第4話 第一部 義滋 第三章 主家簒奪
(一)
夕暮れというには、もう陽が落ち過ぎたほどの刻限だが、灯りも求めず、薄闇の中で、
「直接に加担した者だけではいかぬと申すか」
ぽつりと、頼興が言った。お家に背き、この動乱の原因を作った
「はい……」
誰もいないと思われた庭のほうから、低く女の声が応えた。
「
よく見れば、尼僧姿の者が庭の隅に控えていた。闇の中で、頭を覆う頭巾の白い色だけがぼんやりと浮き上がって見える。
「
珍しく
「お信じになりませぬか」
頼興は黙したままだった。静かな、しかし冷え冷えとした尼の声が、強い咎め立てに聞こえたのだ。
「長定のこと、
「……それは、判っておる」
「この尼の占いを信じたことで、上村様は三郡をお手に入れられた」
「滅相もないことを。ここは、相良義滋様のご領地ぞ」
叱った頼興の声音は、弱々しいものだった。
「その義滋様は、殿様のお許しがなければ、何も御自分ではお出来になれますまい」
豪族の所領を
「もはやこの尼の占いなど用無しと申されるならば、それも
「いや、それは……」
一領を
――今は逡巡しているものの、結局はこちらの言うた通りになそう。
――この体、旅の途中で病に行き倒れた
こたびの占いも、巫女の霊力を借りて得たものだった。ただ、犬童の末裔が
――結局この男は、言われた通りにやる。
槃妙尼は、下げた頭の陰で目だけを濡れ濡れと光らせていた。
謀叛に加担した犬童長広へと向けられた上村の軍勢は、簡単にこれを平らげた。領地に戻ってより
長広の首を挙げた上村の兵は、次に長祇殺害に直接手を下した犬童匡政を目指す。抵抗を断念して逃亡を図った匡政親子は果たせずに捕らえられ、
上村頼興による犬童一族粛清は、これだけでは終わらなかった。長定の謀叛に直接加担しなかった者にまでも、その手が伸ばされたのである。頼興は、自身の弟
そして、一族で最後に残ったのが、
人吉城の義滋より遣わされた使者の一団が着いたと聞いて、犬童美作は覚悟をきめた。美作自身は長定の造反には一貫して批判的であり、一族の長である長広からは距離を置き続けてきた。
しかし、己の身が
――こうなれば、せめて見苦しいまねだけはすまい。
それだけが、美作が最後に見せられる意地だった。
使者より示された義滋の下知は、やはり美作に死を賜るというものだった。全ての書状に主君と並んで連署する上村頼興の名が、こういうときだけ記されていないことに興を覚えながら、美作は
城主の自刃を見届けた正副二人の使者に、座をはずしていた下僚が近づいた。
「
下僚は、使者二人だけに聞こえる小声で
「館に居るはずではないのか」
「探させはしておりますが……」
「誰ぞ連れ出して逃がしたか」
「厳しく見張っておりますれば、城の外へ逃れ出たとも思えませぬ」
使者につけられた仰々しいほどの従者の数は、そのために用意されたものだった。
「まあ、よい。たとえ城外に出られたとしても、そうときを掛けずに捕まるはず」
使者は、互いに頷き合った。それなりの威勢を誇っていた犬童匡政も重良も、結局は逃亡の途中で捕まっている。こたびの相手は、
しかし、城の中から熊徳丸は見つからず、何日経っても捕らえたとの報せも入ってはこなかった。この件は上村頼興まで報告が上がったが、内心いくばくかの後ろめたさを感じていたのか、頼興はただ聞き流した。
犬童美作が生害した木枝の城下では、
(二)
次に上村頼興が採った手立ては、主君義滋と周辺の有力氏族との間で婚姻関係を結び、弱体化した相良のお家と領地を外側から補強することだった。頼興にとって都合のよいことに、これより
義滋は夫人と立て続けに、ただ一人もうけていた男子も亡くしているから、たまたま時期が重なっただけではなかったのかもしれない。
頼興が義滋の
名和氏は、鎌倉時代末期に
名和の
――見も知らぬ土地の、これまで会ったこともない人々の中で暮らす。
それが当たり前の時代であっても、やはり自分のこととなれば先々のことを考えずにはおられなかった。
ふと、犬の啼き声がするのに気づいた。甲高い声は、まだ生まれて間もない仔犬であろう。見るともなく眺めていた海から視線を回すと、自分が立つのと同じ斜面の二十間(約三十五メートル)ばかり先に、犬を遊ばせる僧侶の姿があった。
