その日の姿を彼は忘れない

 ――過去を振り返った時、彼は今日という一日が不幸のバーゲンセールだと断じただろう。

 激痛の走る身体、進む毎に苦しくなる胸。背後からは木々を薙ぎ倒しながら迫る怪物が居て、間違いなく己の命を奪わんと矛先を向けていた。

 その非現実さに最初、早乙女は理解が一切及ばなかった。

 普段から人が通らぬ道であれど、一切人が通らない訳ではない。故に影が見えたとしても近道を使う人間が他に居たと思うだけで、しかし近付けば近付く程に影はあまりにも大き過ぎた。

 そこで初めて彼は意識を影を向け、それが実際には影ではないことに気付く。

 影だと思っていた黒い正体は人型のナニカだった。そう表現するしかない程、それは人の形をしているだけの別物だったのだ。

 黒い鱗に全身が覆われ、頭部と思わしき触手は垂れ下がっている。地面に届きかねない程の長い触手を揺らし、黒い怪物は早乙女を認識して襲撃を開始した。

 

 背後を取る際の跳躍を見た時、冗談ではないと早乙女は内心で絶叫した。

 怪物は170cmの早乙女よりも明らかに大きく、二mは超えているだろう。恵まれた体格も合わせて全体の体重は彼以上にあり、跳躍したとしても生い茂る木々を飛び越えるような事はない筈だ。

 それが成せるだけの筋肉量を持ち、実際に怪物は早乙女を脅す為か時折隣の木を片腕一本で安々と折っていた。専門の職人がチェーンソーで切断しなければならない太さの木を簡単に折れるのであれば、一度捕まれば呆気無く早乙女は死ぬだろう。

 だからこそ疑問も湧く。

 あの怪物の跳躍力であれば再度飛んで反対側に先行することも可能だ。それをせず、敢えて弱っている早乙女に追い付けない程度に留めているのは何故なのか。

 

「ゲゲゲゲゲゲゲゲゲゲゲゲッ!」


「……!、こいつ。 もしかしてッ」


 発声器官が何処にあるかも不明な怪物から嘲笑混じりの鳴き声が響く。

 何重も合わせたような音には確かな感情が乗り、目前の怪物に意思があることを否応なしに理解させられた。

 楽しんでいるのだ、この状況を。己が絶対の強者であると理解しているから、弱者を甚振ることに悦を覚えている。

 なんてことはない話だ。人間同士の間にも甚振り合いはそこかしこで起きていて、早乙女本人も甚振られる側だった。相手は人の姿形を僅かしか持っていないとはいえ、そこに感情が宿っているのなら似た思考を持ち得ていても不思議ではないだろう。

 本当に、本当に厄日だ。

 荒い息を吐きながら何度も何度も早乙女は恨み言を胸の中で呟き続ける。

 自分が一体何をした。自分は一体何を間違えた。誰かを殊更に責めた覚えは無く、犯罪行為に手を染めたこともない。至って普通の日々を送っていただけなのに、どうして得体の知れない化け物に襲わねばならないのか。

 

 一度はコスプレをした変質者の線を彼は考えた。

 しかしそれは脅威的な跳躍力と腕力によって容易く粉砕され、そして最悪な事に彼の思考はこのままの展開を容易く想像させてしまう。

 仮にこのまま逃げたとして、森を抜けた先にあるのは道路だ。道路には普段から人通りがあり、今この瞬間にも多くの人間が行き交っているだろう。

 そんな場にこの怪物が出れば、早乙女本人の狙いは外れるかもしれない。

 だが、別の人間が狙われることになる。そして、大量の人間を殺すのであれば手を抜くことは流石にしないだろう。これまでの遊びの雰囲気を捨て、全力で虐殺を開始する。

 逃げて誰かに押し付けるか、逃げずに自分が死ぬか。

 究極とも言える選択肢に頭痛を覚える早乙女は、それ故に道半ばに転がっていた石に躓いた。

 しまったと思うよりも先に身体は転がり、満足に受け身も取れていない身体は追加の痛みを彼に与える。思わず悲鳴を上げるも、それに答えるのは嘲笑ばかり。

 

「まっず……このままじゃ追い付かれるッ」


「ゲゲゲゲゲゲェ!」


 慌てて立ち上がろうとするも、足にこれまでとは異なる痛みが走った。

 純粋な打撲による痛みではなく、骨身に染みるような激痛。骨に異常が発生したのは瞭然であり、それでも強引に立ち上がった。

 だが、立ち上がった時点で怪物は既に目の前にまで迫っている。

 確認の為に振り向いた先には、腕を振りかぶった化け物が居た。再度転がるように彼は前に動き、刹那の後に地面を抉る鈍い音が鳴る。

 見れば、コンクリートの地面は腕の一撃で砕かれていた。あるいは、掬い取られていた。

 下にある土が露出し、無くなった分のコンクリートの塊は脇にある木々に激突している。大部分が抉れた木は徐々に倒れ、化け物の背後にある道を封鎖した。

 

