第6話 第二部 義陽 第五章 新領主親政

          (1)


 相良さがら義陽よしひは、肥後ひご南部三郡を領する戦国大名の座に就いてより、あらためて己の周囲を見回してみた。

 前主義滋よししげが立ったころには、大きく乱れていたと聞く領内も今は治まり、己にかしずく者は全て、神妙に服従の意を示している。しかし、人々が俯いて隠した顔の下で、いったいどのような表情を浮かべているのか、この新国主には判断がつかない。

 義陽は、感情を面に表すことなく君主としての執務をこなす裏で、周りの者の挙措きょそ一つ一つに神経をとがらせていた。

 ――亡き義滋の継嗣のふりをしているが、実際には宗家の血を引かぬ簒奪者さんだつしゃよと、裏に廻ればあざけりと侮蔑の目で見られているのでないか。

 痛みを伴う疑心が、新君主義陽の心に潜むかげである。

 ――嘲るなら嘲るがよい。様子見をしようとするも、面従腹背めんじゅうふくはいをなそうとするも、好きにせよ。

義陽は、そう開き直っていた。

 ――何と思われようとも、義滋の後継は、己以外にはこの世に存在しないのだ。従う気持ちがない者には、力ずくで思い知らせてやる。

 義陽は、昂然こうぜんと胸を張って心の内で宣言した。

 臆病者のから威張り。義陽がそのときの己の有り様を、きちんと振り返られるようになるまで、まだまだときが必要であった。


 長祇ながまさ以降の相良家は、義陽の系譜上の祖父にあたる英主長毎ながつね公が拡げた版図から、寸土も増やすことなくここまできていた。むしろ義滋の時代に名和氏と一時不仲になり、菊池能運よしゆきの軍勢に大敗したことなどから、防備を固めるため自ら撤退し放棄した土地すらある。

 新領主となった義陽は、この状況に着目した。

 そうは言っても、名和や阿蘇の領土に踏み込むのは愚策であった。球磨に八代やつしろ葦北あしきたを加えているとはいえ、この九州の地にあって、相良の勢力はまだまだ大きいとはいえない。

 味方として連携してくれる者は、そのまま確保しておくべきである。幾分の心地よさも含む複雑な思いで想起される、前主義滋の失敗を、繰り返すつもりはなかった。

 ことに、阿蘇の家臣である甲斐かい氏には親しみを感じていた。先代より、相良と甲斐の間には特別の親交があった。

 相手が、義滋と親交深かった親宣ちかのぶであればまた違っていたのかもしれないが、義陽の家督相続祝いに阿蘇が派遣して寄越した重臣は、甲斐氏のほうも代替わりした宗運そううんであった。

 父の代がそうであったように、義陽と宗運も初対面の折から互いに好印象を持ち合ったのである。俗にいう「馬が合う」というやつであろうが、相良と甲斐の不思議な縁だといえるのかもしれない。。

 ――己より北東に位置する阿蘇、北西の名和を除外するとすれば、どこに目を向けるか。

 西には天草あまくさ諸島があるが、その先は海が広がるばかりで版図はんと拡大の余地はわずかである。北方、かつての菊池の領土に手を伸ばすことは、せっかく自分の代になって友好関係を築いた、強豪大友宗麟そうりんとの対決を意味する。東から南東にかけて隣接する日向ひゅうがには、かつて長定ながさだの騒乱に乗じて攻め込んできた北原や、勇将として名高い伊東いとうがいて、いずれも手強い……となれば、残るは、南しかなかった。

 相良領の南方は薩摩さつま(現在の鹿児島県西部)、そしてその東側に大隅おおすみ(同じく東部)である。いずれも大族島津しまづ氏が治める領土であった。

 しかしこのころの島津は、一族が様々に分かれて勢力を争うような内乱状態にある。義陽は、そこに付け入る隙を見出した。

 義陽はまず、大隅は菱刈ひしかりの地頭、菱刈重任しげとうに己の異母妹をめあわせた。

「我に、相良の御当主が妹御いもうとごを嫁としてくださるか!」

 重任は、相手方からの申し出で成立したこの身分違いの婚儀に感激し、発奮する。

 これまで己が島津の庇護下で生き長らえてきたことは放念して、相良義陽に従うことに決めた。目先の欲得しか考えぬ非情極まりない決断ではあったが、実に戦国の世らしい、身の処し方であるとも言えた。

 重任のとった行動は、大胆なものだった。

「相良様が儂にしてくださったように、我が妹をそなたに嫁がせよう。これからは二人手をたずさえて、相良様の下で存分に働こうではないか」

 義陽にならうように妹を薩摩の北端、大口おおぐちを守る西原にしはら氏に嫁入かにゅうさせると、油断をいて西原氏の牛山城うしやまじょうを急襲、妹婿いもうとむこを斬って落城させてしまう。重任は、己の切り取った大口の地をそのまま義陽に献上した。

