前日譚は嚇怒と共に
お昼も過ぎて、子供も帰る午後の五時。
学生は部活動に所属していなければ帰っている時刻となり、自然と足は自分の家へと向かっている。
それは一学生――早乙女・蓮司も一緒だ。彼は運動部にも文化部にも所属せず、所謂帰宅部として今日も慣れた道を進もうとしていた。
鞄を胸に抱え、顔を俯かせながら騒がしい放課後の教室からそっと抜け出す。
そのままなるべく目立たないよう歩いていたものの、彼のボロボロの姿を見た学生は自然と距離を取った。見るからに訳有りの生徒に近付く学生はそこまで居ないし、それに彼自身が悪い意味で有名になっている。
「おい」
早乙女の背後で声がした。
背中を跳ねさせながらゆっくり振り返ると、先程自身が出てきた教室の扉から一人の男が顔を出している。早乙女と比較すると体格は大きく、焼けた肌は健康的だ。金の髪を後ろに撫で付け、その顔は野性味に溢れている。
その顔が愉悦に歪み、見るからに悪い予感を想起させられた。
岩倉・裕二。彼の名前を胸中で呟き、今日もかと諦めの混ざった思いで早乙女は踵を返す。
この学校――倉田高校は至極一般的な学校だ。先進的な教育システムを備えている訳でもなく、特殊なカリキュラムがある訳でもない。特別秀でた部分の無い極めて平凡な学校であり、早乙女はそこに苦労せずに入学していた。
彼自身に大きな目的は無い。秀でた部分の無い人間だと思っている早乙女は無難な生活を送る為に中間程の偏差値を持つ高校を狙い、そして見事に失敗した。
最初の理由は定かではない。
ラノベを読んでいたのを覚られたからか、気弱な態度が丁度良いと思われたからか、常に成績上位者に名を連ねていたからなのか。
定かではないものの、結果だけで語れば彼は何時の間にか岩倉とその取り巻きとも呼べるグループに虐められるようになった。最初はパシリから始まり、次はカツアゲ、今ではストレス発散を目的とした暴力行為に及び、助けてくれる者は誰一人として存在しない。
今日もまた、彼は岩倉と複数人の男子生徒に校舎の裏で殴られていた。
腹を蹴られ、砂を投げ掛けられ、しかし顔だけは傷付けない。全身に渡って広がる青痣は最早数えきれず、一歩を刻むだけでも早乙女の身体は悲鳴を上げていた。
何時か彼の身体は限界を迎えるだろう。既に骨に罅が入っているかもしれない。
普通はそこまで虐められれば先生に相談する筈だ。どれだけ勇気が無かったとしても、彼等の間柄から問題が起きていると察する人間は多く居る。
それでも何も事態が変わらないのは、岩倉の背後で早乙女を見下す一人の女が原因だった。
「ほら、立ちなさいよ木偶の坊。 約束を破ったアンタにまだ罰は終わってないわよ」
「……グ……ゥゥ」
「さっさと立てや早乙女。 まだまだ殴り足りねぇんだ!」
力無き目で早乙女はその女を見る。
真木・陽子。
彼の在籍する二学年の支配者であり、虐めを起こした張本人。彼女の親はこの学校のOBでありながらある会社の社長にまで上り詰め、同じサクセスストーリーを踏ませる為に彼女をこの学校に入学させている。
光沢のある茶色の髪を一つに結んで垂らし、体格は女性の中では高い。眦が鋭いクールビューティにも見える美貌は、今や醜く歪んでしまっている。
彼女の親は岩倉高校に対して寄付の形で金を校長に渡していた。娘の不慮の事故を回避する為に手を尽くし、校長は件の社長に頭が上がらない。
その所為で教師陣も社長の娘である真木に何も言えず、逆に諂うようになった。それが彼女の増長を生み、何をしても許されるのだと錯覚したのである。
彼女が成績優秀者だ。頭脳明晰で運動神経も抜群。明らかに数段上の高校を目指すべき力を持ち、しかし頭脳部分は悉く頂点を手にすることが出来なかった。
目の前の早乙女が常に彼女の前を進み、一度たりとて抜かされることを許さなかったのだ。早乙女本人にその自覚は無かったが、真木にはそれが面白くなかったのである。
常に自分が一番。先頭を歩くのは自分でなければ納得しない。故に、彼女は彼に告げた。――態と手を抜きなさいと。