僧侶が軽く投じた小枝が石に当たって不規則に跳ね、横方向に飛んだ。それを追って駆けてきた犬は、何を思ったか小枝を通り過ぎて姫の足元まで寄ってきて歩みをとめた。姫が屈み込んでも逃げようとしない。
自分の顔を見上げる仔犬を、姫は抱え上げた。おとなしくされるがままになっていた犬は、寄せられた姫の顔をぺろぺろと舐めはじめた。姫はくすぐったさに無邪気な笑い声を上げる。
「粗相を致させましたな」
脇から穏やかな声が掛かった。犬を遊ばせていた僧侶である。
「可愛い仔犬にござりますな」
姫は、そう言って笑顔を向けた。
「名和の姫君が、このようなところで何をなされておられましたか」
僧が視線をはずして、静かに聞いた。領内とはいえ城の外、本来であれば
「まもなく
姫は、素直に相手の問いに答えていた。
「行ったこともない土地の見も知らぬ相手に嫁がれるのは、ご不安か」
姫は、答えられずに手の中の仔犬をあやした。
「それが当然の心持ちでござりましょうな。姫様、相良義滋公は、お優しいお方にござります」
「義滋様をご存知か」
こちらを見て問い掛ける姫に、今度は僧侶のほうが返事を口にしなかった。
僧侶は、海にやっていた視線を姫へと向け直した。
「このような卑しき雲水にござりまするが、姫様、ご婚礼の祝いをさせてはくださりませぬか」
姫は、仔犬を片手に抱いたまま、相手の差し出したものを素直に受け取った。
二寸四方ほどの、小さな袋であった。目の詰んだ
「香にござりまするか」
姫が、僧侶に笑顔を向けた。
「香木ではなく
由利姫は、相手が何を指して言っているかが判らずにその顔を見つめた。僧侶は、穏やかな眼差しのまま言葉を続ける。
「本当にお困りになったときに、それをわずかに削って
そう言うと、立ち上がって姫の腕から仔犬を受け取った。
「お幸せを願っておりまする」
笠に手を当てて黙礼し、背を向けると坂道を下っていく。姫は、その背中を黙って見送った。
「姫様。そろそろお城にお戻りになりませぬと」
振り向くと、お付きの女房が声をかけてきたところであった。後ろに衛士も控えている。その二人を見て、僧侶が何の警戒もされず、姫に近づくままにされていたのが奇妙なことであったのにようやく気づいた。
僧侶が歩み去ったほうへ目を向け直すと、ゆっくりと歩いていたはずの男の姿はもうどこにもなかった。なだらかな坂は大きな木立もなく、はるか彼方の森のほうまで見渡せるのに、ここに立つ三人以外に人影はない。
――白昼に見た夢か。
そのような気さえしたが、己の手の中にはあの僧侶から手渡された小さな袋が、しっかりと握られていた。
義滋と名和の由利姫との婚姻の席で、頼興は花嫁の容色に目を
花嫁の新居は、なぜか人吉の城内には置かれずに、やや離れた球磨川沿いの別邸とされた。頼興の弟、長種の屋敷のすぐ隣である。由利姫が輿入れする前にすでに用意がなされていたのであるが、すると頼興は、姫の美貌をいつ、どのようにして知ったのであろうか。それより後は、弟の家に
翌年、義滋の新夫人となった由利姫改めお
(三)
上村頼興は、
自らが行ったことを振り返れば、国に戻ればどうなるか、長定が予測をしていなかったとは思えない。
事実、長定は帰郷するにあたり、第一子は残して第二子だけを連れて帰っている。それでも戻ったのは、このまま筑後にいても先の見通しが全く立たなかったからであろう。国衆に完全に見離された、領主に成り損なった謀叛人など、どこの国へ行っても持て余されるだけだったのだ。
長定は、球磨に入り
縄を打たれ、寺内の空き地へと引き据えられた長定は、見届けに赴いた頼興を
「これは上村頼興殿。わざわざ御自らお出張りめされたか」
「背いたとはいえ主家の御一族。この老骨ぐらいは顔を出すのが礼儀かと存じましてな」
頼興は、死を覚悟した囚われ人の迫力にも何ら動ずることなく応じた。後ろ手に縛られた男が失笑する。
「何がおかしいか」
「主家の一族にこの扱いか。お主が内心、義滋がことをどう思うておるか、よう判ろうというもの」
「同じ一族とはいえ、謀叛人とご主君を並べて論ずるつもりはござらぬよ」
長定がきっと目を据えた。
