第7話 第二部 義陽 第六章 柳瀬勝軍斎
(一)
先代主君、
建物は朽ちるに任されていたため屋根が落ち、床が抜けたままとなっている。建材や煮炊きの燃料として、あらかたの床や壁、塀などの板が勝手に
今や敷地すら、人が踏み込むこともできぬほどに
「遠慮を知らぬ若者が覗き込んだところ、男は顔を晒で巻いて、目と口ばかりが表に出ておったそうだ」
そんな、恐ろしげな噂が流れた。辺りに住まう人々は
ある日、
「その荷の瓜を、一つ恵んではくれぬか」
人に物乞いをするのに、笠も取らず頭も下げぬ尊大さだった。
「これは売り物じゃ。欲しくば、銭を出せ」
言い方がけんもほろろになったのは、やむを得なかろう。
絡んでくるか、あるいは強要してくるかと警戒したが、男はしごくあっさりと諦めた。
「ならばよい。己で育てて食うわ」
そう言うと、懐からなにやら取り出して道端に
商人が興を覚えて眺めていると、男はどこからか椀を取り出し、中に入っていた水を地面に
すると、土が盛り上がり、亀裂が生じて、若葉が芽生えた。若葉は見る間に背を伸ばし、
「もうよかろう」
呆気にとられて見ている商人をよそに、男はそう呟くと、なった瓜をもいで、うまそうに食い始めた。瓜にかぶりついていた男の目が、商人と合った。
「お主も食うか」
つられるように頷いた商人に、男は無造作に瓜をもいで手渡した。商人の手の中にあるのは、どう見ても本物の甜瓜である。
恐る恐る口をつけると、熟れた果肉の濃厚な甘みが口いっぱいに広がった。
いつの間にか、人家から離れたこの廃寺の前に近隣の人が集まり、遠くから取り巻いて二人の様子を眺めていた。
男はその人々も呼び寄せると、己の育てた瓜を気前よく振舞った。最初は恐れ半分、遠慮半分であった人々も、一人、二人と手を出す者が表われ始めると、無くなる前にと争って
商人も、もう断りもせずに二つめ、三つめを口にする。
さすがの大量の瓜も取り尽されてしまうと、ようやく人々は落ち着いた心持ちになった。思いがけずありついた馳走に、なんとなく緩んだ顔を向け合う。と、商人の悲鳴を背中に聞いた。
人々が商人のほうを見ると、背負い
皆に瓜を振舞った男も、いつの間にかいなくなっている。
気の毒そうな顔をしながら一人、二人とその場を去っていった人々の後には、茫然と
そんなことがあって、商人は廃寺の前は通らぬように用心し、道を遠回りするようになった。しばらく何事もなかった後、商人は小さな子供に呼び止められた。
「何だ」
「瓜が欲しい」
「売り物だ。くれてやるわけにはいかぬ」
そう断れば諦めるかと思ったが、子供は銭を持った手を差し出してきた。
いくぶん怪しみながらも、商人は銭を受け取って子供に甜瓜を渡した。
喜んで瓜を食いながら去っていく子供をしばらく見送り、商人は背負い篭を負いなおして歩き始めた。
すると、さほど歩かぬうちにまた瓜を求める子供が声をかけてくる。二、三度それを繰り返すうちに、商人は瓜を買うため銭を差し出す子供に取り囲まれていた。
最後の一人から銭を受け取って瓜を渡しながら、ようやく人心地のついた商人が、自分のそばで瓜にかぶりついている子供の一人に訊いた。
「この辺りで、子供に銭を配るような祝い事でもあったのか」
訊いた相手は瓜に夢中で答えを返してはこなかったが、もう食い終わった別な一人が代わりに応じた。
「そうじゃねえ。皆で廃寺の辺りで遊んでおると、そこに住む男に呼ばれて並ばされ、瓜を買えと、みんなに銭をくれた」
商人が慌てて懐に仕舞った巾着を取り出すと、商売繁盛だったはずなのにカサカサと音がするばかりで妙に軽い。巾着から出てきたのは、もともと入れていたわずかな銭のほかは、細い
