水の海・油の海

 早朝の六時にも至っていない時刻にも関わらず、彩斗の目の前には自身の妹である百合が居た。

 驚愕が胸を占める。一体何故と口から出そうになるのを喉元で抑え付け、通り過ぎるように歩き出した。今更百合と話すべきことが彩斗にある筈もない。

 彼女もまた同じだろうと思い、良からぬ噂が立つ前に立ち去るべく動き出した。

 澪は未だ眠っている。起きたとしても、彼女の意識は自動的にボディに接続される。彩斗の内心から現状を察することは可能だろうが、それで澪が直接手を出すことはないだろう。

 だが、通り過ぎる間際に百合は彩斗の腕を掴んだ。そして初めて、百合は自身の知る彩斗と体型が違うことに気付く。


「なんか……兄さんの腕ってこんなに太かったっけ? もっと細かったと思うんだけど」


「三十になれば体力が落ちるみたいだからな。 その前にと思って筋トレしてるんだ」


「へ、へぇ。 じゃああの動きも筋トレの成果?」


「まぁな」


 内心で彩斗は舌を打つ。

 極端に早い時間だから誰にも気付かれないと思っていたものの、実際は妹に気付かれてしまった。恐らくは朝から撮影の仕事があり、こうして事前に来ているのだろうと推測しながら早く居なくなる為の言葉を探す。

 直球で立ち去っても良いが、目の前の百合は彼に対してまだ何かを言いたそうにしている。その言葉を遮っては不仲であることを彼女に突き付けてしまい、余計な詮索が始まりかねない。

 昔から彼女が他よりも愛されているのは気付いている筈だ。であればと、彩斗は眉を寄せながら彼女に視線を向けた。


「……そういや、アイドルになったってな。 凄いじゃないか」


「ッ、う、うん! なんかスカウトされて色々やってたら成功したんだ!」


「母さんや父さんは反対しなかったのか?」


「最初は難色を示してたけど、私がしたいって言ったら許してくれたよ。 サポートも出来る限りするって言ってくれて、時間のある時は車で迎えに来てくれるんだ」


「そうか。 ――――そうか」


 彩斗は改めて家族間での格差を感じた。

 例えば、彩斗が何かをしたいと言っても二人はそれを応援してくれないだろう。妹を優先する両親であれば兄らしく妹に迷惑を掛けない無難な仕事をしろと怒鳴り、夢は叶わなかった筈である。

 しかし、百合は違う。両親に溺愛されているが故に、それが厳しい世界であろうとも応援された。

 父親は仕事をしているし、母親も専業主婦として家族を支えている。余裕なんてある訳もないのに、それでも両親は自身に鞭を打って娘を優先させるのだ。息子には目を向けずに。

 あまりにも歪んでいる。振るべき愛情が偏っている。百合は幸せ一杯の表情を浮かべ、それを見ている彩斗の表情は何の感情もない無に染まる。

 彩斗自身、妹に劣っているのは解っていた。解っていたが、それだけでここまでの差異が生まれるものかと疑問が浮かぶ。

 まるでそうあることが自然のように息子は排斥され、ATMとして搾取されていた。

 

「なら、これからはこうして会うことも少なくなるだろうな」


「何で? 男性って言ったって家族だよ。 別に少なくなることはないと思うけど……」


「そっちこそ何言ってんだ。 今やお前は話題性第一位のアイドル。 あちこちから仕事を受けてるんだから、出張中の俺と会うなんて殆ど無いだろ?」


「う……それはそうだけど」


 幼気に拗ねてみせる彼女の頭を数回優しく叩く。

 その行為に百合は目を細めて気分を良くしていたが、一瞬だけ彼女は瞳を彼の眼差しに向けてしまった。

 彼は笑顔だ。しかし、演技指導を受けていた彼女の前ではそれが全て嘘であると解ってしまう。本当の感情は目に表れ、彩斗は彼女との出会いをまるで歓迎していなかった。

 何時もと変わらぬ目。妹を見る兄は彼女のことを疎ましそうに感じながらも、義務的に優しくしていた。その事実に気付いたのは数年前であるが、一度気付けば様々な所作に違和感を強く感じてしまう。

