第8話 第二部 義陽 第七章 南からの暗雲

          (一)


 ある日、水俣みなまたの城を守る深水ふかみ宗方そうほうに突然の客が訪れた。水俣は現在の相良の本拠がある八代鷹峰城やつしろたかみねじょうより遥かに南方、八代海沿いの薩摩との国境くにざかい付近に位置する、相良にとっての拠点である。

 来訪者は、城の門番に「葦北の愛宕権現堂別当、勝軍斎しょうぐんさい」と名乗ったという。実際に、領主義陽からの書状も携えていた。これまで直接面識がない領主の寵臣の不意打ちに、宗方は慌てた。

 相手の用件に心当たりは全くない。勝軍斎は、一人の壮年の武士を伴っていると知らされた。ともかく城主館の広間に通させ、会ってみることにした。

「突然押しかけて参り、ご迷惑をお掛け致しました。深くお詫び申し上げます」

 平伏して宗方を迎えた勝軍斎に、尊大なところは一つもなかった。様子を探るため世間話を一つ二つしてみると、応じてはくるものの胆の底は見せない。幻術を遣うと評判の男相手に、宗方は困惑した。

 話の接ぎ穂を失った宗方は、勝軍斎が引き連れてきた武士に視線をやった。入室の折、勝軍斎から荗季しげすえ休矣きゅういという男だと紹介を受けていた。

 領主義陽よりは五、六歳上か、宗方自身とそう変わらぬ年齢だと思える。休矣は、静かに笑みを浮かべたまま、ここまで二人の会話をずっと黙って聞いていた。

荗季しげすえ殿と言われたな。そこもとは、どのようなご出自であられるか」

 仕方なく、話の鉾先ほこさきを変えた。振られた相手は、戸惑うこともなく素直に応ずる。

「たいした家柄も無きただの牢人者ろうにんものにござる。ここな勝軍斎様に拾われ、これまでいろいろと教わって参りました」

「それは……」

 ――いろいろ、何を教わったのだろうか。この男も、あるいは人をたぶらかす術を遣うのか。

 勝軍斎が、後を続けた。

「そうそう、本日深水様の所へ無礼にも押しかけたのは、この者をお引き合わせ致すためにござった」

荗季しげすえ殿を、それがしに」

 勝軍斎が居ずまいを正し、宗方に手を着いた。

「深水様。これまで、一通りの武家の作法は教えて参りました。この者、使えるかどうか、しばらく側に置いてみてはもらえませぬか」

「勝軍斎殿、ともかく、お手をおあげくだされ――しかしながら、お手前なれば、義陽公のお側でもどこでも、このお方をお世話する先はござりましょうに。なぜにお膝許ひざもとより離れたこのようなところへ」

「是非にも深水様にお願い致したく参った次第」

 休矣きゅういも、悪びれもせずに付け加えて頭を下げる。

「深水様とは違い、それがし学問にはうとうござるが、なにとぞよろしゅう願い申し上げる」

「それは……」

 宗方は、困惑の表情を浮かべた。深水家も代々、相良で重臣の末席には引っ掛かる家柄である。そのため宗方もこの拠点となる城を委ねられてはいるが、当人はむしろ文人として名を成しており、相良家中では、どちらかといえば軟弱の徒と見られていた。

「深水様は、これより相良のお家を背負って立つお方。そのお方に、この者が使えるかどうか見て頂きたいのでござる」

 勝軍斎の物言いは、くすぐったいばかりで居心地がよくない。

「この歳までご主君のお側に仕えることもなく、片田舎の城守が精一杯の男が、お家を背負って立つと言われるか」

「いかさま」

 まっすぐ宗方を見返す修験者の目は、真剣だった。

「勝軍斎殿の法力は、先々のことも見通されますのか」

「いささかは」

 修験者は、謙遜する素振りもなく肯定した。そこまで言われれば、宗方としては確認せざるを得ない。

「そのお力で、我が行く末を見たと?」

 勝軍斎はその問いに直接答えようとはせずに、明り取りの窓より差し込む陽光に目をやった。

「深水様。間もなく、深水様が予想だにもせぬことが起こりましょう。そのときまで、この者の有りようをよく見ておいては頂けませぬか。そして、この勝軍斎云々うんぬんにかかわらず、この男が使えるとお思いになれば、すぐに追いやったりはせずに、今しばらくはお手許に置き続けて頂きたい」