こうしてその日も、商人は売り物だけをなくして稼ぎを得ずに家路についた。以来、葦北の辺りでその商人の姿が見られることはなくなった。
廃れた寺の跡地に住み着いた男は、境内の草を刈り、残った柱や木材を使って何かを建て直そうとしているようであった。
誰にも手伝いを頼まず、独りで黙々と
(二)
相良の当主、義陽が定法院の跡地に人を差し向け、男を召し出したのは、噂が耳に入って、まだそうときが経たないうちのことである。そのような気になったのは、単なる興味が半分、領内に
男は、役人が現われても逃げ隠れせず、領主の呼び出しに素直に応じた。男の要望を
妖術の類を遣う男のこととて、下座に座らされた男の周りを屈強な兵が厳重に取り囲んだ。法力が高いと評判の高僧も、数名が控えている。それでも男は、平然とした態度で義陽が現われるのを待っていた。
義陽がその部屋に足を運んだとき、平伏した男は頭巾姿のままであった。
「無礼であろう」
義陽とともに入室した
「ご免」
男は平伏から直ると頭巾の紐を解き、わずかに顔を義陽へ晒した。義陽の目に映った男の顎から頬にかけての肌は、醜く
「お側の方に申し上げる。幼き頃火事に遭い、顔から背中にかけ一面この通りにござる。頭巾を取り払ってもようござるが、却ってご不快かと思い、このようなご無礼をなした次第」
男の声は割れてくぐもり、年齢を容易に判じられぬものであった。ただその体つきからは、働き盛りの壮年であろうと察せられた。
「頭巾は被ったままでよい」
義陽が言った。目にしたものに不快な様子もみせず、男をひたと見つめている。
男はわずかに頭を下げ、頭巾を直した。左京進が続ける。
「まずは名乗られよ」
「
気を利かせた左京進が脇から差し出してきた紙に、義陽はちらりと目を落とした。そこには、今目の前にいる頭巾の男の、あらかじめ調べられていた名乗りが示されていた。
<齳>の字は、まだ生え
義陽は眉を
「その方、いずれより参った。
またわずかに頭を下げただけで、
「我は
簗瀬の一族は、
義陽がその場に控える下僚に目をやると、下僚は笑齳坊の言葉を肯定する意を示して深く頭を下げた。
国主に面謁させる前に、ひと通りの身元調べは終わっている。無論、簗瀬家からの聴取も済んでいた。
「その簗瀬に連なる者が、一族と離れて定法院跡地に居付いたわけは」
「我は武家を捨て、修験道を志したる者なれば、かの地に
「愛宕社を勧請せんとの有意の者が、市中の商人を誑かすか」
誤魔化しは
顔を隠した笑齳坊の
「市中の商人が、大切な商いの品を
「
「物を売り歩く商人とて、あの男をこれまでもよく見かけ申した。また、こたびのことで評判となり、その姿かたちを思い出す者も多ござる。
しかし、いかに噂が流れても、あの商人の在所がいずこかとの話は、一向に聞こえては参りませぬ。瓜などというものを、そう遠くから売りに来るはずもござりませぬのに、噂を聞いた近郷の者が、あれはどこぞの誰々よと言い出さぬとは、いかにも不思議なことにござりまするな」
「……どういうことじゃ」
「瓜を売るがあの者の本来の仕事ではないということ。損を少しも取り戻そうとしなかったのが、商人ではない
君主の後ろに控える左京進が口を出した。
「商人を装い、衆目を集めることを嫌う――何のために」
「他人のことを探らんとする者は、後ろめたさがあるゆえ目立つことを
「間者と言うか。しかし、どこの」
「はて、どこでござりましょうかな。しかしながら、葦北という郡がどのような立地にあるかを思い浮べれば、当て推量もそう難しくはござるまい」
「
「
「そのときに備えての、島津が放ってきた間者か」
笑齳坊の無言が、肯定を意味していた。
「お主は、その島津の間者を、我らに代わり追い払ってくれたと申すか」
