第13話 終章

          (一)


 天候が怪しくなってきたのは、新介が阿蘇のお山に踏み込んでからのことであった。太陽が雲間に隠れると、急に風が冷たくなった。

 先ほどより、旅の者も山人も、僧や修験者も、一人として見かけずにいる。修行時代より山道には慣れているはずの新介が、ふと気づけば己の歩いている場所が定かではなくなっていた。

――もうしばらく歩けば地形の測れる場所にも出よう。

 そのように判断して、新介は先へ進むことにした。山中の野宿なら幾度となく経験しており、道に迷っても危機感はなかった。

 その意識もなく朦朧もうろうと歩いていた新介が、はっとして歩みを止めた。今己は窪地におり、周囲を木々に囲まれている。差し渡し十五間ほどの、ほぼ円形に開けた草原にたたずんでいた。

 上空は、灰色の雲なのか、一面が濃淡のない同じ色で覆われている。己の周りを取り囲む木々が、先ほどより密生しているように思われてきた。

 何かがおかしかった。どこがどうとは言えないが、自然な森の有りようではないと思われた。新介は立ち止まったまま目を細め、周囲を警戒しながら腰の太刀に左手を添えた。

「気づいたかや」

 どこからともなく、こちらを揶揄やゆするような女の声が降ってきた。

「化け物か」

 落ち着いた声で、新介が誰何すいかする。

 ケタケタと笑う声が響き渡った。

「気づいたのはさすがなれど、少し遅かったのう。もはやしっかりと、我が結界に捕えたわ――二度と生きては出られぬと思え」

 最後のところで、声の調子が変わった。殺気を含んだ怒声は、憎しみに罅割ひびわれていた。

 人の背筋を凍らせずにはおかない呪詛にも、牢人となったばかりの男は平然としていた。

「ずっと陰より悪さをなしてきた化け物が、こたびはようやく姿を現したか。よっぽど我が振る舞いが、かんに障ったようじゃのう」

「おのれ、小童こわっぱ……こたびこそ、こたびこそ相良を潰せると思うたに、よくも邪魔をしてくれたのう。

 憎い、憎いぞ……小童、平気な面をしていられるのも今のうちじゃ。やがて恐れの余りに引きり、助けを求めて泣き叫ぶことになる。せめてもの腹いせに、じっくり楽しませてもらおうぞ」

「そうか。なれば、口先ばかりでなく、やってみせよ」

 新介が腰を据えて太刀を抜き放つのと、辺りから急速に光が失われて真っ暗闇になるのがほぼ同時であった。

 利かぬ目を細め、耳を澄ませて辺りの気配を伺う。漆黒の闇の一部が、急激に膨れ上がってきた。

 新介は、無意識のうちに太刀を振るった。何者かが器用に身をくねらせて刃をすり抜け、遠ざかる気配があった。

「さすがに、小勢とはいえ一軍を率いて功を上げ続けた男よな。じゃが、まだまだこんなものではないぞ」

 声が途切れたか途切れぬかといううちに、もう次の攻撃が振るわれてきた。新介が剣を一閃させる。ふっと遠ざかった気配が、今度は瞬時に反転してまた迫ってきた。

 剣を振るっていたのでは間に合わなかったであろう。咄嗟に気配へ切っ先を向けて突いたことで、新介は落命を免れた。

 それでも、肩を浅く引き裂かれた感覚があった。

「惜しかったのう、もう少しで首筋じゃったに。しかし、このくらいで終わられては楽しみがない。もうちょっとは、頑張ってもらわねばのう」

 捕えた鼠をいたぶるような声音である。

 今度はじわじわと膨らんできた圧迫感が、一気にはじけた。気配は二転、三転し、上下左右、前後、あらゆる方角から襲い掛かってきた。見えない相手の連続する攻撃に、さすがの新介も防戦一方となった。