 言っていることの理解はつかなかったが、言葉の端々に不吉なものを感じた。

「深水様。この通り、頼み入りまする。なにとぞ、よしなに」

 勝軍斎が、深々と頭を下げた。その背後では、荗季休矣が隣で頭を下げる師にならっている。宗方には、君主お気に入りの修験者のたっての願いを、断わるすべはなかった。


 菱刈ひしかり一族は、相良義陽に騙し討ちのようにして当主重任しげとうを殺されたが、それでも重任が裏切った島津に今さら復帰することも出来ず、いまだ相良の支配下に入ったままであった。

 重任の後を襲った嫡男の隆秋たかあきは、このころ薩摩の大口おおぐち城を義陽より任されていた。

 周囲に己の強権を見せ付けるためあえて重任を斬らせた義陽であったが、菱刈氏に対し、いくらかの罪悪感を覚えての処遇であったかもしれない。

 一方、菱刈隆秋はといえば、己の一族が置かれている不安定さに、毎日身の細るような思いをしていた。

 ――相良の当主から厚い信頼を得ていると自負していた父は、相良家中の内紛に首を突っ込んで殿様の怒りを買い、あっさりと斬られた。今はまだ自分にその罪は及んではいないが、もし我が凡庸ぼんようと見なされれば、果断な殿様は躊躇ためらいなく排除を決意なさるであろう。大功あった父にしてあのご最期だったからには……。

 それが、隆秋の義陽観である。とはいっても、菱刈には他にがない。

 ――島津は論外。島津からの独立を強めている東郷とうごうらでは弱小に過ぎて話にならず、何より我をれて相良と敵対するようなまねをしてくれるはずがない。従って、どこまでも相良にしがみついていくよりはないのだ。

 胃の鈍痛とともにはらしこる焦りをなだめながら、城外を眺めていた隆秋の目に、降り出した雨の中、荷駄を運搬する軍馬の列が飛び込んできた。

 ――天気が悪い上に遠くてはっきりとは見えないが、国境の向こうをのんびり行くのは、市山城いちやまじょうから平出水城ひらいずみじょう兵糧ひょうろうを運ぶ島津の輜重しちょう部隊であろうか。

 隆秋は心の中で素早く計算した。

 相良軍が、当時は島津方だった東郷軍に打ち勝ってこの大口防衛を果たして以来、この近辺でしばらく戦闘は起こっていない。島津の補給部隊があのように弛緩しかんしているのも、平時が続いていることから来る油断であろう。雨中の行軍を命じられて、士気が落ちている様子も伺える。

 ――なれば、奪える。

 隆秋は舌舐めずりした。平出水城への兵糧を奪えれば、結果糧秣りょうまつに窮する平出水城の攻略につながるかもしれない。義陽に己のことを再認識させる、絶好の機会であった。大口の守将は、急ぎ配下を呼び集めた。

 慎重論が出なかったわけではない。それでも、相良よりお目付役としてつけられた内田うちだ伝右衛門でんえもんが賛同したことで襲撃が決まった。

 捕獲隊はその伝右衛門が指揮する。騎兵のみの数十騎で駆け寄せる伝右衛門らの様子に気づき、島津の補給部隊は進路をれて逃走を開始した。

 一部がその場に残って抵抗し、荷駄を逃がそうとしている。城からその有り様を見ていた菱刈隆秋は、遅れて準備の整った追加の兵を引き連れて、自らも出撃した。

 敵が数を増したのを見て、島津の殿しんがり部隊も撤退を始める。隆秋や伝右衛門らは、逃がすまいと必死に追った。

 両軍入り乱れながら神尾かみおまで至ったとき、突如左右から伏兵が湧き出した。逃げまどっているだけに見えた敵の殿も、突如踏みとどまってこちらに刃を向け直している。

 ――わなであったか!

