第1話

 枕元に、ドン、と置かれた洗面器の重い音で目が覚める。

 寝付いた時間が違ったせいか、朝は若菜の方が早く目覚めたみたいだった。

「身体拭くんだから、外出ててよ」

 寝起きでいきなりテントから放り出されるっていうのも、酷な気がするんだが、それを聞く若菜じゃないことも分かっている。

 素直に起き上がり、目を擦ってから伸びをしながら、あくびを放つ。

「おうふ⁉」

 が、腹に若菜からの軽い一撃を受け、あくびも出し切らないままに身体をくの字に折り曲げてしまった。

 腹を押さえるように上体を傾げたまま、上目遣いに若菜を睨みつける。

「顔向けてあくびしないでよ」

 降ってきたのは、そんな不満そうな声。

「寝起きで殴るな」

「今は襲って良い時間だし」

 こういうタイミングで俺が襲えば、セクハラだのなんだのと騒ぐ癖に、随分と横暴だ。まあ、最近は若菜の方も、昔みたいに避け損ねれば骨が折れたりするような一撃を不意打ちで見舞うようなことはしなくなってきているものの……。

 いや、やっぱり一方的に攻撃されるのは面白くないな。

 半目で若菜を睨むが、効果は無かった。むしろ――。

「ちょっと、匠! 夜、外に出たんじゃないでしょうね。そんな眠そうにしているなんて……」

 なんて、要らない追及を受けてしまう。

「……若菜の目が覚めた時、手は離れてたのか?」

 自分の右手を目の高さまで持ってきて握ったり開いたりする。若菜の方が先に起きたので、余韻も何も残ってはいない。こっちには。

 視線を、右手から若菜の方へと移動させる。

 若菜が真顔になって――、両腕をブンブンと振りだした。

 真っ赤な顔のまま、俺の背中をぐいぐいと押す若菜。

「外に出ろ! 出てろぉ!」

「言われなくても、そうするっつの」

 背中を押す若菜がつんのめるくらいに、さっさとテントから出る。振り替える間も無く、若菜がテントの入り口のチャックを閉める音が聞こえて来た。

 因縁つけられるから、振り返る気も無かったけどさ。

 ん、ふぁ~、と、さっき中途半端になった伸びをして、河原の方へと足を向けてみる。理由は無いけど、まあ、なんとなく。

「どこ行く気だよ! 離れるなぁ!」

 しかし、三歩も踏み出さない内に声を張り上げられた。

 ……めんどくさいヤツだ。

 日はもう出てるってのに、まだ怖いらしい。

 テントに背を向け、適当に腰を下ろす。

 川の水面は、まだ静かだ。木々のおかげで、太陽がまだ映り込んでいない。蝉はもう鳴き始めているけど、鳥の声もそれなりに響いている。

 腰の少し後ろに両腕をついて、体重を預ける。

 指先が少しひんやりとした。

 森の朝は、晴れの続く夏場でもこんな風にうっすらと雨で濡れたような湿気がそこかしこに降りている。

「匠、覗かないでよ」

「覗く意味が分からないし」

 いつも通りの遣り取りを、脊椎反射で適当に交わしながらもう一度俺はあくびをした。

 俺もさっさと顔を洗って、目ヤニとか取りたいかも。

 山の中で風呂とかは入れないので、洗面器二つを上手く使って身体を拭いたり、髪を洗ったりしている。片方が入浴――というか、水浴び? も、違う表現か。まあ、そんな感じで日々の汗や汚れを落としている間、もう片方は外を見張るのがルールになっている。