 何とか致命傷だけは避けているが、少しずつ体のどこかが傷つけられている。

 次第に息があがってきた。太刀が、何倍にも重さを増したように感じられた。

 限界が近付いていた。

「ほう、よく耐えるものよのう。じゃが、そろそろ始末をつけてやろうかい」

「なんの、まだまだこんなもんでは終わらぬぞ」

 新介は、精一杯の空元気からげんきで応じた。

「頼もしいのう。しかし、これならどうかのう」

 頬に、わずかな風を感じた。それは、次第に強くなっていく。と、思う間もなく風は轟々と音を立ててその強さを急激に増した。

 耳をろうする風音以外は何も聞こえない状況の中で、化け物の声だけははっきりと聞こえた。

「どうじゃ。これではさすがのお主も、我がどこより襲い来るか察知できまい。小童、ついに最期よのう。覚悟はついたかや」

 女の甲高かんだかい笑い声が、轟々と鳴り渡る突風の中で響いていた。新介は、剣を両手で支えながら歯噛みをした。

 抗すべき策は、なかった。


「新介、気を確かに持て。お前の体は、風を感じておるか。まやかしじゃ、ただの幻覚ぞ」

 女とは全く違う野太い声が、新介を励ました。はっとした新介が気を取り直したとき、風はもうやんでいた。

「何奴。この結界に入り込むとは、容赦せぬぞ」

 驚きと怒りの混じった女の声に対し、おぼろな光が二つ浮かんだ。

 光は少しずつ明るさを増して、二つの人影になった。

 人影は、それぞれ手に持った松明たいまつを両手に分けると、地に放つ。草原に四つのあかりがともり、漆黒の闇ががされるようにその周囲から視界が広がってきた。

「新介、待たせたの」

 荗季しげすけ休矣きゅういが、弟弟子おとうとでしに向かいニヤリと笑いかけた。

「兄弟子、遅いぞ」

 ほっとした新介が、太刀先をわずかに下げて愚痴を言った。

「済まなんだの。こやつ、あの世とこの世の挟間はざまにお主を誘い込みよった。捜すのに、少しばかり手間取らされたわ」

 会話を始めた二人に、女の声が割り込んだ。

「お主は、荗季休矣とかいう男。そしてもう一人、この気配は――まさか、お前は勝軍斎しょうぐんさい。まさかに、生きておったのか……」

 現われたのは、確かに、義陽の前で頭巾をはずした老人であった。

「化け猫よ、いや、すでに湯前ゆのまえの老婆の怨念と一体化しておるか。いずれにせよ、所詮お前の妖力はその程度のもの。もはや正体は顕れた。観念するときぞ」

「我が正体を見破ったというか」

「正体だけなればずっと前より割れておった。この怪異が始まった時期のことを丹念に洗えば、最初の二人、犬童いぬどう九介きゅうすけ黒木くろき千右衛門せんえもんは、お前がじかに手を下したことが判ったしの」

「おのれ……」

「それに気づいてみれば、槃妙尼はんみょうにとの名乗り自体が、猫だと白状していたようなものであったわ」

 ハンミョウ。光沢のある翅鞘ししょうをもった肉食性の昆虫で、人が歩くとその先へ、先へと飛ぶ習性があるため、別名を『道しるべ』、『道教え』などともいう。漢字を当てれば、<斑猫>と書く。

 正体を明かされた化け物は、それでもケタケタと笑ってみせた。

「我が実体を知ったからとて、いい気になるなよ。勝軍斎、荗季しげすえ休矣きゅうい、それに相良新介。

 我が悲願を邪魔する者が皆揃ったは、むしろ我にとり好都合よ。この場でまとめてくびり殺してくれん。さすれば、今度こそ相良も球磨も、我が思うがままになろうぞ」

 かつて勝軍斎を名乗っていた老人は、敢然かんぜんと言い返した。

「それはどうかの。化け猫よ、これまでずっと陰から糸を引いていたお主が、我を忘れてしゃしゃり出てきたことこそ運の尽きよ。我らはずっと、この機会を待っておったのじゃ。引導を渡してやるゆえ、安らかに成仏せよ」

 老人は両手で印を結ぶと、口の中で曼荼羅まんだらを唱え始めた。もとより頂点を望めるだけの資質を持った宗教者が、先達の閼闍梨あじゃりに導かれて命懸けの修行を尽くし、仏法、修験道の全てを極めた。その念より発する法力は絶大であった。