「頼興。虚言を弄して人を誘い出し、命を奪うような者がどのような末路を辿るか、しかと見ておけ。我は先に
長定の口にした等活地獄とは、八大地獄の中で
頼興は無言で顎を振り、役人に合図した。後ろから肩を
「頼興、待っておるぞ」
その言葉の終わらぬうちに、処刑人の刀が振り下ろされた。隣では、まだ幼い子供、長定が伴った次男に対して同じ光景が繰り広げられる。
国の重鎮となった老将頼興は、罪人の首が晒されるところまでは見届けることなく、その場を後にした。長定に手を下すことには、何のためらいも感じはしなかった。それに、誘引して殺させた手紙に記されていたのは、義滋の署名である。
――今日も弟の屋敷に泊まるか。
このごろとみに気力の充実を覚える頼興は、何だか以前より若返ったような気さえしていた。
筑後に残された長定の嫡男、
上村頼興の外戚による球磨強化策はなおも続いていた。頼興は、義滋のもう一人の娘と
菊池氏は鎌倉以来の家柄を誇る九州の古豪で、室町後期には
しかし、実際の婚儀が行われる前に重朝が急死し、隈府は重臣どもが相争う内乱状態となった。頼興は主君の娘の縁組を破談にし、菊池家への介入を決意する。
菊池氏を己の管理下に置くことができれば、守護職を通じて肥後全土に号令を掛け得る立場になるのだ。その実現のために、人吉より肥後中央部に近い八代の
八代は相良中興の英主
相良の本拠地の移動と、それに伴う相良軍主力の北への移動は、隣接する名和家に疑心を抱かせた。ときを合わせたように宇土の境界近くで起こった土一揆の騒動が八代まで波及し、相良と名和の両家の間に不和が生じた。
この結果、義滋に嫁いでいたお由利の方が、実家へ戻されることとなった。頼興は、妻に執着をみせることなくあっさりと離縁を決めている。義滋夫人のお由利の方は、八代へ移って以降暮らしていた別邸から、やっと夫と同じ鷹峰の城の中に住まいを得たところであった。
頼興は、もう飽いたということであったろうか、それとも歳相応に、やっと女は無用の体になったということであったろうか。
なお、離縁によってお由利の方が産んだ子は萬満丸ただ一人となった。義滋はこれ以外にも側室に何人か子を産ませているが、成人するまでに育ったのは全て女子だけだった。
頼興が背後で何らかの工作を為したかどうかは不明だが、義滋の側室が男児を産んだと聞いた日の頼興は、いつも不機嫌であったという。
それはともかく、菊池氏の本拠、隈府への出兵は、先方が混乱している中、容易に成果を得られるものと考えられていた。しかし、関係が悪化した名和氏への対処を怠ることもできない。
頼興は自身の老齢を理由に、遠征となる隈府攻撃軍を義滋直卒とし、自らは名和武顕に備えて守りを固めるという策を呈した。頼興の後ろ盾がなければ何の力も持たない義滋には、十分と思われる兵力を与えられた以上、異論を差し挟む余地はなかった。
「義滋公が隈府へご出陣なさることに決まった」
鷹峰城の縄張り内に築かれた館の仏間で、上村頼興が仏壇の位牌と向き合い
「それは
背後から、女の声が応える。身にまとった僧服に似合わぬ、槃妙尼のぬめりを帯びた声であった。
「義滋公は、どうなる……」
「
頼興がさっと振り向いた。
「お主の辻占ではどう出ておるか訊いておるのだ」
「……臆されましたか」
その問いに、頼興は答えなかった。
「勝てると思うたからこそ、お城の皆様方は出兵に賛同なされたはず。ただ、戦は生き物。闘こうてみなければ、どう転ぶかは判らぬものにござりましょうな。
殿様。義滋様に万が一のことがあったとしても、次の備えはもうあるではありませぬか――お世継ぎ様はおられる。そして、お世継ぎ様が自ら
そのお世継ぎ様も、殿様が実の孫のように、いや、年老いてから出来た実のお子のように、目に入れても痛くないほど可愛がられているお方。どのようになったとて、何の障りがござりましょうか……」
いつの間にかすぐそばまで擦り寄っていた尼僧が、頼興の耳元で囁いた。相良の相国である頼興は、焦点の定まらぬ目で虚空の何かを見つめている。その相貌に老残の翳が忍び寄っているのを、槃妙尼は
(四)
義滋率いる球磨の軍勢は、阿蘇の山岳地帯を経由して菊池氏の本拠である隈府へと向かった。あえて