 気づいて転退てんたいしようとしたときには、もう退路にも敵兵があふれていた。


 これが、江戸期に入ってから<野伏のぶせり>と名付けられて有名になる、島津家得意の戦法であった。

 島津軍の釣り出しに乗って罠にはまり、大敗北を喫した菱刈隆秋は、大口城を失陥しっかんした。薩摩に打ち込んだくさびである大口を失ったことは、相良義陽にとっても大きな痛手となった。大口は義陽にとって、家督を相続して最初に挙げた、象徴的な大成果であったのだ。

 助けたくとも手立てがなくなったということかもしれないが、菱刈氏はこの後、義陽から見放されてしまう。離反した上ことごとく敵対してきた島津に簡単に赦されるはずもなく、菱刈氏は、その後も続く戦国の騒乱の中で、急速に衰退していった。


          (二)


 大口陥落の衝撃に相良の家中がまだ騒然としているさ中、京より関白かんぱく近衛このえ前久さきひさ下向げこうしてきた。近衛卿は豊後ぶんごで大友宗麟そうりんの接待を受けた後、薩摩へ赴く途中に義陽の住まう八代の鷹峰城に立ち寄ったのである。義陽は、家中では文人として名高い深水宗方を守城の水俣より呼び寄せ、関白の接待役を勤めさせた。

 島津に大口が奪い返されたことにより、薩肥さつひ国境に位置する水俣は、それまでの後方支援基地的な意味合いから、防衛の最前線に突如格上げされていた。

 義陽は、この重要拠点の最高責任者を引き抜いたことになるのだが、実は入れ違いに、老職ひがし長兄ながえの縁戚で、戦闘経験豊富な東頼兼よりかね頼一よりかずの兄弟を軍監ぐんかん名目で送り込んでいる。名目上の将が不在でも、実戦能力は格段に上がっているとの判断だった。

 それに、今すぐ薩摩との国境で紛争が起こるとは考えていなかった。なぜなら、一方でしばらく大人しかった日向ひゅうがの伊東がまた大隅おおすみを狙って蠢動しゅんどうし始めたとの事情もあるのだが、それより大きいのは、この後薩摩に向かう近衛卿を、島津の方でも手厚く出迎える意向を持っているという点だった。

 関白近衛卿の目的は、甲斐かい(現在の山梨県)の武田たけだをついに破り全国制覇へ大きな一歩を踏み出した織田おだ信長のぶながと協力して、武力を用いることなく日の本の全土に和平をもたらすことにある。そのさきがけとして、九州においては大友宗麟と島津義久よしひさ和睦わぼくさせた上、二家ともに織田の友好勢力となすつもりであった。

 いかにも平和主義の理想論者が考えそうなことで、島津とてまともに言うことを聞くつもりなどないのだが、なにしろ島津は鎌倉以前からの歴史を誇るお家柄であり、みやこを代表する名門貴族には弱かった。従って、このお公家くげ様に機嫌よくお帰りいただくまでは、恭順の態度を示しどこまでも丁寧に応接するつもりでいたのだ。

 ちなみに大友であるが、九州北端を奪い合って敵対している毛利もうりが、東側では織田と対峙たいじしている状況であったので、「敵(毛利)の敵(緒田)は味方」という理論から、このときの近衛卿の来訪は大歓迎だったのである。

 義陽はそこまで島津の内情を推察していたわけではないが、今、事を荒立てるようなことをしないぐらいの常識は備えているだろうと、真っ当な判断をしていたといえよう。

 何が良かったのか、近衛卿は相良をかなり気に入ったようであった。一旦薩摩まで下った後も頻繁に八代と往復し、自ら率先して相良と島津の間を取り持とうとしてくれた。あるいは、大友・島津連合の実現不可能を内心では薄々察知しており、代わりになる功績が欲しかっただけかもしれない。しかしそれでも、相良にとっては損になることのない、ありがたいお節介であった。


