第3話 第一部 義滋 第二章 兄弟相克

          (一)


「国を奪っただけでは飽き足らず、長祇ながまさ公の命まで縮めたと申すかっ」

 瑞堅ずいけんは立ち上がったままえた。手には、先ほどまで目を通していた手紙が握り潰されている。その手は、怒りに震えていた。

 使者が携えてきた手紙は、前領主相良長祇の死を伝えるものだった。同族の簒奪者さんだつしゃ相良長定の甘言に誘引されて水俣みなまたへ移った長祇に対し、津奈木つなぎの地頭犬童いぬどう匡政くにまさ弑逆しいぎゃくの兵を向けた。

 長祇は匡政の手勢による襲撃を直前に察知して水俣城から何とか脱出はしたものの、山に逃げ込んだところで進退きわまった。「こたびは決して逃すな。必ず討ち取れ」と長定から強く命ぜられていた匡政は、城攻めよりも脱出路の完全封鎖を優先していたのだ。

 長祇は、己の甘さを悔やみながら山中で自害した。まだ二十歳そこそこの若さであった。長祇の首を得た長定は、これを人吉城下の梅花筒口こうげつつぐちにある法壽寺ほうじゅじほうむったという。

 体の中でたぎる熱いものを、瑞堅は抑えきれなくなっていた。生まれ落ちてよりこの方、ずっと押し殺し続けてきて、どうやら飼い慣らせそうだとようやく目途めどがついたつもりでいたのに、こたびの一件をの当たりにして、どうしようもなくなっている。

 後ろに控える竜然りょうねんを、睨みつけるように振り返った。

くぞ」

人吉ひとよしにござりまするか」

 仕える主とは対照的な、静かな声だった。

「止めても無駄ぞ」

 昂奮こうふんのままに言葉を続けた瑞堅は、笑ったような相手の気配に目を向け直した。

「何でそのような。我は、この日のためにお仕えしてきたようなものにござる」

 こちらを見上げる目は、全く揺らいでいなかった。出自として耳にしていたとおり、今、口から放たれたのは武家の覚悟そのものだった。


 長定の命に従い帰郷してからの犬童長広は、挙兵直後とは違う、元の長広だった。継嗣の九介を喪って以降の淡々とした暮らしが、二見ふたみ地頭館じとうやかたに戻った。

 ただ、周囲の目には、人吉から戻った長広が、出陣前よりめっきり老け込んだように見えていた。

 長広は、手紙を握りしめ、館の仏間で独り端座していた。手にしているのは新領主長定の側近より送られた、前主死亡のしらせであった。今後の引き立てについて希望を持たせるようなことも書かれていたが、長広の目には入っていない。

 ――己はいったい、何をしでかしたのか。

 長広は、ここ半年ほどの自分の行いを改めて思い返した。なぜにこのようなまねをしたのか、自分で自分の行動に説明がつけられない。

 長広は、ただ茫然としていた。まるで、何者かに心を乗っ取られていたかのようだった。

 仏壇を前にしてじっと俯いたままの長広は、頑是無がんぜない子供のように細かく体を震わせていた。


 人吉へ赴いた瑞堅は、旧知の僧が営む立興寺りゅうこうじに入った。とはいえ、何らかの目算あっての行動ではない。体の内側より溢れ出るものが、ただ若い僧侶を突き動かしているだけだった。

 立興寺の住職亮海りょうかいに手厚く迎えられた瑞堅は、ここでようやく周囲の情勢を見渡す余裕をもった。人吉城に居座り家督を僭称せんしょうする相良長定は、不気味な沈黙を守っている。

 前領主長祇ながまさを謀殺した上で、さらにその異母兄まで手に掛けたのでは、さすがに豪族どもの反発を招きかねないと懸念しているのであろう。その上、「たかが坊主一人、何ごとかあらん」とあなどっているとも思われる。

 一方、領内の国衆くにしゅう地侍じざむらい衆などにも、表立った動きはほとんど見られない。それは、瑞堅の実の兄、相良義滋よししげについても同様だった。瑞堅は、反逆者の長定に怒りを向けるとともに、ことここに至っても、いまだ事態の是正に動き出さぬ家中の武士たちへの苛立ちを募らせていた。