 義陽は、いまだ愛惜あいせきを感じぬ亡き父の実娘一人と交換に、新たな領土を獲得したことになった。


 八代のはずれに広がる原野にぽつりと建つ、朽ちかけた堂宇の中より、クツクツと忍びやかに笑う声が流れ出た。悪意に黒く染まったその声は、喜びのあまり止めようとしても止まらぬとでもいうように、いつまでも響き続けた。

「これで、相良宗家の血はほぼ絶えた」

 いまにも崩れ落ちそうな堂宇の中で、槃妙尼はんみょうには独りごちた。

「残るは娘ばかりなれば、片付けるのも容易たやすいこと――じゃが、宗家だけでは終わらぬ、終わらせぬ。相良の一族と名のつく者は、血の一滴でも分かつておる限り、全て根絶やしにしてくれようぞ」

 きっと顔を上げた女の目は、闇の中で獣のように妖しく光った。

上村うえむら頼興よりおきはようやった。が、もはや用済み」

 相良譜代の老臣をきつけ、意のままに動かしてきた尼は、既にその家を去っていた。もう、二度と戻るつもりはない。

「上村とても相良の血をひく者なれば、この手より逃れることはできぬ――それは、義陽とて変わらぬぞ」

 槃妙尼の笑い声が高まった。けたたましいほどに哄笑する尼の大きな口には、人とは思えぬほどに長く鋭い犬歯が覗いていた。


          (二)


 上村頼興は、病の床に臥していた。

 義陽を領主の座に就け、その権威をおかしかねない者は、己の弟も含め全て排除した。阿蘇や名和との関係は良好さを保ち、菊池義武よしたけ親子を放逐ほうちくしたことで大友とも友好関係が出来上がった。内政も外交も、安定している。

 こうした折に義滋が急逝きゅうせいしたことすら、義陽の新しい政に干渉する者が居なくなったとの意味で、好事であった。欲を言い出せばきりはないが、まずは新君義陽のため磐石な態勢が築けたと、自分でも思う。

 ――やるべきことはやった。

 その達成感と安堵が、老いた頼興の心身を支えていた気の張りを失わせたのである。

 己の館に引き籠もった頼興は、急速に老け込んだ。食が細くなり、微熱を発して、寝込むような日が多くなった。

 今ではろくに枕から頭も上げられぬほどになっている。もう、目覚めている時間より、眠っている時間のほうがずっと長いような容態であった。

 義陽はといえば、ときおり気づいたように見舞いの使者は送って寄越すものの、自ら頼興の館を訪ねて来ることはない。絶えず己のそばに置いた気に入りの尼僧も、いつの間にか姿をくらましていた。しかし頼興は、己の今の身辺を寂しく思うほどの認識力も残してはいなかった。

 昏々こんこんと眠り続ける中、頼興の前に人影らしいものがぼんやりと浮かんできた。

「誰だ」

 影は一つだけではなく、いくつもあるようだった。

「お前らは、何だ。そこで、何をしている」

 球磨人吉の実質的な領主である頼興が問うても、答えは返らなかった。影はただそこに在るだけなのに、頼興は大きな不安に駆られていた。

「いったい何者だ。この儂に言いたいことがあるなれば、堂々と姿を現してみせよ」

 すると、頼興の要求に応えるように、影がだんだんと実態を明らかにしてきた。それは、薄闇が明るさを取り戻していくようにも、霧が晴れていくようにも見えた。

「お前らは……」

 頼興の前に立って口も利かずじっと見つめてくるのは、侍であり、百姓であり、商人であり、その者らの女房と思える者どもだった。親らしき者に手を繋がれ、あるいは一人だけでぽつんと立っている子供の姿もある。

「何だ、そなたら、いったい儂に何の用だ」

 問うても、答えは返らなかった。頼興は、幾人とも知れぬ人々の群れに、ただ無表情に見つめられているばかりである。

 大勢の視線に、頼興はついに耐えきれなくなった。

「儂に用があるなれば、何とか言ったらどうだ。そうでないなら、そのようなところで人を見ておらず、早々に立ち去れっ。

 いったい儂を、誰だと思うておる。この球磨人吉の覇者、上村頼興なるぞ」

 頼興は、誇らしげに名乗りを上げた。無遠慮にこちらを見つめてくる者らも、頼興の名を聞けば皆怖れて地に這いつくばるはずだった――が、頼興は己の名を口にしてみて、自分の行為が間違いだったことに、ようやく気づいた。