「なに、瓜売りが駄目なら油売り、
我はただ、術比べをしてみたいと存じ、挑んだだけにござる。負けたほうが、尻尾を巻いて逃げていったということにござれば」
笑齳坊は、平然と言い放った。その頭巾の奥で光る目を、義陽は改めて興味深く見た。
「なるほど、話は聞いた。さて、笑齳坊とやら。お主は幻術をよくすると耳にした。薩摩の間者を破った法力を、この場で見せてはもらえぬか」
男は静かに断りを述べた。
「やれと言われて出来ぬものではあり申さぬが、所詮はただの目眩まし。高貴なお方には、お目の
脇で何か言い出そうとする近侍を、義陽は手振りで止めた。
「そうか、なれば無理にとは言わぬ」
相良の当主はあっさりと要望を取り下げた。笑齳坊が、その言を聞いて義陽を見返した。何か言いたいことがあるようにも見える。
「何じゃ」
義陽は、それだけ問うた。笑齳坊は、視線をそらさずに答えた。
「いえ、ただ噂に違わぬ
「……大儀であった」
義陽は顔を
皆が平伏して主君の出座を送る。席を立つとき、その日初めて、義陽の顔にわずかに不快の思いが表れていた。
(三)
領主が退席した後、面謁の場に同席した高僧たちは別室に誘われて、登城の労をねぎらわれた。噂に聞く京の都の流行を取り入れて、義陽がこのたび新たに造らせた茶室である。僧たちは、そこで宗匠に茶を振舞われた。
「
「我らの目の前で尻尾を出すわけにはいかぬゆえ、
術を披露するかと緊張していたものが、相手が断ったために余計な気を張らずに済んだ。その
「ご免。お寛ぎのところへ、ご無礼仕る」
茶室へ不意に姿を現したのは、自分らが話題にしていた笑齳坊だった。ひょっこりと顔を出した修験者は、皆の前で手をつき、
「皆様のお蔭にて、殿様に大いに面目を施せ申した。つきましては、礼を致しとう存ずる。お許し願えまいか」
そう言うや、相手の返事も待たずに、どこから持ち出したか鉄の
高僧の面々は、呆気に取られて見ているばかりである。笑齳坊のへりくだった態度ともの言いが高僧らをいい気分にさせたと同時に、「ここで厳しく拒絶しては
熱せられた鉄鍋からは、最初から内側に塗られていたのであろう、やがて味噌の焦げる香ばしい匂いが立ち始めた。
義陽の茶室では、部屋の中央に
「何をするつもりじゃ」
高僧の一人が訊いた。
「なに、貧乏な行者ゆえたいしたおもてなしはできませぬが、なば(きのこ)汁でもご賞味いただこうかと存じましてな」
僧たちは困惑した。鍋の中は、ただ焼き味噌を溶いた湯が煮え立っているだけである。
「なば汁というても、湯ばかりではないか」
一人が呟いたのへ、修験者が応じた。
「なばは、これより入れ申す。それ、皆様。そこに生えておるのをどんどん入れてくだされ」
そう言うと、炉の
「何をしていなさる。我一人では手が回りませぬゆえ、どうぞ手伝うてくだされ」
そう言いながら、修験者は目の前の縁から次々にきのこを
「さて、そろそろよろしゅうござりましょう」
ころあいを見ながら鍋をかき回していた笑齳坊はそう言うと、これもどこから取り出した椀に盛り付け、
そうやって、皆に汁を配る。椀の中からは、えもいわれぬいい匂いが立ち昇っていた。
「さあ、召し上がってくだされ。決して毒などではござりませぬぞ」
中でも一番胆の太い――というよりは軽率なところのある僧が、おずおずと椀に口をつけた。唸り声を上げる。
皆がその様子を固唾を呑んで見守っていた。
「これは……」
「いかがかな」
修験者は、
「
手許から目を離せないままそう呟くと、高僧は行儀作法も忘れて椀の中身を掻き込んだ。
先ほどから口一杯
ゆっくりしていたのでは人に食われてしまうと、争うように鍋の中身を注いでは食い、注いでは食いしていた坊主どもに、ようやく人心地がついたのは、汁の一滴も残さず鍋が空になってからだった。皆の椀も、どれも舌で舐め取ったほどにきれいになっている。