 どこまでもどこまでも、二人の間に横たわる大きな溝は埋まらない。彼女が普通の家族を求めても、両親も兄もそれを完全に否定している。

 百合は確かに美人に成長したが、その心根は普通の少女だった。

 友情を尊び、悪を嫌悪し、愛を謳歌したい。そして同時に、強引に和解をしようと画策する程無策な脳も持っていない。

 彩斗の腰ポケットから携帯特有の振動が鳴った。頭の上に置かれていた手が離れ、途端に彼女の胸に寂寥が去来する。


「……悪いな、仕事の話みたいだ」


「――うん、解った」


 嘘だ。

 彼の目を見て、百合は即座に看破する。振動した以上は何処かの誰かが連絡を寄越したのだろうが、仕事ではない。

 彩斗にもプライベートは存在ある。友人の一人くらいは居ても不思議ではないし、自由時間の存在しない日々では心も磨り減るばかりだ。

 離れていく後ろ姿を百合は眺め、その視線が向けられているとも知らない彩斗は小声で慌てた。


『どうしよ、もう目の前なんだけど』


「何で来てんだよッ。 兎に角戻ってくれ」


『いやぁ、そうしたいのは山々なんだけどね。 もう君が見えてるんだ』


 は、と彩斗は前を向いた。

 視線の先には道の脇で手を振る澪の姿があり、今日も艶やかな茶髪を揺らしている。その姿は当然ながら百合にも見えてしまい、彼女は彩斗に手を振る女性に意識を向けた。

 絶世とも評すべき美女。何処かのアイドルか、モデルでもしているのか、そう考えずにはいられない程の極限の美女がなんでもない道の脇で立っている。

 彩斗は早足で澪の元に向かい、その額にデコピンを仕掛けた。痛みに呻く澪の肩を掴み、強引に引っ張っていく。

 呻いているとは言ったが、女性の顔には笑みが彩られていた。幸せの宿る表情は今の百合には中々出せないもので――――そして信じられないことに文句を言っているであろう彩斗の顔も穏やかだった。

 遠目からでも百合には違いが解る。二人の間にあるのは友情を超越した繋がりだ。

 恋人や夫婦が持ち得ている関係に近く、実際に百合と彩斗の間には数年の空白期間がある。その期間に恋人が居ても不思議ではないし、納得は本来すべきだ。


「なに、あの人」


 だが、素直に彼女は納得出来なかった。

 胸に湧き上がる気持ちの悪い感覚がある。怒りと呼ぶべきか、憎悪と呼ぶべきか、どのように表現すべきか解らない感覚の矛先が全て澪に向けられていた。

 いよいよ姿が消えようとしている刹那、澪は一瞬だけ公園に立ち尽くす百合に顔を向ける。

 百合と視線と交わし、澪は最大限の侮蔑を込めた目を送った。彼女ならばその意思を理解するだろうと踏んで、そして百合は澪の期待通りに意思を受け取った。

 自然と掌が握り締められる。力強く閉められた手は白く、全力であるのは間違いない。

 

「それで私の兄さんを取ったって言うの」


 家族仲が悪かったのは言うまでもない。特に彩斗の負担は過剰なまでに重く、その改善を誰もしようとはしなかった。

 如何に家族とはいえ、そこまでの仕打ちをされれば流石に好意的にはなりえない。家族を他人と認識し、冷たい顔をされてしまうのも仕方のない話だ。

 彩斗からそのような目を向けられても百合に文句はない。そうなってしまったのは一重に彼女自身が贔屓された結果なのだから。

 恋人が出来たのであれば応援しよう。結婚したいと言うのであれば、どれだけ親が反対しても百合は味方をするつもりだった。それくらいしないで一体どうして妹と言えるのか。

 家族としての関係が冷え切っているからこそ、せめてそれくらいはしなければ何も償えることはない。

 そう考えていた思考は、先程の美女の眼差しによって一掃された。

 全てがお前の所為で、巨悪の根源が良い気なものだと侮蔑する様に遠慮は無い。美しさが罪になることはあるが、確かに百合がこれまで恵まれた生活を送れたのは希少と呼ばれる程の美貌を持っていたから。


「…………」


 空を見上げ、彼女は瞼を閉じる。

 胸に感じる黒い感情を抑え込み、大きく息を吐いた。複雑な感情を抱きはしたが、それだけで百合は衝動的にはならない。自分が悪いのだと律する心がある限り、どれだけあの美女が自身を侮蔑したとしても揺るがないだろう。

 それが続くのは果たして何時までか。彼女自身は解らなかったが、しかし時間は彼女の余裕を容易に奪い去っていった。

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