 自分らが目にしていた者が上村頼興であると知った者らは、とたんに表情を大きく変えた。全ての者が、何かを叫んでいるようだった。

 なぜか頼興の耳には意味のある言葉として届きはしなかったが、叫んでいる者らの顔つきを見れば、それが怨嗟えんさであり、罵声ばせいであり、おどしであることは明らかだ。

 怒りに突き動かされた者どもは、口々に訴えるだけでは飽き足らず、頼興に群れをなして向かってきた。手を伸ばし、球磨人吉の最高権力者をその手に捕らえようとする。

「何をしておる。寄るな、寄るなと言うに」

 慌てて逃げ出そうとしたが、足がうまく動かなかった。気づけば、こちらを害そうとする者らは足下にも手を伸ばし、獲物が逃げ出すのを妨げようとしていた。

「離せ。儂は、そなたらなどが触れることの許されぬほど身分高き者ぞ」

 頼興の叱咤は、大勢の叫びの前にかき消された。

 そうして夢の中の頼興は、何者か大勢の者にののしられ、脅され、つばを吐きかけられた。首を絞められ、腕をひしがれ、殴られ、蹴りつけられ、石礫いしつぶてをぶつけられた。

 中には、誰だったか自分と親しかったはずの者もいるようなのに、そうした連中も誰も助けてくれようとはしない。他の者どもと一緒になって、こちらに害をなそうとするばかりであった。

 主君の権威を我が物とし、主君を敵に殺させんとはかり、その妻すら奪い、あるいは己の一族にあだなすであろう犬童いぬどう一族をみなごろにした男は、もともと気の弱い臆病者であった。老いさらばえ病み衰えて、さらにはこの世の威勢など全く通用せぬ夢の世界にあって、頼興は本来の己自身に戻っていた。どのような無体を仕掛けられても、頼興には悲鳴をあげ、許しを請う以外の手立てはなかった。

 ――なぜ皆は、儂独りを敵視して、ひどい目に遭わせようとするのか。自分はもう、足えて逃げることすら叶わず、脇差一つ振り上げる力すら持たぬ哀れな年寄りなのに、なぜ誰もいたわってくれようとはしないのか。己はいつまで、この理不尽な暴力にさらされ続けねばならぬのか。

 今の頼興は、その理由を思い出し、得心するだけの知能もすでに欠いていた。ただ恐れ、苦しみ、もだえ続けるしかない。昏々と眠り続ける老人は、その一刻一刻を、そうした知覚の中で生き続けた。それは、死ぬまで続く、当人には永劫えいごうとも思われる地獄の日々であったはずだ。

 ある日頼興は、いつになくすっきりとした心持ちで目覚めた。当人は自覚していないものの、ここしばらくなかったほどに意識は鮮明であった。

 自分のものではないほど重たい頭はそのままに、視線だけを動かすと、はしためが夜具を除けてこの身の着物も脱がせ、体を拭き清めていた。鈍った感覚の中でも、わずかに爽快感を感じた。

 身動きもならず仰臥ぎょうがした状態で、されるがままになっている頼興は、視線を天井へと向けた。何か、己の記憶に訴えるものがある。それがはっきりしないことに、身をよじりたくなるようなもどかしさを感じた。

 ――由利姫ゆりひめ

 不意に、己の主君であった義滋の奥方のかおが心に浮かんだ。己が名和より迎え入れた、義滋公の後室である。なぜ急にその顔を思い出したのか。頼興は己の心の動きを不可解に思った。

 ――まだ義滋が存命であり、国主の座についていたころ、この国の全てが己の思うがままに動いていたころ、儂はお由利の方に執心した。何度も君主正室が住まう邸に押しかけ、婉曲に脅しをかけ、高価な調度や化粧品で歓心を買い、遂には我が身の下に組み敷き、欲望を遂げた。

 匂い。

 その言葉が唐突に転がり出た。困惑する頼興は、己の嗅覚が由利姫の記憶と直結する匂いを感じていることに、ようやく思い当たった。

 ――なぜ今、この場でこのような香りを嗅ぐ。お由利の方は、とうの昔に名和へ帰されたはずではないか。

 頼興の視線は、己の身を懸命に世話する婢に再び注がれた。見慣れた顔だ。いつの頃からか、気づいたときには身の回りの世話をするようになっていた。取り立てて目を引くほどの容姿でもなく、これまで、ありふれた植木や庭石を見るのと同じ目でしか見てこなかった女だ。

 ――しかし……。

 お由利の方を抱くことが出来たのは、たったの二度ばかり。しかも、灯りを全て消した真っ暗闇の中であった。

 その折の、由利姫の匂い――頼興は、今自分の嗅いでいる匂いが何か、ようやく気づいた。

 表情を変えることすら思うようにいかなくなった頼興は、己の記憶の錯綜さくそう惑乱わくらんした。

 ――なぜこの女からこの匂いを嗅ぐ。儂が抱いたのは、確かにお由利の方であったはずだ。

 本当にそうか。

 ――あの暗闇の中で、本当にそうだったと言い切れるのか。いや、いかに光がなかったとはいえ、己の感覚がそこまで鈍かったはずはない。しかし――。

 頼興は、さらに記憶が鮮明に甦るのを感じた。期待に胸ふくらませ、女房に手を引かれながらお由利の方の寝所に入ると、すぐにこの香りに包まれた。頼興は、蒲団の中で向こうを向いたまま身じろぎもしないその女体に触れる前に、既に忘我ぼうがの境地にあったのだ。