 我慢しきれなくなった瑞堅は、仮の宿に選んだ寺の住職である亮海を呼んだ。使僧しそうを命ずるためである。

「お城への使いでございますか」

 亮海は、驚きに目を見開きながら問うた。対する瑞堅は平然としている。

「そうじゃ。ここにしたためたとおり、長定へ『人吉城より退去せよとわしが申しておる』と、伝えればよい」

「長定公にお城を出よということは、御家督も返上せよと求められていることになりませぬか」

「当然じゃ」

 返事を聞いた亮海は、言葉もなく俯いた。

「案ずるな。儂がこの寺へ入っても何も仕掛けてこなんだ長定が、使いでしかないお主を害するようなことはない」

「は……」

 肝の据わらぬ相手の様子に、瑞堅が気を変えた。

「よい。使僧の話は無しじゃ。下がってよいぞ」

 ほっとした顔の亮海とは対照的に、脇に控えていた竜然が眉根を寄せた。

「されば、どうなされます」

 瑞堅は、何の気負いもなく立ち上がった。

「儂が行く。直接話したほうが、長定の存念を確かめられてよいわ」

「瑞堅様、さすがにそれは――」

 竜然の制止は、亮海が上げた悲鳴のような声に遮られた。

「行きまする。愚僧ぐそうが使いをさせていただきまする」

 何とか危難は免れたはずだったが、長定の兵で満ちている城へ単身瑞堅をやるようなことになっては、たとえご無事で生還なされたとしても、その後に己の身の置き所はなくなる。由緒ある寺の住職なれば、逃れられぬ定めと悟ってのことだった。

 瑞堅は、亮海に対し重ねて命を撤回すると言ったのだが、いったん自ら申し出た亮海は、もう聞く耳を持たなかった。何としても自分が行くと言ってきかない。完全に、目が据わっていた。

 扱いに困った瑞堅は、危ぶみながらも出してやらざるを得なくなった。

 長定への手紙を手に、雲を踏むような妙な足取りで出ていく亮海と入れ違いで、荒法師あらほうし姿の大男が瑞堅の前まで伺候しこうしてきた。

 瑞堅がこの寺へ入ってより、噂を聞いた僧兵や修験者がぞくぞくと集まっていた。男はいち早く参集した中の一人で、観林寺かんりんじ宜範ぎはんという、刀争とうそうで名を売った人斬り坊主であった。

「瑞堅様。皆の前に少し顔を出してはいただけませぬか」

 主の代わりに、竜然が「何じゃ」と問う。

「瑞堅様を慕って僧兵どもが続々と集まっておりまする。ここいらで一つお言葉などを掛けていただきますれば、我らとしてもまとめやすくなりますでな」

 今度は瑞堅自身が口を開いた。

「いかほど集まった」

 新参者しんざんもののまとめ役を自ら買って出た宜範は胸を張る。

「ざっと、二百。おそらくは、それを超えておりましょう」

「何と、そこまで増えたか……」

 以前より仕える竜然は眉をひそめた。次々と参集する者があることは認識していたつもりだったが、多くて七、八十ぐらいだろうと高をくくっていた。ろくに気に掛けずにいるうちに、どこかで拍車が掛かっていたのだ。

 しかしあまりに数が増え、不穏な気配が自然とかもし出されるようなことになれば、長定の危機感をあおって攻撃に踏み切らせるきっかけとなりかねない。主に向かっていた。

「少し、散じまするか」

 瑞堅は、ほとんど考えることもなく答えた。

「荒法師どもは、まだまだ集まってこよう。されば、少しばかり散じてもどうにもなるまい。それに、追い出した者どもは人吉の町中にたむろして、民を騒がせることになるだけじゃ。

 竜然、使僧で出た亮海を呼び戻せ。宜範、集まった者どもに隊伍たいごを組ませよ。用意ができたところで、顔を出そう」

「瑞堅様……」

 意図を確かめるために呼び掛けた竜然に、瑞堅は決然と答えた。

「城を攻めて長定を追い出す。支度が調い次第、出るぞ」

「応っ」

 闘争に生きてきた宜範が、喜び勇んで表へ向かった。

 竜然は主の決意をしっかり目に留めると、静かに腰を上げた。

 瞑目する瑞堅だけが、そのまま独り残った。考えごとをしているようにも、何かに耐えようとしているようにも見える姿であった。


          (二)