「どうやら皆様に気に入っていただけたご様子。これでこそ振舞った
笑齳坊は満足そうに言うと、もう一度高僧らに礼を述べて茶室から出て行った。
上機嫌で修験者を見送った高僧らは、その当人がいなくなったところで初めて我に返った。
――見せられたのは幻術だったとして、果たして己らが口にした物も幻か。それとも、あれは笑齳坊が我らの目を
それを確かめるための証拠となるべき鍋の中身は、あさましくも己らで全て喰らい尽くしてしまっていた。鍋や食器は、修験者が館の
この話を、僧らは皆、固く口を
いつも、もの静かで口元に微笑を浮かべることすらめったにしない主君の
義陽は笑齳坊に、
笑齳坊改め勝軍斎は、国の庇護する宗教者となったのである。
以後勝軍斎は、義陽の求めに応じてたびたび鷹峰城を訪れ、領主義陽の信任の下に様々な相談に応じ、ときに献策を行ったという。
(四)
後に戦国大名となる守護大名、
そうした中にあって、薩摩大隅の二国を支配する島津氏は、もともと貴族領である
すなわち、他国では守護大名、惣地頭、地頭などがいっせいに戦国大名化して
これを吸収していくことで島津は勢力を拡大していったのだが、では一気に強大化したかというと、こうした状況が逆に島津を弱体化させ、容易に国外へ進出できない
菱刈
島津は伊東義祐の圧力に対抗するため、大口領有問題をいったん
「それゆえ、儂が
鷹峰城の城主館において、義陽が、呼びつけた勝軍斎を入れて内々の軍議を開いていた。相良の若い当主は、愛宕社の別当に、国内からの
「お殿様のご差配を、それがしが憂うことなどござりませぬ。しかしながら細やかなお気遣い、誠に有難く存じ上げまする」
そう言って、頭巾の勝軍斎は
「
「天草にござりまするか……」
勝軍斎が呟いた。その声に含まれる懸念を察して、義陽が顔を向けた。
「何じゃ。言いたいことがあるならば、何なりと申せ」
「されば、
「これ、口が過ぎるぞ」
主君への口答えに、控えていた近侍、東左京進が叱責の声を上げた。
「左京進、よい。儂が訊いたのじゃ」
左京進は主人に頭を下げて引き下がったが、口はへの字に結んだままだった。義陽は構わずに勝軍斎へ言葉を掛けた。
「天草を後回しにして、獲れる所が他にあるか」
「確かに、東方以外に、今すぐ手に入れられる場所はございますまい。しかし、
「また、勝軍斎の薩摩
「確かに伊東義祐は今、日の出の勢いに見えまする。が、大隅に攻め入ってもいま一つはかばかしき成果は挙げられず、また家内も十分治まっておるとは申せませぬ。登りつめてこの有様なれば、勢いがとまった後の下り方は
しかし、島津は違うかに見えまする。確かにお殿様が仰せのとおり、今の島津は一門の統率も取れてはおりませぬが、それでも相良が大口より先には簡単に進めぬほどの地力を持っており申す。
「あの島津が、そう簡単に二国を統一できるものか。それに、もし手を出すとして、どう致すというのじゃ。お主が今言ったとおり、大口より先には、容易には進めぬぞ」
左京進が反発心も顕わに、また口を挟んだ。勝軍斎は、平静に答える。
「今のまま、放置しておくことがどうかと思うておりますのじゃ。先々仲良うしていこうとの気が無いのであれば、多少無理をしても、攻め込んで力を弱めておかねばなりませぬ。そのためには、島津と組んで伊東を押さえ込むのではなく、むしろ逆に伊東もけしかけて競いながら島津を削るほうが、先々のためではありませぬか」
「馬鹿な。これ以上伊東をのさばらせては、それこそこちらが圧迫されることになりかねぬ――それに、島津と仲良うしていくなれば、このままで良いではないか。島津とは、対伊東で盟約も成立している仲なるぞ」