 そこから先のことは、迎えが来て部屋の外に連れ出されてしばらくするまで、ずっと夢心地ゆめごこちのうちに推移した。まるで己が己ではないかのような心持ちであったことを思い出す。

 老残の頼興はカッと目を見開いた。

 ――己は、今の今までたばかられていたのか。たかが名和の小娘ごときに。では、若君は――義陽公は、いったい誰の血筋か……。

 ――儂は、我が子に国を与えたつもりで、あの義滋の血筋を残すことに懸命になっておったのか。

頼孝よりたか……」

 老人は、口の中で呟いた。そのとき初めて、確実に自分の血筋である男の姿を想起したのだ。

 嫡男の頼孝を義陽公の直臣として鷹峰の城には置かず、上村の郷里に帰したのは、上村一族の専横が義陽の新政を妨げることのないように、頼興自身が義陽と図って決めたことであった。

 ――頼孝。儂は、この己が手で、上村一族と己の継嗣に引導を渡したのか――いや、あの義陽公が上村に讐なすはずがない。公は、儂があれほどまでに慈しんだお方なのだから……。

 頼興の心からは、なぜに己が義陽を溺愛できあいしたのかという理由は飛んでしまっていた。ただ、義陽が幼いころに、己に懐いていた姿だけが記憶に残っている。

 老いた頼興は、己を安心させるための理由だけを選んで心に思い浮べていた。

 それでも、黒々とした不安は心の奥底から去らず、少しずつ、しかし確実に頼興を蝕み始めていた。


 床に臥す頼興の身の始末を終え、寝間着を着せ掛ける前に、綾女あやめ――お由利の方とともに名和からやってきた女房どものうち、唯一球磨に残った女――は、頼興の老いた顔をそっと見下ろした。

 今日は気まぐれを起こして、かつて主人であったお由利の方様よりたまわった襦袢じゅばんを、本当に久しぶりに身につけてみた。お方様の身代わりとして、この老人に身を任せたとき以来、ずっと行李こうりの奥に仕舞いこんだままであった肌着だ。綾女は、故郷で夫と死別してより、お由利の方様に仕えてきた女だった。

 襦袢は綾女の体温に温められ、かつての香気を思い出したように立ち昇らせていた。お由利の方様が常に使っていた香木の匂いではない。伏床ふしどに迎えるときを含め、この老人がやってくる折にのみ使っていたものである。お由利の方は、練りこんだ香の塊を細かく削って灯火に振り撒き、綾女に着せる前に香炉を使って襦袢に焚き込んだ。

 お由利の方様が練り香の塊を入れていた小袋は、身分の高いお方の持ち物とは思えぬほどに質素なものであった。それを目にした綾女が問うと、お由利の方様は優しく微笑んで、「ここに嫁ぐ前に旅のお坊様より戴いた大切なもの」とお答えになった。

 その折のお由利の方様は、遠くに目をやり、胸にしっかりと小袋を抱いていた。お由利の方様は、綾女が自ら申し出たこととはいえ、自分の婢が醜悪しゅうあくな老人に身を任せることを、深く憂いなげかれていた。綾女は、心の痛みと共に、目に一杯の涙を溜めた主の顔を思い出した。

 目の前の老人は、ずっと無表情のままである。今でも何かを思うことがあるのか、じっと顔を見ていても判らなかった。

 綾女は、お由利の方様が名和へお帰りになるとき、お暇を戴いてこの屋敷に婢として仕え始めた。お由利の方様は、綾女が己の決意を伝えると、あのときと同じ悲しい顔をされ、それでも何も言わずに許してくれた。

 ――なぜ八代に残る気になったのか、そしてこの屋敷に仕えようと思ったのか。

それを綾女は、うまく言葉にすることができない。

 目の前の老人は、権力を笠に着てお由利の方様を意のままにしようとした悪い男だった。この屋敷に来たころは、自分はこの男を憎んでいるのだと考えて疑いもしなかった。

 ――機を得ることができれば、この手で殺す。

 それが、綾女がこの屋敷に入り込んだ理由のはずであった。

 しかし、毎日のように顔を合わせ、老人の世話をしているうちに、綾女は自分で自分が判らなくなってきた。

 また抱かれたいと思ったことはない。それでも、毎日続く同じ仕事の中で、頼興を襲う機会が全くなかったとも言えはしない。ともかく実際の綾女は、ただ黙々と目の前の老人の世話をし続けたのだ。

 ――己は本当にこの男を憎んでいるのか。それとも、どこかでいとしいと感じているのか。

 答えの出ないことは考えずに、日々の仕事をこなすことだけ。綾女に出来ることは、ただそれだけだった。

 ――この男の最期を見届ける。

 それが、綾女の今の覚悟である。お由利の方様の身代わりを自分から申し出たときからずっと、以前は考えもしなかったような行動ばかり取ってきたように思う。

 ――それでも、後悔することだけはない。

 綾女は、それだけははっきりと、自分に対して断言することができるのだった。


          (三)