 鷹峰城の城主館の庭に、領主の義陽と勝軍斎がたたずんでいる。義陽の背後には、いつものように東左京進さきょうのしんが控えていた。

「これで、島津との仲が安定するなれば、もうけものだが」

 心許せる者だけを前にして、義陽は正直に内心を吐露とろした。その鍵を握る近衛卿は今、薩摩に滞在していてこの城にはいない。

「そう、うまくは参りますまい。島津が大人しくしておるのも、近衛様がご滞在なされておられる間だけ」

「なれば、少しでも長く居てもらおうか」

 軽口を叩いた義陽に、勝軍斎は応えなかった。その様子を義陽が気にした。

「どうした」

「いずれは京か安土あづちよりお呼び戻しが来て、お帰りになられるものと存じますが、その前に危難に遭われることがないかと危惧しておりまする」

「まさかに。関白様は、どこでも大事にされておるわ」

「たとえ幾千、幾万で護ろうとも、護りきれぬこともござりますゆえ」

 今度は義陽が口をつぐんだ。勝軍斎の言うのがただの理屈の上のことなのか、具体的なおそれを思い浮かべてのことか、判らなかったからである。

「殿様。ひとつ、策がござりまする。お聞きいただけましょうや」

「ほう、これは。聞かれもせぬのにお主の方から言い出すとは、珍しいの。何じゃ、申してみよ」

 勝軍斎は、己の策を口にした。それを耳にした左京進が、黙っていられずに口を出した。

「馬鹿な。自ら風下かざしもにつかんとせよとは」

 相良の当主は冷静だった。

「勝軍斎、それが何かの役に立つか」

「あるいは。もし役に立たずとも、何の支障も生じますまい――せいぜい、これより先、献納が必要になることぐらいでござりましょうが、それもわずかなもの。どうせこうしてつながりができた以上は、季節ごとのご挨拶は要るようになりましょうからな」

「……考えておこう」

 相良の当主は、わずかに黙考した上で答えた。それは単に、まだ何か言いたそうな左京進を抑えるための言葉に過ぎなかったのかもしれない。


 京からやってきた公家の意向などはお構いなしに、日向の伊東義祐がついに動き出した。伊東は、相良と島津が連携した封鎖線によって一時的に動きを抑えられていたのだが、島津による大口の再奪還以降、相良との二家連携が破綻はたんしたことから息を吹き返していた。

 まず伊東は、封鎖線に加担していた北原きたはら兼親かねちかを本拠の真幸院まさきいんまで攻め込み、滅ぼした。そして、島津の前当主、隠居の貴久たかひさが死去したのを島津家中の動揺を見込んで好機と捉え、いよいよ念願の大隅攻略へと着手したのである。

 このとき、島津は一族の内乱を全て取りしずめ、薩摩と大隅二カ国をほぼ完全に手中にしていた。

 いかに上り調子にある伊東氏とはいえ、客観的に見れば島津はもう歯が立つ相手ではなかったのだが、義祐は止まらなかった。あるいは、止まれなかったのであろうか。

 内部に抱える矛盾を表面化させないために、どこまでも拡張路線を取り続けて皆の意識を外へ外へと向けておく――現代の新興企業が抱えがちな欠陥を、当時の伊東氏も有していたのかもしれない。

 義祐は、島津の当主である義久の弟、義弘よしひろが守る飯野城いいのじょうを攻撃するも抜けず、続く加久藤かくとうでの対陣で夜襲を仕掛けて失敗、撤収して木崎原きざきばるで休息中のところへ逆に奇襲を受けて敗走した。

 義祐はいったん国へ戻り体勢を立て直すと、今度は櫛間くしま志布志しぶし方面を攻略目標に定め再出撃した。この策戦さくせんは図に当たったかに見えたが、敵の領土を荒らしている間に迂回した島津軍が日向へとなだれ込み、重要拠点である高原城たかはるじょうを奪われてしまった。