「は、は、は、は、は、は」


 息が荒くなる。思考が上手く纏まらない。

 本能が立ち上がることを指示するが、激痛と諦観がそれを無視させる。

 これから立ち上がったとして、走り出す前に怪物が彼を捉えるだろう。容易く人体を破壊出来る一撃の前では早乙女の身体は耐えられず、呆気無く弾けるのが解ってしまった。

 解ってしまったからこそ、次に浮かぶのは死の一文字。これまでの虐めが生温く感じる恐怖を前に、最早懇願の言葉すらも出てこない。

 終わりだ。俺の人生はもう、これで終わりなんだ。

 高校二年。人生という道の中でもまだまだ始まりの部分とも言える場所で、彼の命は終わろうとしていた。

 こうなるくらいであればと彼はこれまでの学生生活を後悔した。下手に殴られ続けることを良しとせず、何としてでも阻止するべきだったのだ。

 今ならば彼等に立ち向かえる。この怪物の後であればどんな人間にも負けるつもりはない。


 終わりだからこそ出てくる本音。今更遅いと冷徹な言葉が響き、その通りだと自嘲的な笑みすらも浮かぶ。

 せめて死んだ後にもう一度同じ世界で生まれ直せたら。そう願い、彼はそっと目を瞑る。訪れる激痛を待ち、確かに怪物が拳を持ち上げる音を聞いた。


『――死にたくなければ動くな』


「は?」


 耳に突然入り込む言葉。その意味を理解し切る前に、高速の何かが上から怪物を弾き飛ばした。

 勢いが籠った攻撃とも表現すべき現象で怪物の身体は倒れた木に叩き付けられる。しかし、早乙女はそちらを見ていなかった。

 攻撃によって巻き上がった土煙が晴れ、彼は出てきた人物に目を見開く。

 黒に青のラインが入ったパーカーで全身を包んだ人間。着地した地面は陥没し、小規模なクレーターとなっている。

 ゆっくりと立ち上がった人物は一度早乙女に視線を向け、直ぐに興味を喪失したとばかりに敵に向けられた。

 何が起きたのか理解が追い付かない。されど、状況は早乙女の混迷を無視して進む。立ち上がった怪物は先程とは明らかに異なる速度で謎の人物に向かい、固めた拳を放つ。

 その威力は早乙女も知っている。だが、拳を放つ速度があまりにも桁違いだ。予備動作が見えなければ殴っていると知覚出来ない程、その拳は速い。

 

 咄嗟に早乙女は注意を促そうとするが――怪物の拳は呆気無く謎の人物の手で止められた。

 

「……え?」


 最早まともな言語を口にすることも出来ない。

 全身に巡る痛みすら無視して、間近で起きた意味不明な現実に唖然とする他なかった。

 謎の人物はそのまま腕に力を込め、鱗ごと拳を握り潰す。これまで嘲笑ばかりだった怪物は明確に悲鳴を上げ、先程ぶつかった木のある方向へと逃走を開始した。

 だが、謎の人物はそれを見逃さない。

 垂れ下げていた右腕。その先にある指先を弾く。一瞬の火花が闇を照らすが、次の瞬間に右腕全体が炎に包みこまれた。

 

「ちょ! え! 燃えてますよ!?」


 思わず心配な言葉を吐くが、謎の人物に苦しんでいる様子は無い。

 右腕を前へと突き出し、炎は不自然に動いて掌に集まった。球形となった火の塊はあまりにも非自然的で、故に早乙女にも炎を操っていると解る。

 解るが、目の前の人物は特別な装備を何も身に付けていない。

 寧ろ燃えそうな素材ばかりを身に纏い、にも関わらず一度燃えた筈の右腕に焼けた跡は見られなかった。

 木を登り始めた怪物に右腕で狙いを合わせ、球体は一気に身の丈程のサイズにまで拡大。間近に居る早乙女はその熱さに恐ろしさを感じながらも、まったく目が離せなかった。


『死ね』


 謎の人物――声からすると男性の最後の言葉の後、球形は線状に変化して怪物を燃やし尽くす。

 

「げ、げっげげげげ、げ、げ!? げげげげげげげげげげげげげげ!!」


 怪物の断末魔は酷く甲高く、そのまま何も出来ずに致死へと至った。上半身の殆どを灰に変えられ、僅かに下半身だけが残る身体は――あの恐ろしい怪物とは思えない程に早乙女には貧弱に見えた。

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