 上村城に戻された上村頼興の嫡男頼孝は、豊福とよぶく城主で弟の頼堅よりかた岡本城おかもとじょうを守る同じく弟の長蔵ながくらの二人と図り、君主義陽に叛意はんいを示した。義陽からきた軍兵と糧米りょうまいの供出命令に従わなかったばかりか、所領安堵しょりょうあんどへの御礼挨拶のため八代に伺候するという慣例も無視して、逆に城と領内を兵で固めてみせたのだ。

 頼孝らにしてみれば、実際に謀反を起こそうという過激な意図まではなかった。ただ、頼興隠居後に、新君義陽が上村一族への厚遇を改めたことへ不満を募らせ、示威じい行動を取ってみせたのである。これを見た義陽が、自分らへの処遇を考え直して上村への扱いをきゅうふくしてくれさえすれば満足できたのだ。

 しかし、義陽はそうは受け取らなかった。

「上村頼孝、頼堅、長蔵らの振る舞いは、謀叛である」

 そう、はっきりと断じたのである。まず、上村頼堅が信頼する東山ひがしやま城主を少数の兵とともに豊福城へ向かわせ、見舞いと応援に違いないと、疑いもせずに城を開いて出てきた頼堅をその場で斬り殺させた。

 次に義陽は、一定の兵力を蓄える頼孝長蔵兄弟へは直接手を出さず、自ら兵を率いて頼孝らと同族の上村外記げきの在所へ攻撃に向かった。

 驚いたのは上村外記であった。

「なぜ殿は、儂に兵を向けられる」

 外記は権力にびぬ男で、頼興が義滋の宿老として権勢を振るい、上村一族が隆盛を極めていたころにも、おごる者どもを一歩引いたところから眺めていたような謹厳実直きんげんじっちょくな男だった。

 当然、このたびの造反劇でも、頼孝から全く声は掛かっていない。もし行動をともにするよう求められていれば、逆に反抗をやめるように説得に回っていたであろうし、頼孝としてもそれが判っていたから味方に誘おうとはしなかったのだ。

 外記は主君に対し弓引くことを差し控え、大隅の菱刈へと逃れていった。薩摩の大口領引き取りの検分役を仰せつかった折に面識を得て以来、親交を持った菱刈重任を頼ったのである。

 重任は外記親子を保護すると、二人を連れて義陽の居城である鷹峰の城へと弁明にやってきた。

「外記の潔白は明白である。その上、公自らが義弟となした我が、言葉を尽くして取りなせば、きっとお聞きくださるはず」

 重任は外記親子にはっきりと断言してみせ、自身でもそう信じて疑わなかった。

 上村外記親子を引き連れ、菱刈重任が登城してきたと聞いた義陽は、普段と変わらぬように城兵に三人を迎え入れさせた。下僚に案内されて城に入った三人は、扱いの丁重さにすっかり警戒を解いていた。

 城内の領主館へ至る途中の武者溜まりで、待ち構えていた完全武装の兵に、不意を衝かれて簡単に捕らえられたのはそのためである。そして、急遽その場に設えられた処刑場で、三人ともに斬首されたのだった。

 両腕を兵に取られて引き据えられながら、重任は己の身に起こっていることが信じられずにいた。

「なぜだっ。ここまで公に尽くしてきた我が、一言の弁明も許されぬまま、罪人のように斬られるはずがないではないかっ」

 重任の叫びは、むなしく快晴の空にこだました。

「大口を手にしたとき、妹婿をその手で斬り殺したのが、ほんの数年前のことではないか。そんなことも忘れおったか」

 己の館で、重任の最期の絶叫を耳にした義陽は、表情ひとつ変えることなくそう呟いた。脇に控えていた近習も、主の言葉を聞いておもてに感情を出すことはなかったが、重任に言った今の言葉が主自身に返ってくることはないか、一抹いちまつの不安に襲われる思いまで打ち消すことはできなかった。

 義陽の今の言葉から過去を振り返れば、罪人を処断する機を捉え、実際に罪を犯した者ばかりでなく、その一族に名を連ねる者全てを滅しようとする行為は、かつて上村頼興が犬童一族に対して行ったことそのままであった。ひるがえって、こたびはその運命が上村一族に返ってきただけである。

 頼堅謀殺もかなり深刻な事態であったが、外記親子とこれを庇い立てた菱刈重任の死は、上村三兄弟のうち生き残っている頼孝長蔵の二人に更に大きな衝撃を与えた。兄弟は、ここで改めて義陽の本気を思い知ったのである。

「新君など、親父殿に甘やかされた、ただの小僧よ」

 そうあなどっていたのが、相手の酷薄さを読み違えていたのは自分たちであったとほぞを噛んだ。「今さら頭を下げてきても、ゆるすことなど金輪際ありえない」と、義陽は己の行為で明示してみせたのだ。