 攻撃の手を緩めない島津が伊東氏の本拠、都於郡とのこおりに迫ると、さしもの伊東義祐も進退に窮し、大友宗麟を頼って豊後へと落ちていった。島津の日向反攻には、伊東家中の内応者による手引きがあったという。

 薩摩では、相良から大口を奪還したことに伴い、一時は独立した動きを見せ始めていた東郷氏や祁答院けどういん氏らが、膝を屈して島津麾下きかに復帰した。伊東、北原といった日向からの干渉がなくなったことで、大隅でも島津の支配が磐石となった。島津一族の結集も含め、内政の不安要素は取り除かれた。

 これで島津は、いよいよ九州統一へ乗り出す体勢を整えたことになる。日向はもともと、薩摩や大隅と並んで島津が守護を勤めていた国であり、北原はすでに滅亡、伊東義祐は放逐したということもあって、一国が簡単に転がり込んできた。

 次に狙うは、豊後街道(太平洋)側は大友宗麟、薩摩街道(日本海)側は、因縁の相良となった。


          (三)


「間違いはないのか」

 厳しい口調で問い質す、義陽の声は震えていた。

御意ぎょいあらためましたる屍体、薩摩の間者に相違ござりませぬ」

 義陽一番の側近を自認する左京進も、いつもよりかしこまって応じている。

「その間者が、大口の内情を得たことへの礼状を携えていたと言うか」

「そのとおりにござります」

 東左京進は力を込めて肯定した。それでも、義陽は容易に信じようとはしない。

「島津が仕掛けてきた、離間りかんの計(裏切りがあったように見せかけ、敵の連帯を引き裂く計略)ではないのか」

 左京進は一拍置いてから答えた。

「その懸念も捨てられませなんだゆえ、傍証も固めてござります」

 三郡の領主は、無言でその先を促した。左京進が応じる。

簗瀬やなせの者より、口書くちがき(供述書)を取ってござります――これに」

 懐から取り出した書状を、義陽へと差し出した。

 ひったくるように受け取った義陽は、一刻も惜しいとばかりに腕を振って書状を拡げると、目を皿にして字を拾った。

「なんと……」

 義陽の口から出た言葉は、これだけだった。肩を落とし、呆然としている。

 国見岳くにみだけの谷底で、滑落したらしい男の屍体が見つかった。旅装でも猟師や杣人そまびとの出で立ちでもなく、市中の町人の格好をした屍体を怪しんだ役人が仔細に調べると、着物のえりに縫い込まれた密書が出てきた。

 手紙は、島津義久の意向を受けた奏者番の上井うわい覚兼かくけんから簗瀬勝軍斎宛で、大口防衛体制の内情を報せてくれたことへの礼と、内応継続の依頼、そして相良討伐後の恩賞の約束について記されていた。

 今、義陽が手にしている口書は、勝軍斎の命で島津への密使役を仰せつかった一族の者が、そのことを告白した書面であった。無論、告白者の爪印も押されている。

 ここまで揃えば、義陽としても否定する術がなかった。

 ――勝軍斎、なぜに。我は心を開き、あれほどまでに遇してきたのに。それを、一体、なぜ……。

 かつて、夜に会って一向宗成敗の話を申し渡したとき、この修験者に誑かされるならばそれでもよいと思っていたことは、もう今の義陽の念頭にはない。何の見返りも求めずに、誰よりも信じた相手に裏切られた怒りと喪失感だけがあった。

「これより捕縛の兵を差し向けまする」

 左京進が、裁可を求めて言った。

「いや、すでにここまで明らかなれば、捕縛の要はない。斬れ」

 相良の当主の口から出た言葉は、低く掠れていた。義陽は顔を上げ、声を励まして続けた。

「謀叛人は、目眩ましを使う妖術遣いじゃ。十分に備えをなし、必ず討ち取って、儂の目の前に首をもってこい。構えて失敗ることなどなきよう、しかと命じたぞ」

 燃えるような目で見下ろす義陽に、左京進は平伏した。


 数刻後、義陽の前に、首桶くびおけより取り出した生首が示された。葦北より塩漬けにされて運ばれた首は、取り出されて後も白い塩にまみれていた。領主の寵愛を一身に受けてきた修験者は、なんら抗することなく問責の使者の刃を受けたという。