 老人と休矣が置いた四つの灯火が炎を大きく上げ、次にはすぐに縮んだ。

っ」

 老人は刀印とういんを振るいしゅを飛ばした。六方に飛んだ咒は、地に落ちて六芒線形ろくぼうせんけいの頂点となり、さらには円の外周となって線画を描いた。線画は、草原全体を囲うほどの大きさであり、灯火の代わりに光を発し始めた。

 その中心部に、もやもやとした人の形が浮かび上がってきた。それこそ、これまで一連の凶事をなしてきた張本人、槃妙尼の姿である。尼僧の外見を借りた化け物は、片膝をついてうずくまっていた。

「どうじゃ、動けまい」

 老僧の言葉に、槃妙尼は相手をきっと睨みつけた。

「何をした」

「よく見よ。お主を抑えておるのは儂ではない」

 尼が目を凝らすと、その手足を捉えているのは、長定ながさだ謀叛以来のいくさで死んだ、多数の亡者もうじゃどもであった。武者の幽鬼どもは重なり合い、ひしめき合って尼の手足をつかみ、そですそすがりつき、体にまとわりついていた。さらに多くの亡霊が、尼を押さえる仲間に折り重なっている。

 槃妙尼は身じろぎしようとして叶わず、勝軍斎を睨んだ。

「これで我を制したつもりか」

 その声には応えず、勝軍斎は経を唱え始めた。

 すると、尼が苦悶くもんの表情を浮かべ、外形に変化が出はじめた。身悶えをする槃妙尼の体が、僧服の中で勝手に盛り上がったりへこんだりし始めた。

「おのれ……今度は何を呼んだ」

「お主が奪った躰の本来の持ち主よ。冥界を彷徨さまようておられたゆえ、導いて参った。さあ、その巫女みこ殿と共に、亡者も引き連れ、昇天せよ」

 槃妙尼は、修験者の法力ほうりきに抗して耐えていた。体が浮き上がろうとするのを、必死に留めているような様をみせている。

「いや……我が怨み……まだ晴らされてはおらぬ……我が大望は……まだ……道のさ中ぞっ」


          (二)


 轟と叫んだ槃妙尼によって、手足を押さえていた亡者どもが皆吹き飛ばされた。勝軍斎が呼んだ本来の躰の持ち主も、化け物の妄執に押さえ込まれたようであった。

「これほどまでの悪心に囚われておったか……」

 有徳の修験者であるはずの勝軍斎が、息を呑んだ。

 尼姿の妖猫ようびょうは、四つんばいのままケタケタと笑った。一声吠えると、顔は勝軍斎を睨みつけたまま、体はひと飛びで新介目掛けて飛びかかる。新介が刀で応じると、柔軟に体をかわして片足をつき、次には休矣きゅういの目の前で牙をいていた。そうして、師と弟子の三人に次々と襲い掛かった。

 二人の弟子は太刀で、師である勝軍斎は背に隠していた錫杖しゃくじょうで応戦した。弟子の白刃を嫌って避けた槃妙尼は、勝軍斎の頭上高く飛び上がって、杖ごと押しつぶそうとした。