「どういう意味⁉」

「だって従姉妹じゃん」

「許婚の癖に」

「若菜は、都合良くそれ使うよな」

「匠もでしょ」

 基本的に、この朝の会話は毎日変わらない。よくもまあ飽きもせず同じことを言い続けられるよな、と、感心してしまいそうになる。

 ってか、逆にこれだけ念を押されると――。

「……結論を聞くけどさ?」

 ん? と、首を傾げたのか、軽い感じの水音が響いた。

「若菜は、覗かれたいのか?」

 返事はすぐに返ってこなかった。

 森の朝の喧騒が遠くなったような沈黙が流れる。

 ひと呼吸、ふた呼吸。

 言い訳のつもりは無いけど、長すぎる間に、意図を説明しようかと思って大きく息を吸った途端、若菜の怒声が辺りに響き渡った。

「バッカじゃないの⁉ アンタ、許婚をなんだと思ってるの? 私は変態か!」

「じゃ、別になにもしないんだからほっといてくれ」

 今まで覗いたことも無ければ、覗こうとしたこともないのに、これだけしつこく繰り返されると、逆の意味に解釈してしまいそうになる。

 若菜も、それは分かっているのか、しばしの間返事が途絶え――。

「男子って、さ。もっと、こう、エロいの大好きな生き物じゃないの?」

 質問というよりかは、断定に近い調子で問い掛けられた。

「偏見だろ、オイ! 須らくそういうわけじゃないし……」

 特に意識していなかったから本音が出かけ、慌てて口を閉ざしたが時既に遅し。耳聡く聞き咎めた若菜に復唱されてしまった。

「ないし?」

「いや、若菜のボディはそうしたアプローチが弱い」

 まあ、朝から寝起きで腹パンされたりしているので、別にいいかと俺は言いかけてやめた台詞を口にした。

「ぶっ殺すかんね⁉」

 案の定、さっきよりも熱のこもった怒声が若菜から返って来た。

 ムカつくの上位表現だ。めんどくさい。しばらく根に持たれるだろう。もっとも、今更遺恨のひとつふたつ増えても別に大差ないけど。五十歩百歩なんて諺もあるんだしな。

 しかし、これ以上若菜をつついて、俺の身支度を整えている時に襲われてもたまったもんじゃない。もう黙っていよう。

 そう決めた矢先、腹の虫が収まらないのか、若菜の方から怒鳴りつけられた。

「てか、それも匠のせいじゃん!」

「なにが?」

 若菜の育ちの悪い胸は、俺のせいではなく、鍛えているからだと思う。いや、実戦武術をやっていることが俺のため、という認識なのか? 若菜の中では。

「私の胸、子供の頃の匠の飛び蹴りが原因で小さいんだよ⁉ 絶対に!」

 予想とは全く違った若菜の論理は、到底受け入れられるものではなかった。

「はぁ⁉ 言いがかりだろ? 俺、今も若菜にぶっ叩かれてるけど、背は縮んでないぞ?」

 って言うか、俺の場合は、小さい頃に若菜に左腕の骨折られたこととかもあったけど、それでも左右の腕の長さが違うなんてことはない。つーか、折られただけじゃなく、命に関わるような傷を受けたこともあったけど――。身体の左右のバランスとかに、異常は感じていない。

 針小棒大も甚だしいな。

「アンタの身長と、私の繊細な胸を同列で比較するな。それに、クリーンヒットした右胸の方が左より若干小さいし」

「え?」

 若菜の発言に弾かれるようにして、改めて左右の腕の長さを比べてみようとするけど、多分、同じだと思う。利き腕の右の方が、若干太い気はするが、その程度で、顕著な差は無い、と、思う。見た感じ。

 思うんだけど……なんだか、不安になってきた。

「反省した?」

「いや、……左右でサイズが違うことってあるのか?」

 自分の腕に関しても、不安はある。

 だが、それ以上に、女性の胸の左右違うことがあるという驚きの方がどうしても強かった。そこまで深く考えたことはなかったけど、今までは、同じのが左右の胸についているって認識で――。

 ううん。

 え? でも、左右で違っていいのか。服とか。あ、でも、だから女物の服って高いのか? 若菜の買い物についていくと、俺の服の倍以上の値段のが普通だったし。もしかして、パットって、女性の見栄の為にある小道具じゃなくて、そういう補正の為に開発されたとか……。

「お店の人は、左右で大きさが違っても変な事じゃない言ってたよ」

 拗ねたような若菜の声。

 お店の人ってアレだよな。男子禁制的な、桃色チックな売り場の。

 ……え? でも、お店の人とやらが動じなかったっていうことは、割とそういう人も多い、のかぁ? ちょっと、う、ううん……む、難しいな。正直、よく分からない。

 ので――。

「すまん、若菜」

「珍しく素直じゃない」

 俺の謝罪を自分に都合のいいようにだけ受け取ったのか、ちょっと上機嫌になっている若菜。

 折角の気分に水を差すようで悪いが、そういう意味だけじゃないので俺はすぐさま補足した。

「いや、そういう意味で謝ったんじゃなくて」

「は?」

 若菜の本気で分かっていない声がする。

「覗いていいか? サイズが左右で違うという事実に興味が出てきた。これは、性的なアレじゃない。学術的な興味関心だ」

 はっきりきっぱりと下心ゼロの声で訊ねてみると、絶対零度の声が若菜の方から返って来た。

「本気で殺すよ?」

 やっぱり確認はさせてくれないらしい。

 まあ、当然だが。

 うん、残念なんて思っていない。従姉妹で許婚の裸になんて、な。

 色々な感情を吐き出した溜息の後、まるでもう午後になったかのような疲労感で俺は言い返した。

「若菜が俺を殺そうとする時は、たいていいつも本気だろ」

「匠がバカなことばっかりするからじゃない」

「いや、若菜には負ける」

「なんだと⁉」

 言い合いがいつも以上にかなり長くなってしまったせいで、朝食はブランチになり、若干訓練の時間もずれていった。

 だけど、それ以外は大きな事も無く九日目の訓練も無事に進み……。

 その翌日、十日目の正午に下山準備に入り、俺達の夏の野外訓練は幕を閉じた。

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