 自分を裏切った男の焼けただれた相貌を無表情に眺めた義陽は、そういえば、この男の頭巾の内の顔を見るのは初めてだったかと思った。


 八代のはずれのあの古い堂宇では、槃妙尼はんみょうにが会心の笑みを浮かべていた。

「役にも立たぬ公家の身を案じて我がことがおろそかになるとは、存外に馬鹿な男であったわ。これで、邪魔者はなくなった。今こそ、相良を、球磨を滅ぼすときぞ」

 ふと、何か思いついたように小首をかしげる。

「そうじゃ、誤りは気づかせてやらねばの。後悔にほぞを噛む顔も、我にとっては甘美な馳走ちそうじゃ」

 ニタリと笑った顔は、周囲全てを凍りつかせるほどに冷たかった。


 鷹峰城の城主館で、国主義陽の前に東左京進が平伏していた。左京進を質す主君の声は、静かだった。

「口書に爪印を押した簗瀬小八郎こはちろうは、もともとは野伏のぶせり上がりの中間ちゅうげん。簗瀬の分家の末娘に強引に迫ってはらませ、婿むこに入り込んだ鼻つまみ者だそうじゃな」

「は」

「口書が鷹峰に届いたときには、もう首と胴が離れていたと」

「……御意」

「簗瀬一族の他の者は」

「既に薩摩に逃亡。今、御領内には一人も残ってはおりませぬ」

「一人として捕らえられなんだか――まさか、口書と引き換えに見逃したのではあるまいな」

 近侍は、平伏したまま答えられなかった。

「左京進」

 左京進は、頭を上げると必死に言い募った。

「ご主君、勝軍斎は得体えたいの知れぬ流れ者。人を誑かす妖術遣いにござりました。このままのさばらせておくは、決してお家のためになりませなんだ」

 義陽は共に育った男を睨み据えた。

 見返す相手の目には、覚悟が見えた。その瞳に映る己の姿を見て、義陽のこぶしから力が抜けた。

 ――己で調べようとせずに処断を決めたのは、あの男を信じきることができなかったのは、誰でもない、結局、この己自身だった……。

「判った。しばらく謹慎していよ」

 瞑目めいもくした義陽は、穏やかな声でそれだけ言った。

「左京進」

 頭を下げ、そのまま下がろうとした近侍を、義陽が呼び止めた。

「儂の命も受けずに、早まったことをしてはならぬぞ」

 退座の途中で無言のまま固まった左京進に、義陽は続けた。心の内をそのまま晒したような声だった。

「隠し事なく何でも話せる相手は、もう一人しか残ってはおらぬ。その最後の一人まで、儂から取り上げるようなまねは、決してすまいぞ――よいか、左京進。判ったら返事を致せ」

「お殿様……」

 あとは、声にならなかった。左京進は、己の一命に替えて勝軍斎を除く覚悟であった。それが、この国とご主君義陽のためであると、確信して疑わなかった。

 しかしこの瞬間、初めて己の行ったことに疑念が生じていた。

 ――俺は、あの尼僧に今まで誑かされていたのか……。

 後悔の念が襲いきたが、もう取り返しのつくことではなかった。なれば、己に出来るのはただ一つ――このご主君に、一命を捧げる。忠義一途の男は、改めてそう誓った。

 ――己は変わったのか。

 目の前で号泣する近侍を前に、義陽は思った。

 上村の一統にも、菱刈重任にも、我はこのような情けはかけなかった。あの男に出遭うてより、我は変わったのであろうか。

 ――勝軍斎。これでよいのか。

 宙を見据え、義陽は思った。

 ――今の儂に、出来ることはなんだ。

 心の内でそっと、そう呼びかけてみた。

 ――もう一度、もう一度だけでも、あの声が聞きたい。

 痛切にそう願った。己で途を閉ざした、叶わぬ願いであった。


 織田信長からの強い帰京の要請を受け、近衛前久はついに九州を後にすることになった。豊後からは、大友宗麟が船を支度するという。

 別れを前に、相良義陽は近衛卿へ、家臣に加えてくれるようにと願った。それが、勝軍斎が最後に献じた策であった。公家関白は快く応じ、簡単な主従の杯事さかずきごとを済ませて都へと帰って行った。