「お師匠」

 すでに長い間力を振るい、多くの傷を受けて血を失った新介は、すぐに反応ができなかった。兄弟子の休矣が、身を挺して師と槃妙尼の間に入った。

 弟子に突き飛ばされた勝軍斎が上体を起こしたとき、身代わりになった休矣は尼姿の妖怪の下に押さえ込まれていた。

 槃妙尼の右の前肢まえあしが休矣の首にかかり、爪は今にも血脈を引き千切らんとしている。半ば化け猫の本性を現した尼は、勝利の笑い声を上げた。

「まず一人、お主から血祭りに上げてくれようぞ。すでに皆あの世へ旅立った、相良の宗家に供をせよ」

「相良宗家は絶えてはおらぬ」

 勝軍斎が言ったその一言が、前肢に力をこめようとした化け猫の気をいだ。

「今さら、何を世迷言よまいごとを言うておる」

「世迷言ではない。義陽よしひは、まぎれもない義滋よししげ殿の実子。なれば、当代頼房よりふさまで、相良宗家の血は連綿とつながっておる」

 勝軍斎を見る化け猫が首をかしげた。

「疑っておるか。上村うえむら頼興よりおきを操って、宗家の血筋を奪い去ったはずであったからの。じゃが、お主が全てを把握しておるなら、なぜ儂の存命を察知できなんだ」

「お主は、勝軍斎……まことに、勝軍斎か」

「おう、勝軍斎よ。しかしお前は、もっとずっと以前より、この儂を知っておろう」

「おのれは……」

 尼の目が、くわっと開かれた。

「おのれは、瑞堅ずいけんか――我が手より、二度も逃れたというか」

「ようやっと気づいたか。儂が最初に逃れられたは、先達の法力の助けを得てよ。そして二度目に逃れることができたは、あるいはお前が相良宗家の血の繋がりを察知できなんだは、これがためぞ」

 今は亡き相良の旧主義滋の実弟は、化け猫を目掛けて何かを投げつけた。

 尼姿の怪物が、休矣を押さえていないほうの前肢でそれを払う。

 勝軍斎――瑞堅が投げたのは、あの綿の小袋であった。すでに中身が砕かれていたのか、化け猫に払われ、引き裂かれた布切れより粉塵ふんじんが舞い上がった。きらきらと輝く細かい粒子は、いつまでも化け猫にまとわりついた。

「くわっ、この魅きつけられる匂いは……じゃが、力が抜ける……」

「化け猫よ、覚えたか。ただの木天蓼またたびでは、歳経としへたお前を長くは誤魔化ごまかしておけぬゆえ、麝香じゃこう黒檀こくたん、魚粉に、我と先達が命懸けで祈祷きとうせし柴燈護摩しとうごまに焚いた乳木にゅうぼくの灰も混ぜ、さらに叶う限りの念を込めながら鯨油げいゆで練り上げたものよ。よう効くであろう」

「これで、我をたぶらかしたというか」

「おう、名和なわ由利姫ゆりひめは、上村頼興が押し掛けたるとき、いつもこの香を焚いておられた。頼興が抱いたは、身代わりとなったはしためぞ。この匂い、頼興の魂魄こんぱくを通じてお主にも憶えがあろう」

「く、く……おのれ」

 顔を歪めた化け猫が宙を見上げた。

「残念じゃが、ひとまず勝負は預けようぞ。宗家の血筋が残っておったとなれば、我が策も練り直しゆえのう」

「そうはいかぬぞ」

 その凛然りんぜんとした声は、化け猫の足元よりあがった。見下ろした化け猫は、己の脇腹に刀が深々と突き立っているのを目にした。

 太刀を持った右手を化け猫の後肢で押さえられた休矣きゅういが、隙を見て左逆手に抜いた脇差を、持ち替えしなに打ち込んだのだ。

「休矣、おのれ」

「猫よ、いや、湯前のばばよ。せがれを奪われた母の妄念で、ここまでの悪行を為したとのことじゃな。なれば、父を亡くした倅の刃で、その妄執を吹き飛ばすがよい」

「父を亡くした……」

「我こそは、おのれに滅ぼされた犬童が一族、美作みまさかの倅熊徳丸くまとくまるぞ。父とともに上村の兵に殺されんとしたところを、瑞堅様に救われたのじゃ」

 荗季休矣――犬童熊徳丸。

 かつて槃妙尼の体は、もとの持ち主の感能力でひとつの占いを立てていた。

 ――己の大望を阻むは、草穀そうこくの陰に隠れたる犬童。

<荗>は、クサカンムリに十二支のいぬ、そして<禾>という字画の成り立ちは、「実りの重さに頭を垂れた稲穂」を表わす象形文字である。

 ――休矣、おのれが草穀の陰に隠れたる犬童か。

 化け猫から姿を戻した槃妙尼は、よろよろと後じさった。休矣の正体を知った驚愕も無論ある。しかしその多くは、妖力を得たこの体にはさほどこたえぬはずの腹の傷口より、えもいわれぬ大きな衝撃が生じて化け猫を打ちのめしたからであった。

