージ!」
その時地球では、世界中でオーロラが観測されていた。まさに奇跡そのものの光景に誰もが空を見上げ、美しさに笑顔をこぼす。そうだ。みんなの笑顔が、私の力になる!
「消し飛べぇえええ!」
スレイフルの全てをぶつけた最大の一撃。爆炎は今界全体を真っ白に染め上げ、黒衣の魔女の姿はどこにもなかった。
「やった――の……?」
スレイフルはゆっくりと地上に降り立ち、同時に今界から元の世界へと帰還する。
それからのスレイフルの日常は、明らかに狂っていった。
家に帰ると、虚ろな顔をした両親が砂嵐の舞うテレビをぼうっと見つめていた。いつもなら笑顔で「おかえり」と言ってくれるはずの二人が、魂でも抜けたように砂嵐を見つめている。
学校に行っても同じようなものだった。クラスの中心でみんなを笑わせていた親友は、休み時間になるとひたすらノートを鉛筆で黒く塗り潰し続けた。ほかの生徒も似たようなもので、学校から笑顔というものは消えていた。
テレビをつけても砂嵐しか映らない。なのにみんなずっとそれを観ていた。インターネットのちょっと刺激的なサイトもエラーで表示されず、みんなで集まったSNSもサービスを終了していた。なのに誰も文句一つ言わない。
スレイフルは気付いた。魔女ゼバンを倒したあの日から、自分は一度たりとも笑顔を目にしていない。
どうして――魔法少女は、みんなの笑顔を守るために戦ってきたんじゃなかったの?
いつの間にかスレイフルも笑顔を忘れていた。周りのみんなと同じように、能面のような表情だけを浮かべて毎日を生きる。苦痛を覚えることすら忘れていった。
ある朝、学校に行くために玄関を出ると、お隣のお姉さんと鉢合わせした。お姉さんはなんだか久しぶりだね、と穏やかに笑った。
スレイフルは恐ろしく長い間目にしていなかった笑顔というものを目にして、飢餓状態のまま大量の肉をかっ食らったかのような胸の苦しさを覚えた。
やがて胸のつっかえがとれると、スレイフルはお姉さんに抱きついて泣いていた。
お姉さんは優しく笑ったまま、スレイフルを抱きとめてくれた。
「大丈夫だよ。かわいいスレイフル」
お姉さんはなぜか魔法少女としての名前でスレイフルをなだめてくれる。
「魔法少女はみんなの笑顔を力に戦う。それはね、この世界から笑顔というリソースを際限なく吸い上げてしまうということなの。笑顔にだって限りはある。涙がいつかは涸れるように、笑顔だっていつかは涸れる。魔法少女が戦えば戦うだけ、この世界の笑顔の寿命は尽きていく。私にはそれを止めるという使命があった。なんとしてでも魔法少女を滅ぼさなければならなかったの」
そう。魔女ゼバンこそがこの世界の救世の使命を帯びた戦士。魔法少女こそがこの世界を枯らし果てる災厄。だが――
「でも、あなたと出会った。あなたの笑顔が大好きだった。あなたの笑顔だけが、ね。ねえ、笑って? スレイフル」
お姉さんはにっこりと微笑み、スレイフルと額を突き合わせる。
「この世界で笑顔を覚えているのはもうあなたと私だけなんだもの。それって、お互いにとって、世界一の笑顔になるということでしょう?」
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