「けったいなことをするものよ」

 義陽の、位が高いばかりで何の力も持たぬ公家への臣従しんじゅうを耳にすると、島津義久はそう言ってあざわらった。


          (四)


 関白の近衛卿が帰京したことで、島津から重石おもしがはずれた。目の前にさえいなければ、どうとでも取り繕える。島津は、くびきからき放たれた暴れ犬のように走り出した。

 島津の当主である義久は、まず出水いずみを守らせていた一族の薩州家さっしゅうけ義虎よしとら天草長島あまくさながしまを攻めさせて攻略。相良と関係の深い天草越前守えちぜんのかみを殺害した。越前守とともに天草を統治していた天草五人衆は、島津の圧力に抗しきれずに降伏したため、まず天草が相良の手から離れた。

 ついで島津は、敵からは猛将として恐れられる新納にいろ忠元ただもとに命じ、相良領葦北の朴河内城ほうがわちじょうを攻撃させた。守備する相良方も頑強に抵抗したが、所詮は辺境の小砦しょうさいである。さほどのときも要さずに、すぐに落城寸前の有り様となった。

 攻撃側が一息ついて、城内に降伏勧告を出して様子を見ようかというとき、相良の救援軍が包囲の外から奇襲をかけてきた。攻略の目途めどが立ったところで、攻城軍にどこか気の緩んだところがあったのであろう。相良勢は、機を逃さずに仕掛けたのだ。

 相良の救援軍は、国主相良義陽が自ら率いてきた精鋭であった。それを告げられた籠城部隊の士気も高まる。

 思いもかけぬ奇襲で痛手を受けた薩将さっしょう新納忠元は、兵をまとめ、いったん退却する途を選ばざるを得なくなった。

 それでも、自軍を崩壊させることなく整然と兵を退き、義陽に付け入る隙を与えなかったのは、さすがに島津の当主が信頼を寄せる部将の進退といえた。敵軍が国境を越えて戻っていくのを確認し、義陽も本城の鷹峰へと帰還した。

 朴河内城へ伸ばしかけた手を引っこめざるを得なくなった島津であったが、肥後攻略の意思は固い。小領主相良に対し、今の義久には手段がいくらでもあった。

 島津は、相良の領地を迂回し、海路天草経由で肥後の中部及び北部方面へと圧力をかけた。

 まず、天草のすぐ北方に位置する宇土うと名和なわ氏が、一戦も交えることなく島津に降った。さらに、旧菊池家臣で菊池家滅亡後に独立色を強めていたじょう氏、内古閑うちこが氏らがこれに続く。

 相良は、南、西、北の三方を島津の勢力に囲まれることになったのである。残る東側も伊東氏の敗北後は着々と島津の攻略が進んでいる。義陽は有効な打開策が見出せずに苦しんだ。

 この間、相良領に何の手出しも行われなかったわけではない。攻略がかなうほどの兵力ではないが、出水の島津義虎がさかんに兵を出し、深水宗方が守る水俣へ侵攻して市中への放火や略奪を行った。

 球磨方面では、大畑おこばに島津兵が山を越えて侵入、相良が慌てて兵を繰り出してくるところを見てから、悠々と撤収した。義陽直卒軍が佐敷斗石さしきはかりいしで島津の小部隊を撃破するような局地戦での勝利はあったが、敵には蚊に刺されたほどの痛撃も与えられてはいまい。

 こうして、相良家中が島津軍のめまぐるしい動きに防戦一方になっているさ中、鳴りを潜めていた新納忠元が、百に満たぬほどの兵だけ引き連れ、突如葦北に出現、朴河内城に夜襲をかけた。前回の攻防で損傷した城柵じょうさくの修復も終わっていなかった小城は、油断もあり、今度はあっけなく陥落した。