「立つのなら、かつて相良長定が長祇ながまさに謀叛を仕掛けたときのように、周到に準備を重ねた上で一気にことを決すべきであった。今のこの情勢になってしまってからでは、もう自分たちに与同する者など現れはすまい」

「上村が相良家中で一、二を争う勢力じゃと申しても、このように孤立したのでは、もう先が見えておる。今ではむしろ、我らの配下から義陽に迎合しようとする造反者が出ぬか、気にせずばならぬほどだの」

そう語り合った兄弟は、薩摩の島津氏による支援に活路を求めた。

 島津は大隅で菱刈重任にそむかれ、その重任に大口の地を奪われて相良に接収されるという目に遭っている。上村兄弟の内応の知らせに、島津の当主貴久たかひさは、東郷とうごう相模守さがみのかみに命じて大口奪回の兵を挙げさせた。薩摩からの働き掛けを受けた日向の伊東義祐よしすけも、機を伺って球磨の領境に出没し始めた。

 このときの義陽の行動こそ、積極果断せっきょくかだんそのものだった。日向で蠢動しゅんどうする伊東の動きはほとんど無視した上で、手許の兵を二つに分け、一手を上村頼孝長蔵兄弟へ、もう一手を大口に攻め入ってくる東郷相模守へ向けたのだ。

 上村兄弟の攻撃へと向かった兵は、あっさりと長蔵が守る岡本城を攻略した。逃げ込んできた弟を迎え入れて守りを固める頼孝の上村城を尻目に、義陽の兵のほとんどは、薩摩大口戦への増援のため転進した。

 そして追加の兵の到着により、大口での戦闘も大勢が決していく。それまであえて膠着こうちゃくさせていた戦線へ、義陽が転進させた増援部隊を投入し一気に攻勢に出たのに対し、当時本拠地での内戦への対応で手一杯だった島津本家は、東郷相模守へ満足な戦力増強を行うことができなかった。

 主君の力が脆弱ぜいじゃくであれば、国人衆は自立傾向を強める。島津を見限った東郷相模守は、独断で義陽と和議を結ぶと、相良の大口領有を追認した。東郷氏との結束を強めるために、義陽は残る妹、義滋の三女を嫁入させることを躊躇ためらわなかった。

 こうして最後の策にも敗れた上村の兄弟は、城を捨てて日向へと落ち延びていった。


 菱刈の地を背負う山の中を、何か大きな生き物が駆け抜けていく。

 枝が絡まりあった濃密なやぶの中を、まるで平坦な丘の上を走るように駆けていくモノなどこの世にあるとは思えなかったが、よくよく見れば、それは袖頭巾を被った尼僧であった。尼は、僧服のすそを両手で持ち上げて飛ぶようにあしを進めていた。白くなまめいた二本の足が、別の生き物のように激しく躍動している。

 獣のような足捌きを見せながら、尼僧の上体は小揺るぎもしていなかった。その表情はと見れば、飛ぶような動きを続けているにもかかわらず、息一つ切らせてはいない。

 能面のような感情のない顔で、己の足下ではない何かを冷たく見つめていた。ふと、唇の端がわずかに引き上がる。

「相良義陽。こちらで思うておるよりも、よう動いてくれよるわ。お前が動けば動くほど、因果律は煩わしきほどに絡まりうて、終末へ向けてなだれ込んでゆくぞ。この分なれば、我が大願成就の日も、そう遠くはなかろうな」

 領主重任が殺され、その重任が奪った大口に薩摩の兵が充満したことで、この菱刈の地も安全ではなくなっていた。夜盗、狼藉者ろうぜきものたぐいがはびこったばかりではなく、島津の息がかかった兵も姿を見せ始めている。重任を操って十分に働かせた尼――槃妙尼は、まだこの地に潜んで次の獲物を探すつもりであった。

 それが、事態の急転で急ぎ立ち退かねばならなくなった。

 ――たとえ咎められたとて賊や雑兵など何ほどのこともないが、そのような者にかかずらわってときを費やすよりは、早めに立ち退いたほうが次の準備につながろう。

 それが、この夜半の山越えの理由である。

 人の姿をした化け物は、山の獣でもありえぬほどの速さで、道ではない密集した藪の中に分け入りながら、枝を折り枯れ葉を踏む音すらほとんどたてることなく、深山の奥の闇へと消えていった。


          (四)


三郡雑説さんぐんぞうせつ』と呼ばれた上村氏三兄弟の謀叛騒動を追いかけるように、相良を支える二人の老臣、ひがし長兄ながえ丸目まるめ頼美よりよしの間に抗争が勃発した。兒玉こだま彌太郎やたろうら重臣の子息が、丸目の母に仕える婢に懸想して果たせず、丸目氏が潰れれば婢も召し放ちになって手に入れられるであろうとの邪念から、二人の老臣にそれぞれ讒言ざんげんを吹き込み、咬み合わせようとしたのが事の発端であるという。

