人間とはたった一瞬の出会いで人生を変えるものである

『このまま此処に居れば要らぬ容疑を掛けられるぞ』


 低く、落ち着いた声に早乙女は意識を男性に向ける。

 怪物は死に、周辺は焦げているだけで燃えてはいない。一般的に膨大な熱量を放出すれば森林火災に一気に発展しかねないというのに、不自然なまでに木々は燃えてはいなかった。

 原因には既に辿り着いている。安心安全となった事で思考が正常に戻り、お蔭で先程よりも回転が速い。

 一連の流れを全て見て、あの炎が全て男から発生していることが解った。炎の操作までも簡単に熟し、男は暴力の塊とも言える化け物の命だけを刈り取ったのだ。

 必要以上に周囲に被害を齎さない。そして、冷たい印象を思わせながらも男は早乙女を心配した。

 

「あ、あの……。 ありがとうございます、助けていただいて」


『構わん。 仕事だ』


 本人は本当に礼など求めていないのか、死体を眺めた後に踵を返している。

 仕事。早乙女は男の言葉に疑問を抱き、胸に抱えたものを吐き出すように口に出した。


「待ってください! さっきのは何なんですか!? 貴方は一体――――」


『聞かない方が身の為だ。 今回の件についても口を噤んでいた方が良い。 馬鹿な真似をすれば、せっかく拾った命が無くなるぞ』


 吐き出した言葉は一刀両断された。

 そのまま再度の追求を行う前に男は遠くに跳ね、一瞬でその姿を喪失する。痛む身体に眉を寄せながら起き上がって周囲を見るも、空へと舞った男の姿は何処にも見受けられない。

 当然だ。あの怪物をも容易く粉砕する力を持った人間であれば、早乙女程度の目から離れることなぞ造作もない。

 突発的な出来事ではあったが、早乙女は先程の男の言葉に従って家へと一目散に帰った。

 既に夜となった道は見慣れている筈だが、今の彼には全てが新鮮に見えている。生きている事実そのものが現在の状況を尊く思えているのか、ただ単純に安心しているのか。

 解らないながらも家に辿り着き、鍵を差して扉を開けた。

 何時もの家の感覚を肌が捉え、何故か慌ててリビングに入る。そこには夕飯を作る母親に、新聞を読んでいる父親、更にテレビを見ている中学生の妹が居た。

 

「おかえり。 ……どうしたんだ、蓮司。 そんなに服を汚して」


「お帰り兄貴。 ……どったの?」


 当たり前の姿がそこにある。 

 暫くその様子を眺めていた早乙女は、次の瞬間には滂沱の涙を流した。突然の涙に料理をしていた母親も一緒に彼の心配をし始め、その日は珍しく彼に注目が集まったのである。

 何とか皆で食事を摂る机の前に座り、嗚咽を漏らす。母親が持って来た冷たい烏龍茶を一気に飲み干し、有り触れた味にやはり涙を流した。

 流して流して、漸く落ち着いた頃に早乙女は思い出す。

 彼を心配気に見つめていた妹の肩を掴み、何処か酷い目に合っていないかを確認する。


「奈々、今日帰ってくるまでの間に誰か話し掛けてこなかったか!?」


「うぇ? う、うん。 別に誰も話し掛けてこなかったよ。 ――あ、でも」


「でも?」


「何か妙な視線は感じた。 家に着いたら消えたけど」


「……畜生め」


 真木の言葉を思い出し、怒りに歯噛みする。

 その顔を初めて見た家族は全員が驚くが、直ぐに父親は真剣な表情を浮かべた。理由は定かではあらずとも、妹が関係しているのは間違いない。

 そして、何が原因かを息子は知っている。場合によっては警察を呼ぶことも含め、涙を拭った早乙女に何があったと父親は静かに問い掛けた。

 母親も一旦完全に料理の手を止め、椅子に座る。

 妹も雰囲気から自分に関係することだと察し、不安に駆られながらも耳を早乙女に傾けた。

 全てが自分に集中していることを視線で確かめ、彼は今日起きた出来事の一部を話す。学校で虐められていること、首謀者は社長令嬢であること、何が原因かは不明であれども彼女の逆鱗に自身は触れてしまったこと。