 現在の状況は、長定にとってはなはだ不本意なものだった。前領主が亡き者となれば、領内の不満分子も自分を認めざるを得なくなるだろうという目論見もくろみが、完全にはずれたからだ。

 これまで国衆の間には、新領主に反旗をひるがえして兵を集めるといったあからさまな動きは見られない一方、長定の威勢に心から服している者も多くはなかった。長定に反発を覚えている者らの視線の先にあるのは、前領主長祇ながまさの異母兄弟たちであろうというのは、誰でも予測がつく。

 しかしながら、領主の長子の嫡流ちゃくりゅうであるという己の血の正当性を確信する長定にとって、次子から国主についた系統の、しかも庶子でしかない者たちに、己よりも人望が集まる現在の情勢は、予想だにしない不可解事だった。

 苛立ちと腹立たしさに妨げられながらも、ようやく眠りに就けたと思ったときには、城の外の騒がしさで目がめた。寝具から身を起こし、外の喧噪けんそうが夢などではないとはっきり悟ったところへ、ようやく小姓が駆け込んできた。

「殿っ」

「敵襲かっ。かほどに素早く義滋が動いたと申すか」

 敵対者となり得る二人の兄弟のうち、長定が特に警戒したのは義滋のほうだった。兄のほう、しかも武家で在り続けるほうを注視するのは当然であったし、実際、長定に叛意はんいを抱く国人どもの大方は、義滋に期待を寄せていたからだ。

 ――物見はもとより、間者も放っていたのに、かほど近くに寄せられるまで気づかぬとは、何たる不覚!

 長定は、己の家臣の不甲斐ふがいなさに怒りを覚えていた。が、小姓の注進を聞いて耳を疑うことになる。

「いえ、城に攻め入りたるは、瑞堅率いる僧兵どもにござります」

「何っ、たかが百や百五十ほどで攻め込んできたと?」

 長定は、義滋ほどせはないにせよ、瑞堅にも見張りの目はつけている。

「それが、先ほど報告を受けてよりもまだ人数は増えていたようで、総勢で二百は超えているかと思われまする――急ぎお着替えを。ときがありませぬ」

 小姓の声は切迫していたが、長定は落ち着きを取り戻していた。

「何を浮き足立っておる。相手は、たかが坊主であろう。こちらの守りは、寡兵かへいでこの城を抜いたほどの精鋭ぞ。相手が二百どころか五百でも、一兵たりとも中へは踏み込ませぬであろうよ」

 小姓は、「長定様っ」と悲鳴のような声を上げた。

「残念ながら、僧兵どもは追手門おうてもんを破り、すでに曲輪くるわに取り付かんとしているところにござります。急ぎませぬと、退ぐちまで塞がれてしまいまする。さあ、すぐにお支度を」

「そんな馬鹿な。この城を守るは、二見ふたみの強兵ぞ」

 容易に信じようとしない長定へ、小姓は強い口調で言った。まるで、長定の見込み違いをなじるように聞こえぬでもなかった。

「その二見の兵を率いておった犬童長広は、殿の命で幾月も前にここより退去しております。主に置き去りにされ、いつ郷里に戻れるとの希望も持たぬ兵では、踏ん張りが利かぬのも当然だったのでございましょう」

 ――兵に、里心さとごころがついておったと……。

 思いもしなかったことを告げられて、長定は茫然とするばかりだった。長定は、かつて己が前領主を追い落としたのとまるで同じ姿を見せつつ、いずこかへ落ち延びていくこととなった。

 主のいなくなった人吉の城には、瑞堅が堂々の入城を果たした。


 瑞堅の実の兄、相良義滋は、車座の座る面々を見渡した。いずれも球磨くま人吉ひとよし国人衆こくじんしゅうで、それぞれの郷を代表するような有力者も少なからず含まれている。