阿蘇氏とは、義滋の長女を嫁入させたことで、以前からの友好関係を更に深めていた。阿蘇惟前は義滋軍の領内通過を黙認しただけではなく、秘かに重臣を道案内としてつけてくれた。
案内についた
しかし、阿蘇氏の家臣団も一枚岩というわけではなかった。家臣同士の権力争いもあり、また血縁的、地勢的な面から相良に近しい者もいれば、菊池に親近感を抱く者もいる。相良義滋の菊池への進攻は、軍が進発する前に、親菊池派によってすでに隈府へと通報されていたのだった。
その菊池家では、当主重朝の
隈部にしても、家中で幅を利かす新興勢力排除のために兵を動かしはしたが、領主嫡男の家督相続自体には異を唱えてはいなかった。重朝の後を継いで菊池家当主となった
山間部を抜けようやく平地へ出ようとした相良軍の前には、堂々と布陣を終えた菊池能運の軍勢が展開していたのである。
「これは……」
物見の注進を受けて馬を前に進めた義滋は己の目を疑った。阿蘇の冬は霧の日が多い。今日は昼過ぎまで視界を
「察知されていたのか……」
義滋は呆然とするばかりであった。近臣の
「殿。すでに尻が割れてござる。奇襲は為りませなんだ。ここは一旦、
その声を聞いて、思考停止に陥っていた義滋は我に返った。
――下がると言うか。しかしただ下がっても、見逃してはくれまい。必ず付け入られて、損害は確実に出る。
――
頭の中を巡る思いは顔に出さず、義滋は周囲に控える兵どもに問うた。
「物見、敵の数は」
「ざっと五、六百かと見えまする」
ならば、一千を率いてきたこちらのほうが優位にある。
「丸目、陣触れじゃ。中原に押し出し、兵を
丸目は主君の顔を見たが、何も言わずに後ろを振り返り、兵への下知を飛ばし始めた。義滋はその場に留まり、敵が静かに前進を始めるのを唇を噛み締めながら見つめていた。
相良軍は、今宵の夜営で戦支度を整え、明日からの戦闘に備えるつもりであった。老練な将ならば敵の領地に入る前に戦闘準備を整えさせていたのかもしれないが、義滋は移動の迅速さを優先した。
そのため、まだ長征用の旅装のままで、
相良軍の将兵が
菊池の兵は、右手に槍を突き出し左手に楯を抱えて、ゆるい弧状の横列で先頭を形成している。後ろの兵も、前の兵の脇から槍を斜め前へ突き出して、前列の兵や自分の抱える楯の陰に隠れたまま進んできた。そうした横隊を何層にも密集させた態勢が、菊池の突撃陣形であった。
菊池の先鋒は、相良軍の両翼からの攻撃には楯での守備を
鶴翼の胴体部分に突き刺さるように、相良の中軍へ向かって菊池の先陣が揉み込んでいく。
相良軍は両翼を展開させ切らなかったがために側面攻撃が十分機能せず、敵の突進力を削げぬままでいたが、反面、翼を広げきれず中央に残る兵が多かった分、中軍の義滋に行き着くまでの厚みが増していた。
しかしそれも、少し長くときを稼いだだけに過ぎない。菊池の
「殿。ここはこれまでじゃ。もはや陣がもちませぬ。すぐにお下がりくだされ」
丸目頼見が前線から馬を返してきて叫んだ。それでも、義滋は敵が突き進んで来る有り様から目が離せずにいた。
「これが、菊池
南北朝の戦乱期、菊池の軍勢は遠くは関東まで遠征して、六万対八千などといった劣勢で戦った末、
世に名高い、『菊池千本槍』がこれである。
時が流れるにつれ、さすがの高名な戦法にも様々な対抗策が採られるようになるとともに、新戦術や鉄砲をはじめとする新兵器の登場などもあり、菊池千本槍もかつてほどの威力はなくなった。しかしながら、この日の相良軍との戦闘はまさに、菊池軍が二百年のときをかけて
相良軍は、山中行軍という策を採用したため、
「殿、何をしておられる」
馬上から、再び丸目頼見が叫んだ。
義滋は改めて周囲の状況を見回した。丸目の言うとおりに本陣がただ下がれば、今踏み止まって戦っている兵も逃げ始め、自軍は完全に崩壊するであろう。
壊走の中で菊池軍の追撃を受ければ、相良軍は全滅する。菊池領を抜け出る前に、この首も
しかし、下がる以外の方策が見つからない。
――いっそ敵陣に突っ込むか。
周囲の
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