 そして、その怒りを払拭させる為に妹を性的な方法で襲うと脅してきたこと。実際に携帯の通話ボタンを押されていれば妹は通話先の人物に襲われていた可能性が極めて高い。

 

 その事を聞き、妹は自身を抱いた。

 今日この瞬間にトラウマが刻まれそうになっていたのだ。兄が虐められていた事実に驚きはしたが、それ以上に今日の自分がどれだけ危険な橋の上に立たされていたのかを理解させられた。

 恐ろしい形相を浮かべたのは両親だ。特に父親の怒りは凄まじく、早乙女に対して相手の情報を可能な限り尋ねていく。


「あの会社の社長令嬢か……。 蓮司、何か証拠は掴んでいるか?」


「悪い、父さん。 せっかくあの女の携帯を奪ったのに直ぐに地面に叩き付けて割っちゃったよ」


「いいさ、それくらい奈々を大切にしてくれたということだろう? お前の怒りを肯定することはあっても、否定することはしないさ」


 早乙女の家族は妹を溺愛する傾向が強いが、かといって早乙女蓮司の存在を無視することはない。

 怒りに我を忘れることはある。証拠が手に入らなかったのは残念ではあるものの、そもそも妹の件とは別に責められる口実は幾らでも存在していた。

 早乙女蓮司の虐め問題は依然として継続中である。此処を理由に証拠集めを行えば、自然と加害者側も対策を練らねばならなくなるだろう。

 そして、その瞬間にこそ付け入る隙が出来るものだ。つまり早乙女の父親は今暫く自分の息子に我慢を強いることになるのだが、本人が何かを言おうとする前に口を開けた。

 

「一先ずこっちは証拠集めをするつもりだけど、我慢はしないよ」


「……どうするつもりだ?」


「明日になればあいつらは普段通りに登校する。 そして昼休みや放課後にでもなれば何かしら話し掛けてくるよ。 ……これまでは流してきたけど、次はそうしない」


 今日という一日の中で、最も恐ろしかったのは真木達ではない。

 黒い巨人。人間を超えた力を持つ怪物に追われた際は死を覚悟したし、実際にあの男性が助けに入らなければ死んでいた。

 誰かが手を差し伸ばさなくては助からない逃げは不安定だ。人望が多ければ誰かが人を呼ぶだろうが、残念な事に虐められている早乙女に手を差し伸ばしてくれる誰かは居なかった。

 誰も彼も味方ではないのだ。――ならば、己の意思で解決するしかないだろう。

 弱いままでは食われるだけ。例えそれが今は虚勢であっても、何時かは形になると早乙女は信じている。

 

「騒ぎにするんだよ、それも大きなね。 何処もかしこも噂をするような大きな騒ぎになれば、教員達だって黙ってはいられない」


「お前……」


「俺自身の怒りはある。 だけど、それ以上に奈々に手を出そうとしたことが心底許せない。 やられるだけなんてのはこれで終わりだ」


 今から鍛えたところで直ぐに暴力で勝てる見込みはない。

 相手は複数で、早乙女は一人。加えて言えば主犯格の真木は社会的地位が高い。彼女を護る壁は厚く、最悪は彼女の父親が直接表に出てくるのは想像出来る。

 されど、その程度で諦めるつもりは彼にはない。流されることがどれだけ愚かであるかをこの夜に彼は体感したのだから。そして、本当に強い人間を彼は知ったのだ。 

 パーカーで全てを隠した男の背中を見た。

 敵の一撃を容易く受け止める掌を見た。

 一瞬で全てを灰燼に帰す焔を見た。

 男が求める強さの極致。何者にも犯されない真の力を証明するが如く、炎を宿した佇まいに早乙女は確かに魅了されたのである。

 あれだけの強さが自分にもあれば。そう考えるのは自然なことで、故に軟弱な自分に気合を入れる。

 罅の入った眼鏡を外した。心機一転と呼ぶ程の変化は、平凡な顔に確かな目的を刻むのに十分だ。

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