 己の色欲のために領土の根幹を揺るがすような悪巧わるだくみを巡らす小僧どもも小僧どもだが、それに乗せられて私闘を始める国家の重鎮も浅薄せんぱくに過ぎよう。二人の間には、もともと対決せざるを得ない火種があったと、ここでは解しておく。

 老臣という立場にありながら、支えるべき君主義陽が全て独断でことを決して重要事に関与できず、しかもそれが図に当たっているため口を出す隙もないという状況が、政から権力闘争に関心を移させた背景だと言えるのかもしれない。

 いずれにせよ、老臣同士の諍いは血で血を洗う武力闘争にまで及んだ。更には両家の枠を超えて、領内を二分する内戦状態まで引き起こしたのである。

「東をたすけ、丸目を討つ」

 突如巻き起こった騒乱は、領主相良義陽が、一方の当事者である東長兄への支持を明確にしたことで、急速に収束へと向かった。

 現実的に見る限り、もう両者が並び立つことはないと判断した義陽が、どちらに正義があるかではなく、どちらを残したほうが領土にとって得かで判断した結果であった。

 主君に見捨てられ、賊軍と成り果てた丸目からは、与同する者が急速に離れていった。丸目軍は士気も保てず、戦況は一気に悪化する。立場を失った丸目頼美と生き残った一族は、上村の兄弟同様、日向へと落ちていくこととなった。

 突然巻き起こった家中の一大事も、何とか取りしずめることに成功した義陽ではあったが、その代償として、領土を支えるべき両翼の片方を失った。それがこの先、相良の三郡にどのような影響を及ぼすのか、義陽もその周囲にも、見通せる者はいなかった。


