第2話

 でも……。

 若菜は打矢を無造作に壁に掛け、タオルを手に取り、顔をぬぐって肩にパシンと――微妙におっさんくさい動作で掛け、ニカっと笑った。

「匠、風呂借りるよ」

 今日はもうお仕舞いか。

 まあ、いい。

 明日は、こっちから打ち込んでやる。

 俺も装備を道場の壁に掛け、盗難防止の鍵で固定する。知らなければこれ単品で使うって考えが浮かばないような武器だけど、人を殺せる代物である以上、管理は疎かにできない。

 道場の掃除は――、午後にするかな。

 埃は見当たらないが、木の壁には傷が多い。俺と若菜がつけたものもあるけど、もっと昔からある傷の方が多かった。戦前は、門下生も多かったと聞く。その名残だ。

 まめに掃除しているとはいえ、経年劣化を感じさせるどこか煤けたような道場。再興を望むなら、建て直しが必要なんじゃないかって思う。舐められないためにも。

 いや……。まあ、本当に再興させる気があるのかって訊かれれば、言葉を濁さざる終えないけどさ。

 道場を出て、その出入り口にも鍵をする。

 庭の向こうにある母屋に戻ろうとして振り返ると、俺の作業が終わるのを待っていたのか、若菜が横に並んだ。

「ああいうキャンプの後だとさ、なんか、こう、都市に住む幸せを噛み締められる気がする」

 若菜は大袈裟に感動している……ふり? 演技? まあ、そんな感じの、作為を拭いきれない態度をしてせ見せてきた。

「お湯の出るシャワーに、良い香りのするボディソープ。コーヒーと甘いお菓子」

 若菜はチラチラと俺の方を見ながら言っているんだけど、いまいちその意図がつかめなかった。昼食は、コーヒーと甘いお菓子にしたいんだろうか? いつも通り、和食の準備を朝のうちに済ませてたんだけど……。

「あ……。そう」

 風呂は普通に使えるし、ボディソープも若菜が持ち込んでいるものがまだあるはずだ。コーヒーはインスタントでよければすぐにでも出せるし――まあ、夏場にホットなんて俺は飲む気がしないが――、甘いお菓子も、台所へ行けばなにかあるだろう。

 うん、どれを要求されても対応は可能だ。だから『あ……。そう』としか返せない。今日の最後のひと勝負で負けた以上、適度にいうことを聞いてやらないと、またメンドクサイ騒ぎ方をされるし。

「感じ悪いんじゃない?」

 俺の左頬に、若菜の人差し指がつきささる。

 っていうか、若菜は俺がにこやかで馴れ馴れしく若菜と接するとでも思っているんだろうか? ……もしそういう感じで接したら、キモイとか言うくせに。

「午後から出掛けるから、ちゃんと準備してよ」

 それが本題だったのか、不機嫌な顔をしつつ、どこかこちらを窺うような視線が上目遣いに向けられる。

 若菜は、女子としては背が高い方なので、俺とそんなに身長は変わらないけど、こうして並ぶと、やっぱり自然と上目遣いになるらしい。元々、真正面から向き合い続けていた影響からか、若菜はあまり顔を上げるようにしては俺を見ない。多分、同じぐらいの背丈だった時の感覚が抜けていないんだろう。

「いってらっしゃい」

 分かってはいるけど、あえてすっとぼけて見せると、頬をつついていた若菜の指が、今度は頬を抓ってきた。

「匠も来るんだっての。アンタの秋物もいくつか買わせたいし」

 お盆も過ぎ、夏休みも後僅かだってのに、俺は神聖なる休日を平穏には過ごせないらしい。まあ、宿題も済んでるから、出かけるのに不都合は無いけどさ。

 ただ、若菜と買い物に出かけると、疲れる。

 ……いや出歩くのが疲れるという意味ではなく、金を遣うということによる気疲れだ。

「若菜の選ぶ服は高い」

 夏は、三~四千円するネクタイっぽいなにかのついたポロシャツっぽい服を買わされたし、秋物って言うと春の感じから五~六千円するジャケットとか、買わされそうだ。特になにか使う予定のある小遣いでもないが、無駄な出費は好きじゃない。

 ……高校卒業後、なにがあるとも分からないんだし、大学のための貯金は悪いことじゃ無いはずだ。

「安くて丈夫なカーゴパンツで俺は良いのに」

 頭の後ろで手を組んでぼやくと、若菜が肩に掛けていたタオルを振り被って――。俺の後頭部をぼふん、と、タオルで叩いてきた。

 濡れてもいないので痛くはない。

 若干、若菜の匂いがする程度だ。より正確には、若菜がずっと使い続けている制汗スプレーの柑橘系の香りが。

「バカバカ! フザケンナ! そんな許婚連れて歩けるか!」

 ぱふん、ぽふん、と、打矢で鍛えられた若菜の連撃が、タオルによって完全に威力をなくした上で俺を襲っている。

 そんな許婚連れて歩けるか、なんて言われても困る。自発的に若菜の後をついて歩いているわけじゃないんだし、俺を連れ回すなら、少しぐらいはこっちに歩み寄ってくれてもいいだろうに。

 それに、野暮ったい格好の男が嫌なんだったら――。

「いや、てか、許婚って周囲に広まってるのも若菜がそんなことをよく言うからであって、お互いに距離を取っていれば、知っている人だけが知っている雑学的なものとして――」

「なんで秘密にしたいの?」

 右の頬も抓られ、正面を向かされる。

 頬を抓られているせいか、どこかシリアスになりきれない部分はあるけど、若菜の目は全く笑っていなかった。

 ふん、と、鼻から溜息を逃がす。

 若菜の肘を軽く叩いて抓っている指を外し、少しだけ斜めに構えて俺は言った。

「吹聴する話じゃないって言ってるだけだろ」

「なにが不満なわけさ。私の」

 若菜の目が据わっている。犯罪者を断罪するかのような視線だ。

 しかし、それにあっさりと負けてやるような間柄じゃない。っていうか、俺は別に不満だとかそういう話をした覚えはない。若菜の被害妄想だ。

「不満だなんて、言ってない」

「言ってるも同じだっての」

 ああ、もう!

 若菜は安易にムカつくとかいっているが、俺の方がムカつくことが多いように思う。最近は特に。

 前髪を掻き揚げ、半目で若菜を睨み返すと「匠が風呂入る時、水風呂にしといてやるんだから!」とか叫ばれた。

 が……。ん? ちょっと待て、おかしくないか?

「え? 湯を張るのか? シャワーだと思ってたから、それは準備してないぞ」

 一応訊き返してみると、若菜はきょとんとした顔になって――すぐさま、顔を真っ赤にして言い返してきた。

「……風呂上りに、ガスのスイッチ切るもん!」

「いや、普通に服脱ぐ前にスイッチ入れ直せば良いだけだろ。お湯出るまで、そんな時間掛からないぞ」

「なんでああ言えばこう言うの!」

「お前がだよ!」

 肩を怒らせて脱衣所へ向かう若菜の背中を見送る。

 若菜の天然のせいで、シリアスな空気台無しだ。


 ……狙ってそうしたのかもしれないけど――。いや、考えすぎだな。若菜は、時々って言うか、ちょくちょく天然が出るし。かと思えば、何気ない一言を深読みし過ぎて怒ったりもするから、始末に終えない。

 ああ、もう!

 と、若菜に聞き咎められないように心の中だけでひとりごちてから、俺は台所へと向かった。

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