それは約束という名の強制だ。当然早乙女は彼女の命令を聞かず、やはりテストで頂点を取った。
「悪い、けど……。 貴方が何を言っているのか解らない……」
「解らない? 何が?」
「ぜん、ぶだ。 約束って……なんのこと?」
「裕二」
「おうよ」
校舎裏で鈍い音がした。
再度地面に転がされ、更に周囲の男子生徒が彼の身体を容赦無く踏み付ける。折角洗濯した学生服は汚れに汚れ、糸のほつれも目立つ。
一体全体、早乙女には自分が虐められる理由が解らなかった。そもそも、真木が何を言っているのかも彼は解らない。
胸にある困惑と嚇怒を込めた目を真木に向けるも、当の本人はもう飽きたのか髪を弄っていた。散々に甚振っておいてそれはないだろうと彼は思うも、口にするだけの余裕はない。
「はぁ……。 私もね、こんな真似をしたくはないのよ。 アンタがあんなにも聞き分けが悪いとは思わなくて、だからこうして躾けているの。 もういいわよね?」
「何を言っているのか解らない、って。 さっきから言ってるだろ……」
「そう――じゃあコレがどうなっても良いかしら」
早乙女の言葉にまだ反省をしていないのかと思う真木は胸元から数枚の写真を取り出して地面に落とす。
写真には幼い少女が映り、明るい顔を写真の中に居る早乙女に向けていた。
「アンタの妹って随分綺麗よねぇ。 まるで似てないわ、連れ子かしら」
「妹がなんだ……?」
「今ね、その子の傍に私の友人が居るの。 私がちょっと合図を送るだけでこの子のハジメテが無くなっちゃうんだけど……どうする?」
は、と早乙女は唖然と息を吐いた。
早乙女の家族はあまり彼本人を重視してはいない。まったく愛情が無い訳ではないものの、それでも十割の内の八割を可憐な妹に注いでいた。そして、早乙女本人も妹のことを酷く溺愛していたのだ。
大事に、健やかに、どうか幸福に。自分の事など一切気にせず、彼は妹に全霊の愛を注いでいた。
その愛すべき妹を穢すと、真木は言ったのだ。その事実に脳が処理を完了させた時、胸の奥から湧き出るものがあった。
踏まれている身体が徐々に起き上がっていく。どれだけ男子生徒達が力を込めても起き上がることは止められず、最終的には軋む音を立てながらも立ち上がった。
足が動く。痛めつけられはしたものの、彼の頭部は未だ一度も殴られてはいない。
激痛を無視すれば稼働は可能であり、ならばと前へと進む。進行方向は真木のみに定められ、されど障害物として岩倉が立ち塞がった。
「調子に乗んなよモヤシが」
振るわれた拳が心臓目掛けて飛ぶ。
常であればそのまま殴られておしまいであるが、今日の彼は正気ではない。振るわれた腕を掴み、徐々に力を入れていく。
最初は違和感程度だった痛みが激痛に変化していき、更にその上へと至る。
無事な方の腕で早乙女を引き剥がそうとするものの、その腕ですら掴まれた。余裕も容赦も削ぎ落され、全身全霊で握り潰された腕は明らかに不味い状態へと変化していく。
最早岩倉に悦を覚える時間は無かった。
「ぐ、くそ! なんだこいつ急に! おい離せ!!」
「――黙ってろ低能が」
激痛を無視して岩倉の腹を足で蹴る。腕を離せば岩倉はその場で地面に転がり、無様に痛みにのたうち回った。
真木は視界に入った岩倉の腕を見て顔を青くする。確りと手の形が残された部分は呪いのようで、直ぐに逆鱗を踏んだのだと彼女は理解した。
ならばと真木は早乙女の目の前に携帯を突き出す。
そこには既に番号が書かれ、後は通話ボタンを押せば終了だ。その瞬間に彼の妹は無残な結末を迎えることとなる。
「わ、私に対して同じ様な真似をすればボタンを押すわよ。 それでも良いの?」
「あ?」
嚇怒の宿る目が彼女の身体を貫く。
普段であれば絶対に見ることのない怒りの形相は、最早単純な怒りとして処理すべき範囲を逸脱している。人は大切なものがあれば幾らでも必死になれるという言葉通り、妹を守る為に一歩を刻んだ。
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