「もし島津とこの先ずっと親密に交わるつもりがあるなれば、大口など返してしまいなされ。恨みの種は、相手が気にする余裕のできる前に潰しておくことこそ、真に消せたと申せるものにござりまするぞ」
「何を
主君に
「判った、判った。津々良と天草のことが片付いたらすぐに、島津への対応を軍議しようぞ」
勝軍斎が軽く平伏し、この話は終わった。左京進が勝軍斎を見る目の厳しさだけは、それでも変わらないままであった。
勝軍斎が引き退がった後も、義陽は障子に背を預けた、だらしのない姿勢のままでいた。主君の寛いだ様子に、部屋に残った左京進が気を回した。
「少し
「いや、よい」
義陽は、月を見上げたまま、穏やかな声で応じた。いつも身に張り付いている緊張が、勝軍斎と会うときだけはなくなることに、義陽は以前より気づいていた。
――これも、あの男の使う幻術か。
義陽はそうも思うのだが、それでも警戒心は湧いてこなかった。
――誑かされておるなら、それでもよいではないか。
半分は本音である。
内心ではこの俺を蔑んでおるかもしれぬ家臣どもを、見返すつもりでずいぶんと強引な手段を取ってきた。国の内外ともにそれがうまくいって、今は面と向かって逆らう者もいない。己が相良の家を継いでから今まで成し遂げたことを、義陽は誇っていいはずだった。
しかし、そうした気分になれない己がいる。
上村を背かせて放逐し、菱刈を
自分のことを相良の正統な後継と見なせぬ義陽は、己とその血を受け継ぐ者が君臨していくであろう相良の家を、これから先も発展させていくことに、意義を見出せなかったのだ。
誑かされておるならそれでよいとは、
その感情は、引見を何度繰り返しても変わらない。国主とその庇護下の宗教者という立場を越えた会話を交わすような、節度をはずれたまねはこれまで一度も行ってはいないが、そうした裏で、義陽は全てを相手に委ね、甘えているような気分でいる己を自覚することがたびたびあった。
義陽は思い当たってはいないが、それは父である義滋の態度や、己の耳に入ってくる噂からそれまで実の祖父に対するように甘えていた上村頼興に、不審の目を向けるようになって以来、誰にも覚えることのなくなった感情であった。
ふと、相良の当主は脇に控える左京進に目をやった。老臣東の嫡男であるこの男は、硬い表情のまま身をこわばらせていた。
「左京進、どうした」
気にして尋ねた主君に、左京進は一瞬、答えを
「勝軍斎がことか」
左京進は向き直って義陽に正対すると、
「ご主君。あのような者を、お近付けなさり過ぎるのかいかがかと。あれは目くらましを使う
義陽は応えなかった。東左京進は、幼いころから小姓として義陽に仕え、ともに育ってきた仲である。当時から一番気が合い、何でも話し合える相手であった。
――だが、己のこの気持ちは判るまい。
心の中で推し量ってみても、そう結論せざるを得なかった。
一本気な男であるから、中途半端なことを口にすれば、勝手な思い込みで
と同時に、咎を与えざるを得なくなって、愛すべきこの男を失うようなことも望んではいなかった。
「ご主君、我が言葉、お聞き入れくださりませぬか」
「左京進。勝軍斎が幻術を遣うは衆知のことなれど、我が前で一度でも行ったことがあるか。初見の折より、あれは道理をわきまえた
「……確かに見た目には、御前で幻術を遣っているとは見えませぬ。さりながら、ご主君のあやつを重用するそのご様子こそ、何かの
「左京進」
義陽が近侍にひたと
「今の儂が、勝軍斎の思うがままに操られていると申すか」
「いや、それは……」
言葉に詰まった左京進に、義陽はまた声を