 夜道を歩く尼の前を、黒い影が遮った。五人の、腰に刀を下げた男どもである。

 相手の突然の出現にも、尼は全く驚いた様子をみせなかった。怯えもなく男どもへ問い掛ける。

「これは、夜盗の方々か。このような寄る辺もない尼など捕らえたとて、金にはなりませぬぞ」

「誰が夜盗じゃ」

 声を聞いた尼は、わざとらしく目を見開いた。

「おう。これはこれは、兒玉様の御曹司と、そのお仲間の方々でござったか。かような夜更けに、夕涼みでもなされておられますのか」

「何を空惚そらとぼけたことを。夕刻に、我が屋敷の中間がおのれを見かけたとて、網を張っておったのよ」

「それは御苦労なことじゃったが、はて、何のご用かのう」

白々しらじらしいことを申すでない。おのれに操られたお蔭で、我らはこの地に居られぬようになりそうだわ。せめてもの腹いせに、意趣返しをさせてもらうぞ」

 若い無頼どもの脅しにも、尼は臆する様子を見せなかった。

せん無いことを。たくらみはからめ手よりなされよと、あれほど申し上げたに面倒臭がりおって。

 東と丸目を咬み合わせんとするに、馬鹿面ばかづら晒して直接焚きつけたは、そなたらではないか。バレて当たり前よ。それを人のせいにするとは、呆れ果ててものも言えぬわ」

「うるさい。おのれの策に乗っても、婢は手に入れられなんだではないか。その上この始末じゃ。どうしてくれる」

「まるで駄々っ子じゃのう。何でも他人のせいにするかや。婢が手に入らなんだのも、ほかのことも、そなたらがつたない手際で失敗しくじったからであろうが」

「この尼、散々ひとを小馬鹿にしくさって。目当ての婢を得られなんだからには、せめておのれに代わりをしてもらおうか」

 自暴自棄になった無頼どもは、目に嗜虐しぎゃくの笑みを浮かべて、か細い尼を取り囲んだ。

「おのれらで、この尼を満足させられるかのう」

 薄暗い月明かりの下で、尼は頭巾の下の顔にニタリと笑みを浮かべる。

 構わず、兒玉の取り巻きの一人が尼の肩に手をかけた。尼は、そう大きく動いたように見えなかったが、手を振りほどかれた取り巻きが、込めた力をはずされて前にのめった。

 どさりと、何かが地に落ちる音がした。

「おおおぅ」

 尼に振りほどかれた取り巻きがえた。地に落ちたのは、尼の肩にかけた己の右腕であった。

 一瞬、何が起きたか判らなかった男たちだが、それでも尼の前からさっと広がった。皆、腰の太刀に手をやっている。

「おのれ、歯向かうか」

「されるがままでは、そなたらも歯ごたえがなかろうと思うてな」

「いったい、何をした……」

 うずくまってうめく仲間に目をやりながら、顔面を蒼白にして問いただす。今ごろになって、ようやっと尼の異常な落ち着きと不気味な技に気づいたようであった。

「なに、煩わしいで、肩の手を払っただけよ。それで千切れるとは、侍とも思えぬか弱さよのう」

「このあまっ」

 仲間の一人が、太刀たちを抜いて切りかかった。左右の袈裟懸けさがけに、何度も振りかぶっては振り下ろす。

 尼は、足を動かしているとも見えぬのに、刀が振り下ろされる瞬間にすっと間合いからはずれた。

 何度目かの振り下ろしのとき、尼僧は刀に合わせるように、右手を軽く前で振るう。刀すら届かぬなら、相手に届くはずのない手の動きである。

「くわっ」

 振り向いた侍の顔は、縦に五本の血の筋を曳いて引き裂かれていた。

「目が、目が見えぬ」

 よろよろと足をもつれさせて、道をはずれると斜面を転げ落ちた。川にはまり込んだらしい大きな水音があがった。

 首魁しゅかいの兒玉彌太郎が太刀を手に、尼に迫った。先ほどの相手の腕の振りを警戒しながら、縦に、横に、斜めに刀を振るい、突きをみまう。

 十分斬れるはずの間合いであるのに、何度太刀を使っても、尼の体は切っ先の外へ逃げおおせていた。

「おのれ、ちょこまかと。大人しく斬られよっ」

 上気させた顔でわめく。相手の尼は、息一つ切らせていなかった。

「そうか」

 そう言うと、ずいと近づいてきた。

 応じるようにこちらも踏み込み、その肩めがけて、鍔元で斬るつもりで切り下げる。存分に袈裟に懸けた――はずであったが、手応えがない。目の前から、尼が掻き消えていた。

「ぬ……」

 振り下ろした体勢はそのままに、目玉だけで相手を探した。不意に、背筋がぞっと凍りつく。

 己の胸の辺りから、袖頭巾を被った顔がぬっと迫り上がってきた。尼の整った顔が、こちらのほおにつかんばかりの近さにある。

 兒玉は、尼の瞳の奥に虚無を見た。

「ひ……」

 思わずのけぞったが、その動きに相手の顔もついてきた。

 残る二人のほうを尼が振り向いたとき、背中で立ち尽くしていた兒玉がどさりと倒れた。月明かりを受けたその首からは、咽仏のどぼとけが喰い千切られていた。二人は、恐怖に後ずさった。すでにあらがう気力はえている。

わらわに操られたと言うたのう――操ってなどはおらぬ。妾がほんの少し水を向けたら、おのれらのやりたいように、おのれらで勝手に動いただけではないか」

 その声は、くぐもっていた。口の中で、何かをねぶっているようであった。

「操ると言うは、ほれ――」

 尼は、ひょいと右手を顔の横に上げた。こぶしは親指を出して軽く握り、折った手首を前へ向けている。

「うわっ」

 二人残った若者のうちの一人が、己の意思とは無関係に、太刀を持った右手を上げていた。刀を手から離そうとしたが、指が開かない。

「ほれ――」

 今度は、左足を前に出した。それに吊られるように、もう一人の若者の足も前に出る。

「ほれ、ほれ――」

 尼が手を、足を動かした。そのたびに、二人の侍たちの手足も動く。

 月光を浴びた三人の動きは、奇妙な踊りのようにも見えた。見る者が見れば、尼の足運びが反閇へんばいと呼ばれる呪法に酷似していることに気づいたであろう。

 尼に操られた二人は、やがて向き合い、相手の肩に左手を置きあって、それぞれの太刀で相手の腹を刺した。

 突き立てて、ぐりぐりとね回す。互いに顔を見合わせて泣きそうな顔をしながら、それでも己の手を止められずにいた。

「これで妾の相手をなそうとは、片腹痛い。退屈凌ぎぐらいにはなろうかと思うたが、なんの、子供の遊びよな」

 尼が体の力を抜いてすっくと立つと、向かい合い傷付けあっていた二人がくずおれた。

 尼が見渡せば、兒玉は目を見開いたまま夜空を向いて死んでいた。川に落ちた一人は、淀みにうつ伏せで浮いている。腕を落とされた男は、まだ息はあるものの、血を失い過ぎて虚ろな目で地に顔をつけていた。

 辺りには、なまぐさい血の匂いが濃密に漂っている。尼はそれを、かぐわしい香りでも嗅ぐように、胸いっぱいに吸い込んだ。

 弱々しい視線を感じて足下に目を落とすと、はらわたをはみ出させて倒れるうちの一人が、救いを求める目で見上げていた。腹の傷は、深手であっても簡単に即死には至らない。切腹に介錯かいしゃくがつくのは、そのためである。

 尼は、あまりの苦痛に声も出ない若者の前にしゃがみ込み、顔を覗き込んだ。

「苦しいかや。ああ、ここまで腸が出てしまっては、もう助からぬな。残念じゃが、もはや、死ぬるしかないぞえ」

 相手の苦悶くもんと絶望の表情を、つぶさに見取りながらささやきかける。それでも声を出せない相手は、憐れみを乞う目で尼を見つめた。尼は、楽にしてくれとの相手の無言の願いを、非情にも無視して立ち上がった。

「やれやれ、無駄なときを過ごしたわい」

 どこまでも伸びる舌で頬についた血糊をズルリと舐め取ると、皓々こうこうと降る月の光に照らされた顔で、濡れ濡れと笑った。















 

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