「<子を亡くした母>の無道によって<父を喪った子>が、当の相手に一撃を与えた」との言霊ことだまの力が、幼き熊徳丸のなげきに載せて、化け物の実体にまでやいばを届かせたのだ。

「なぜに、名を変えた」

 十分に立ち直れぬ槃妙尼のその問いには、老僧瑞堅が答えた。

「儂は死んだことになっていた身ゆえ正体を隠すためじゃが、この者ら二人は、相良家中へ送り込むに旧姓で障りがあってはとおもんばかってのことよ。族滅ぞくめつなどという恐ろしきことをはかったそなたの仕儀が、そうさせたのじゃ」


「湯前の婆よ、これを見よ」

 槃妙尼が離れて自由になった休矣は、どこからか両手に余るほどの大きさの白い塊を取り出した。

「何じゃ、髑髏されこうべではないか。それがどうした」

「よく見よ。見憶えがあろう」

 じっと見入っていた尼の表情が、大きく歪んだ。

「それは……おお、宗昌むねまさ、宗昌ではないか。おのれ、どこから宗昌の髑髏を――いや、おのれらが害したか」

 湯前の地頭、湯前宗昌の母は、次男盛誉せいよが無実の罪で斬られるところを目の当たりにし、狂った。それがこの一連の変事の発端である。

 長男である宗昌は、弟が斬られる直前に、惨劇の場からの逃走に成功していた。

「湯前宗昌がなんとしたか、己自身で聞くがよい」

 瑞堅はそう言うと、また口の中で経を唱え始めた。すると、休矣の手の中で虚ろな眼孔を槃妙尼に向けていた頭蓋骨が、かすかに身じろぎしたように見えた。

「ここは……どこじゃ……おお、母者ははじゃびと」

 骸骨は今、動いてはいない。しかしその声は、舌も声帯もない白い骨球こっきゅうの内側から漏れ出しているようであった。槃妙尼が悲しい声で応じた。

「宗昌、なぜにそのような姿に」

「母者びとよ……我は、湯前を逃れ出ても、やはり相良の武士であったわ。逃亡先の阿蘇にて名を変え潜んだまま、母者びとの消息を探った。母者びとはどこへ行かれたか、懸命に捜しても見つからなんだが、ご当主長祇ながまさ公が我らに謀叛の疑義をかけられたことを、深く悔やんでおられたとの話が聞こえてきた。何度、球磨へ戻ろうと思うたことか……じゃがのう、僧侶である弟が斬られるのを見過ごして逃げた身では、どうしても、どうしても戻れなんだ。

 その後よ。新君義滋公が菊池を成敗に行くに、阿蘇を通るという。我は、変名のまま甲斐様の軍勢に雇われて相良軍の道案内を助け、そしてそのまま相良軍の雑兵ぞうひょうとして入り込んだのよ。あわよくば、その戦で功を立て、新君に本名で名乗りを上げんことを夢見ての。結果は大惨敗じゃ。我は阿蘇の山に逃げ込まんとしたところを菊池の兵に追いつかれ、草原にしかばねを晒した――母者びと、己では故郷に戻れぬ身とはいえ、それでもできる限り、懸命に捜したぞ。いったいこれまで、どこにおわした」

「おおお……」

 母の心に戻った化け物――槃妙尼は、惑乱わくらんしてうめいた。

 ――次男の死に狂を発し、山奥に籠って呪詛を高めているときに、長男はこの身を案じて懸命に捜していた。己が相良を滅ぼさんと様々な策謀を重ね非道を尽くしている間、長男は相良のために戦わんとし、己の奸計により相良が負けた中で死んだ……。

「湯前の婆よ、もうよかろう。もうやめぬか。子を失い狂うたそなたじゃが、その行いで、休矣をはじめ多くの父なし、母なし児を作った。見よ、お主の周りを。もうそろそろ、己のごうに気づくがよかろう」

 瑞堅の慈悲をたたえた声は、哀憫あいびんに打ち沈んで響いた。

 尼僧姿の化け物が目玉だけで辺りを見回すと、子を残して死んだ母、戦の中に命を落とした子供らの、多数の人影が己を取り囲んでいた。影どもは、手を出すでもなく、恨みごとを言うでもなく、ただ佇んだまま槃妙尼を見つめている。

