3 「解放者」フィオン・キフュー
チャイムが鳴って、退屈な水曜日の授業が終わった。
作戦決行の日だ。
俺はいったん家に戻ってステルス・スーツに着替え、透明人間になってこっそり抜け出す。友人からの誘いは、野暮用があるからと笑顔で断った。両親は二人とも仕事で、どうせ夜遅くまで帰ってこない。
俺たち宇宙市民は、勝手に引っ越しすることを禁止されている。人間が限りある資源を活用して宇宙で生きていくために厳密に人口を管理する必要があるから、好き勝手移住されては困るのだ―と学校では教わる。そんなこと言われたって、俺のように女神さまの束縛を嫌がる人にとっては、リブラ・アークは生きづらい。
そういう人たちを地球へ逃がすのが、俺たち「
「よう、リュック」
俺が背後からささやきかけると、彼はびくっと身体を震わせた。
「もう、脅かさないでくださいよ、リーダー」
リュック・ルダールは本当にからかい甲斐のあるやつだ。俺よりも二十は年上のいかつい大男なのに、意外と小心者で腰も低い。
「お腹空いてない? チョコバーあるよ」
「いえ、結構です。自分は食べなくても平気ですんで」
顔の見えないリーダーにかしこまるリュックは、まさか俺がまだ十七歳の工業高校生だなんて思っていないだろう。俺は「
まだ子どもの俺が「
二年前、当時十五歳だった俺は、このリブラ市民にとってもっとも有益な発明を、大々的に発表するような間抜けな真似はしなかった。女神の名を借りて市民を支配する悪魔どもになんか、力を貸す気はない。俺は
と、リュックの胸ポケットから電子音が鳴った。シャトルを強奪した仲間たちからの、準備完了の合図だ。
「依頼人たちは、もうシャトルに乗り込んでます」
OK、あとは俺がカタパルトを作動させるだけだ。
引き続きリュックに見張りを任せて、俺はカタバルト・デッキへ向かう。シャトルのエンジンが点火して、薄暗いデッキに細かな振動をもたらしていた。ここはこないだの宇宙港とは違ってデッキ脇にカタパルトの制御室がある。かなり古いタイプの設計だ。
制御室はけっこう窮屈で、カラフルなボタンが並んだパネルの前に大人一人分の座席があるだけだった。
「もしもーし、トーマス君、聞こえてる?」
旧式の回線は、
映像回線をONにしても、お互いステルス・スーツのせいで顔が見えない。こっちのモニターに映っているのは、空っぽの操縦席と鈍い銀色に光るコックピットの壁面だけだ。でも、俺はトーマス・カシバの顔なら見たことがある。彼は地球と十二宇宙市中に指名手配されている、腕利きの
「そっちのコックピットのほうが広そうだね」
「そうでもないぜ。今日はちょっと過積載気味でね。……ほら、『
渋い声が少し明るくなる。きっとトーマスはあの端正な顔に微笑みを浮かべているに違いない。
モニターの向こうで、銀色の壁が裂けた。そこから白い髪の少女が顔を出した……ように見えた。でも実際は、そこにいた少女がステルス・スーツのマスクを取っただけだ。
女神だ。
少女の顔を見た瞬間、また「あの感覚」がやってきた。二度、三度、何度も俺の思考を視界ごと遮る。
「おい、どうしたリーダー?」
ステルス・スーツのおかげで、トーマスには目頭を揉む俺の姿が見えていない。彼の訝し気な問いには、「回線の調子が悪いみたいだ」と答えてごまかした。
「えーと、こんにちはお嬢さん。君の名前は?」
俺が声をかけても、少女は答えようとしない。年の頃は俺とさして変わらなそうなのに、妙に大人びた眼差しだった。モニターに俺の姿は映っていないはずなのに、不思議と目が合っている気がする。
――あれ、この子にどこかで会ったことある?
記憶を辿ってみたけど、よく思い出せない。
「……ねえ」
突然、少女が口を開いた。夜空にオーロラがなびくような声だった。リブラの夜空に投影される偽物じゃない、地球でしか見られない本物の。
僕は彼女を見ている。目が離せない。ずっと彼女を見ていたいと思っている。彼女も俺を見つめていて……まただ。また、誰かが俺を見ている。
「どうして、あなたはここから出ないの?」
すぐには答えられなかった。
「んー……、だって、みんなを助けたいからさ」
俺は軽薄な態度を崩さなかったが、ステルス・スーツの内側に冷たい汗をかき始めていた。
「でも、誰よりもあなたが一番、ここを出たがっているんじゃないの?」
彼女の言う通りだ。俺だって、こんな街は嫌いだ。ここじゃないどこかへ行きたい。誰の目も気にせず、好きな人と好きなことを大声でしゃべりたい。自由になりたい。――だけど。
「若者たちよ、残念だがおしゃべりはそこまでだ」
トーマスが遮った。シャトルのエンジンは、すでに出力最大に達していた。
「出るぞ、リーダー!」
「OK、良い旅を!」
一拍遅れて返事した。ボタン操作でゲートを開くと、シャトルはカタパルトと一緒に走り出す。
映像が先に切れた。音声通信が途絶える前に、俺はもう一度少女に呼びかける。
「ねえ、君! 名前を教えてよ!」
美しい声が、俺の耳を撫でるように響いた。
「わたしは、アドニス」
男の名前じゃないか。でも、すごくきれいな名前だ。
シャトルは少女を乗せて、黒い宇宙の中へと吸い込まれていった。トーマスの操縦なら心配ない。彼女を地球まで無事に送り届けてくれるだろう。
――もう一度、会えるだろうか。
そう思ったのは一瞬だけで、次の瞬間には、俺はもう違うことを考えていた。
――もう一度、会いたい。
もう一度アドニスに会いたいなら、俺もこのままここにいちゃだめだ。ここを出て、地球に行かなくちゃ。
でも、どうやって逃げ出す? 「
頭の中に不安が湧くと同時に、またあのイメージ。誰だ。誰が俺を見ている?
「リーダー、リーダー、応答せよ!」
ステルス・スーツの内蔵マイクから、リュックの声が聞こえてきた。かなり焦っている様子だ。
「いまの発射で、警備兵たちに気づかれました。早いとこ退散してください! 自分が囮になりますんで!」
「すまない、頼む。でも、なるべく殺生はするなよ」
偉そうに命令して、俺は制御室を飛び出した。
銃声が轟く。リュックが撃ったに違いない。緊急事態を報せるサイレンが鳴り響き、カタパルト・デッキに集まりかけていた警備兵たちが慌てて向きを変える。
リュックのことなら心配いらない。あいつの身体は、ほとんど機械に改造されて、両手の五本指のみならず目や口からもビームが出る。両脚にはブースターがついていて飛行可能だし、身体は核ミサイルさえものともしない超硬度の金属素材製。生身の部分はもう脳みそしか残っていないそうだ。「
リュックのことを羨んでいる自分に気づく。あいつはどこにいても戦える。どこにいても救世主になれる。
俺はどうだろう。リュックみたいに戦えないし、トーマスみたいな凄腕の操縦技術もない、ただの子どものフィオン・キフューだ。
それでもリブラにいれば、ステルス・スーツに身を包めば、ヒーローでいられる。
だけど……。
アドニスのあどけない眼差しが、再び俺の脳裏に甦った。
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