「お主が儂を案じてくれておるのは判っているつもりじゃ。ありがたく思うぞ」
左京進は、外を眺めたまま穏やかに声を掛けてくれた義陽に平伏した。
義陽は津奈木に兵を差し向け、津々良一党を成敗した。津々良と
天草の
継承直後ほどの激越さは見せないものの、義陽はこのように、地固めをまた一歩、着実に進めていった。
(五)
乾いた木片が触れ合い、畳に落ちる音がした。散らばった
算木は通常、
しかしこの男は、算木だけで
「ふむ、先の卦が『
そう言った武士は、目の前に控える尼を見つめた。わずかに頭を下げた尼僧の表情は、頭巾の陰に隠れて見えなかった。
「さようにござりましょう」
「まあ、これまで仏法修行もまともに行ったことがない、儂のような者がやる卜占じゃ。正反対の卦が出たとて、不思議はないかもしれぬがの」
尼は、武士の軽口を言下に否定した。
「とんでもござりませぬ。独自の筮法まで編み出された
戦国期のことを記した軍学書などを見ると、占いの吉凶によって進退や攻撃法を決めるようなものがほとんどといってよいほどの多数を占めている。史書にも、占いの結果の通り勝ちを得、あるいは占いを無視して敗れた武将の記録が数多く残されている。それが、当時の一般的な認識であったといえよう。
中でも鎌倉以前からの家柄を誇る島津家は、戦の前の卜占を重要視することで知られていた。必勝が期されるにもかかわらず、悪い卦が出たために急遽中止となった出陣も、少なからずあったほどだという。
上井と呼ばれた武士は、相手が島津の軍法に触れた無礼は目こぼしして呟いた。
「尼も認める
上井
しかし、卜占の結果を歪められたために、勝てる戦さを逃していたとすれば、ことは重大である。
上井は尼の背後へ目をやった。そこだけではなく、部屋の四隅には修験者がいて、皆、口中で低く
「お疑いなれば、一旦行者殿らにおはずしいただいて、もう一度占ってみなされるがよい。外からの法力が加えられておること、きっと確信なされましょうぞ」
言われなくとも確かめるつもりであった。
――しかし、そのような神通力を持つとは、いかなる者であろうか。
上井はふと、球磨に入れた間者が幻術に惑わされて逃げ帰ってきた話を思い出した。古い
――それも、確かめればよい。
間者は幾人も放ってあった。
――相良は、攻める。今でなくともいずれは。そうときを掛けずに、大隅の決着がつくはずであった。その後には、間違いなく。
しかし、その前にやっておかねばならぬことが一つできたかもしれなかった。
着々と進んでいくかと思われた相良覆滅の計略が、あるときからぴたりと止まってしまった。それが何者の仕業によるのか、突き止めるまでに、さすがの槃妙尼が大いにときを費やせられた。
相手は、どこからか流れ着いた得体の知れぬ修験者であった。更にこの男、槃妙尼にとっても侮れぬほどの法力を備えている
苛立ちのあまり、乗り込んでひと揉みに
――我が力が弱まれば、それだけ大望を成就するのが遅れることになる。
槃妙尼は慎重を期して、これまでと同じように
――上井覚兼。惜しいが、手に入れることまでは出来まい。
目の前の男には、槃妙尼が付け入れるだけの妄執や心の虚ろがなかった。
――それでも、こたびはよしとしようか。邪魔者を取り除く役には、十分立ってくれそうだからの。
槃妙尼は心の中で呟くと、相手に気づかれぬほどわずかに唇の端を吊り上げた。
葦北の愛宕権現堂の主殿では、勝軍斎が
ふと、勝軍斎は祈りをやめて目を開けた。宙空を見上げた瞳には、深い憂いの色があった。
「これまでか……」
その一言だけが、頭巾に隠された勝軍斎の口からこぼれ出た。
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