 数えきれぬほどのむくつけき武家の亡者どもに、手足の全てを絡み取られても一瞬で弾き飛ばした化け物が、この人影の視線に縛りつけられ、身動き一つできぬ有り様となっていた。

 休矣の手の中の髑髏が、また言葉を発した

「母者びとよ、盛誉もここにおる。二人して母者びとが来るまで冥途めいどへ行くのを待っておったのじゃ。さあ、共に参ろうぞ」

 浅ましい化け物に変化した老母は、俯いたまましばらく声もあげられずにいた。

「……今この仇怨を打ち捨てたれば、これまでの我が所行は何ぞ。我が恨みたる相良の者と、同じ罪業ざいごうを重ねただけになるではないか」

 何とか動かせる首を瑞堅に向け、槃妙尼は泣いた。その眼はあかく、流す涙も真っ赤に染まっていた。

「婆よ、戦国の世じゃ。お主が何もせずとも、球磨が平穏であったとは思われぬ。お主も元は人の身なれば、すでに起きてしまったことを悔い返さんとしても取り戻せはせぬ。なれば、皆と共に天にかえれ。一人も迷わすことなく冥途に導くことこそ、今お主がやらねばならぬ、お主にしかできぬことぞ」

 尼の姿をしたモノは、ただ静かに泣いていた。微かに聞こえるその声に、瑞堅の読経が優しく重なっていった。

「クワァン」

 尼僧姿のモノは、最後に一声そういた。借りていた体はすでにどこかへ打ち捨てた後であったのか、僧服だけが脱ぎ捨てられたような形で残された。

 瑞堅は読経をやめると、首にかけた数珠じゅずをまさぐる左腕を、静かに下ろした。

「旅の途中で死病に倒れたる巫女よ。どうぞ婆も皆も、はぐれる者なく送り届けてくだされよ……」

 片手拝みの右手はそのままに、そう呟く。

 休矣も新介も、我知らず両手を合わせていた。


          (三)


 新介が力一杯、手にした布の塊を放った。塊は、飛沫が上がるすぐそばまで飛んで、水面に落ちた。

 化け物となった湯前の婆の魂が昇天して、からになったと思われた尼僧の服の中には、骨ばかりになった猫の死骸が残されていた。新介は、その骨と湯前宗昌の髑髏を尼服に一緒に包んで、婆が最後に身を投じた滝壺まで運んできたのであった。

 布の塊は、わずかの間浮かぶように見えていたが、落水に引き寄せられ、流れ落ちる水に洗われてともに底へと沈んでいった。

 そのまま、二度と浮かび上がることはなかった。

「共に静かにねむるがよい」

 新介の脇で見守っていた瑞堅が、祈りを口にした。

「これで終わりましたな」

 感慨深げに言ったのは、二人とともにこの場に立ち合った休矣であった。休矣は、すでに本姓の犬童に戻って、相良の幼君頼房に仕えている。

 ふと、瑞堅が新介のほうへ向き直った。

「休矣はよいとして、新介、お主はこれよりどうする。相良家に帰ることはできんでも、お主が示した武勇でどこへでも召し抱えられよう。必要なれば力になってやってもよいぞ」

「儂にも世話をさせてくれ。なにしろ、儂が追い出してしもうたようなものじゃからな」

 休矣も、申し訳なさそうに言い添えた。二人に案じられた新介は、明るい顔で木々のこずえを見上げた。

 日差しは穏やかで、爽やかな風が吹く日であった。怨念に身を滅ぼした老母のことも、人々が血で血を洗う争いに明け暮れている世の有り様も、知らぬげな陽気である。

 新介は、己の内側を覗き込むように言った。

「それがしも、こたびのことではいろいろ考え申した。相良にあのまま仕え、あるいはどこか他家に召し抱えられ、立身出世をして、己は正しき己で居続けられるのかと。それがしには、深水ふかみ宗方そうほう様や兄弟子のように、そう在り続ける自信がありませぬ」