 こうして相良の本土内に、ついに島津の橋頭堡きょうとうほが築かれてしまった。


 一方、日向へ目を向けると、島津に敗れ国を追われた伊東義祐は北へ逃亡し、豊後の大友宗麟に援助を求めていた。伊東の要請を快諾した宗麟は、かつての伊東の領土へと兵を進める。

 伊東氏敗亡後、島津の統治がまだ行き渡っていない日向北部を、大友の兵が蹂躙じゅうりんした。

 大友軍は寺を焼き、郷を治めていた国衆くにしゅうを次々に追放した。義祐の要請に応じて挙兵したとの体裁を整えた大友宗麟ではあったが、伊東のために国を取り返してやるつもりなどはさらさらない。宗麟は、征服した土地に、新たな国を造るつもりであった。

 当時、日本に渡来したばかりの天主教てんしゅきょう(キリスト教)の、最大の庇護者が大友家であった。いや、大友宗麟は、庇護していたというより、天主教にかぶれていたのである。宗麟は、手に入れた日向の地を、天主教が治める聖地にしたかった。その夢は、もともとの家臣が領地を得ている自国内で実現できることではなかったため、地上の(天国、楽園)を創るには、どうしても新たな土地を収奪する必要があったのだ。

 大友軍南下の報を受け、島津は確保が終わった日向中部で大友との決戦を行うとはらを決めた。平野部を見下ろす急峻な丘陵の上に建つ堅塁けんるい高城たかじょうへ、島津義久は増援の兵を入れた。ひきいるは、義久の末弟で、戦術家として名高い家久いえひさである。

 島津義久は、大友軍に高城攻略の陣を敷かせた上で、自軍の兵を展開させた。当時の九州で、突出した勢力を誇る二つの軍の激突は、しかしながらあっけないほど簡単に決着がついた。島津の大勝、大友の大惨敗である。高城の北方、耳川みみかわの流域まで追われた大友敗残軍は、兵のほとんどが斬り殺され、溺れ死んだ。

 大友宗麟自身は、この決戦の場にはいなかった。すでに切り取り終えた地で、新国家の建設に夢中になっていたのだ。戦いは、全て配下任せであった。

 任されたほうは、やる気がおきない。伴天連ばてれんの坊主にくれてやる土地を取り合うために、己らが血を流さなければならないのだ。

 宗麟の棄仏きぶつ政策に批判的だったため主家と間隙が生じていた重臣が、主君の寵を取り戻そうと、主戦派の急先鋒となり軍を引っ張っていたのは皮肉であった。大友軍は、指揮が乱れ統制が全く取れないまま戦場に赴いたのだ。

 自軍大敗の報を聞いた宗麟は、夢破れて豊後へと逃げ戻った。糧秣も放り出して尻に火がついたように逃げ出したため、道中ずっと飢えに苦しみながらの遁走とんそうだったという。


 大友軍の敗報は、相良にとっても衝撃であった。義陽が見放したことで菊池義武が球磨を離れ、大友宗麟の処断を受けて以来、相良と大友は良好な関係を続けていた。

 島津に南から圧迫を受け、西の天草、北の宇土や隈本くまもと(現在の熊本市)と、周囲のことごとくが島津になびく中で、日向で島津に対抗しようとする大友だけが、義陽に残された希望の光であった。

 大友の敗走によって東側も完全に塞がれ、これで相良は、四周ほぼ全てを島津に包囲され孤立する形になった。自国に隣接する反島津の勢力は、もう北西部の阿蘇あそ氏ぐらいしか残されてはいない。

 日向で大友軍を駆逐した島津は、主兵力を対相良方面へと移動させ始めた。大友に対抗するために、島津が兵力の大半を日向方面に集めていたことで、これまで何とか小領主の相良でも対抗できていたのだ。

 片手間の攻勢を打ち払うだけで精一杯であった義陽に対し、ついに島津は本腰を入れてきた。













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