 思いもかけぬところで弟弟子に褒められた休矣は、居心地が悪そうに首をすくめた。

 微笑みながらその様子に目をやった新介が続ける。

「決して我が祖父がどうだから、血筋がどうであるからということではござりませぬ。ただ、己が己自身を省みてそう思うだけ」

「なれば、どうする」

 瑞堅が訊いた。若き弟子は、真剣な表情に直り、師である瑞堅に正対して言った。

「師よ、願いがござりまする。我は、この世の有り様を、もっともっと広く見とうござる。見聞を広め、思索を深めれば、その先にまた新たな何かが見つかるかもしれぬと思えますゆえ。

 どうか、その何かが見つかるまでは、どこまでもどこまでも、我をお連れくださりませぬか」

「……険しき道ぞ」

「覚悟はできておりまする」

 そう答えた弟弟子の真摯しんしな顔が、休矣にはまぶしいほどに光り輝いて見えた。

 瑞堅は、わずかに黙考した。

 やり取りを聞いていた兄弟子休矣が、ぽつりと言った。

「それは……うらやましいのう」

 瑞堅は、新介に答える前に休矣を向いて叱った。

「おのれは駄目じゃ。やることがあろう」

 師の叱責に、弟弟子新介が言葉を加える。

「兄弟子は残られますよ。なにしろ、我との約束がござりますからな」

 目顔で確認を求められた休矣には、返す言葉がなかった。

 ――自身の勤めに加え、新介が仕え続けたなればできたであろうご奉公もする。

 それが、新介の名誉と命を預かった折の約束であった。

「まあ、そうでなくとも兄弟子には、球磨を離れられぬほどのひもがつきましたからなぁ――師よ、これより犬童一族は栄えますぞ」

「これ、そこまで言わんでもよいではないか」

 畳み掛ける新介の揶揄やゆに、休矣は狼狽うろたえた。

 この男、女にはマメで、城を守った水俣みなまたでも移った先の球磨人吉ひとよしでも、すでに何人も子を儲けていた。真に己の子か疑わしい者も含めて、その全てを手元に引き取り、全員実子として育てている。物心つかぬうちに親兄弟を全て失った休矣の、それが心のり所であるのかもしれなかった。

「さて、新介よ。そろそろ行くか」

「はい」

 師と弟弟子のやりとりを、休矣は黙って聞いた。

 瑞堅がこちらに向き直る。

「休矣よ、さらばじゃ」

「師よ、いつまでもお達者で」

「そなたも、堅固でな」

 慈愛の眼で己を見つめる師を見返した後で、休矣は新介を見た。相手は口を閉ざしたまま、穏やかな微笑みを返してきた。


 一陣の風が吹いた。

 そこに立っているのは、もう犬童休矣ただ一人だけであった。じっと流れる雲に目をやった休矣は、人吉へ戻る道へときびすを返した。

 ――新介、いつか戻って来い。そしてこの俺に、お前が見た様々な国の話、出会うた人の話をしてくれ。

 それまで俺は、お前との約束を懸命に果たしていこう。お前が戻ってきたとき、もしお前にその気があるならば、また二人で同じ道を歩もう。そして出来るなら、もうくたびれ果てているであろう俺に代わり、その力を存分に振るってもらいたい。

 休矣は、足を一歩踏み出した。新介との約束がなくとも、妻や子のことがなくとも、休矣はやはり人吉に戻っていたはずだ。

 ここに来る前に、休矣は己の知る全てを深水宗方に話していた。あるいはここまで一緒に来たいと言い出すかと思った宗方は、そうは言わずに、黙ってこの手を両手で握った。

「必ず戻ってきてくだされよ」

 我が目を見て宗方が言ったのは、ただその一言だけだった。

 これから向かう先、我が故地こちに、もう一人、かけがえのない友がいる。道はけわしかろう。これまでよりも、更に厳しいかもしれぬ。

 ――それでも俺は、この道を進む。

 山を降りる休矣の足取りは確かで、もう一度も後ろを振り返ることはなかった。













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肥後戦国偽史 相良怪猫伝 ばむら うや @uyabamura

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