 今、その中の一人が、発言している最中であったが、内容は人吉城から逃亡した長定の現在の動向についてであった。

「西方へ逃げた長定は、八代やつしろまで至ったところで勢力の建て直しに転じたようにござる」

「では、反攻も近いと?」

 別な一人に問われた最初の発言者は首を振った。

「いや、八代の衆とて、これまでのあの男のやり口を見ておる。容易に服するものではない」

「ではまだ、ときはあるな」

「むしろ気に掛けるべきは、瑞堅殿がこのまま人吉城を押さえ続け、国主としての地位を固めてしまうことであろう」

 また別な一人が、そう口を挟んだ。

 話をしながら、国人衆の視線はちらちらと義滋のほうへ向けられている。が、義滋は唇を引き結んだまま、ずっと瞑目めいもくしていた。

 国衆どもがなぜ己の館に集まり、このような話をしているのかは、義滋も十分承知している。彼らの目的は、義滋に決起を促し、激変が続く人吉の情勢に新領主として対処してもらうことにあるのだ。

 ところが、己を担ぎ出そうとする者ら大勢に囲まれつつも、当の義滋の態度は煮えきらない。もともと義滋には、相良の当主になろうという野心はなかった。

 長定が長祇ながまさ公を追い、挙げ句に殺したことについて、いきどおりは強く感じたものの、かといって自分が長定に取って代わろうという気概を持っているわけではなかった。弟が僧の身でありながら反逆者を追い出したことに、義滋はむしろ内心で快哉かいさいを叫んでいたのである。その気分のうちのいくばくかは、己の代わりに弟が義挙を為し遂げてくれたことへの安堵があった。

 ――ここにいる者どもは、その弟と俺が対峙たいじすることを望んでいる。兄弟相争い、血を流し合うことにもなりかねない状況に、俺を追いやろうとしているのだ。

 胸のうちは、嫌悪感で一杯だった。できることなら座を蹴って、出ていきたいところだ――しかし、嫌だとはっきり拒めない自分がいる。

 ――それは、なぜか。相良の当主や領主の地位など、俺は全く望んでいないはずなのに……。

 義滋は目を開けると、己のすぐそばへ座す上村うえむら頼興よりおきへ視線をやった。

 上村家は、もとを辿たどれば相良から分かれた親戚筋である。一統を束ねる長老格として、頼興はこの場を囲む面々の中でも重きをなしていた。

「義滋様。瑞堅様と相争うようなことになりかねぬのを避けたいとのお気持ちは、それがしも重々承知にござる。弟君を思われる慈愛のお心持ち、ほとほと感服つかまつる。しかし、それではこの球磨が立ち行きませぬ」

 義滋は、無言で頼興を見返した。口には出さなくとも、「何がいかぬのか」との思いが表情に表われている。頼興は、年経た顔に老獪ろうかいさを滲ませて言葉を続けた。

「このままいけば、瑞堅様が国を治めることになりましょう。しかし、それは逆順。兄上である義滋様を差しいて瑞堅様が国主に立たれれば、それは長定が長祇公をしいして国を奪ったのと変わらぬ様相となり申す」

 弟へのざまな言いように、ついに義滋は声を荒らげた。

「謀叛人を追って国を救った弟が、なぜにその謀叛人と同じと言うか」

 頼興は、義滋の激情を目の当たりにしても平然としていた。

「弟君のなされたことが、謀叛人に同じと言うたわけではござりませぬ。それがしが申しておるのは、兄をないがしろにして弟のほうが立ち、はたして国が立ち行くのかということにござる。それで国人衆が服せずば、その有りようは長定のまつりごとと何ら変わらぬこととなりましょうが。

ここに集まった者どもの顔を見れば、皆が誰を主に望んでいるかはお判りになり申そう。義滋様は、長定の逆順に怒って政を正さんと願う国人衆の思いを、筋違いだとお考えになられるか」

 義滋は口をへの字に曲げた。次の領主候補を追い込んだ頼興は、ここで口調を穏やかにした。

「瑞堅様をそのようなお立場に立たせてしまうかどうかは、あなた様次第。義滋様、弟君を長定同様の国賊となすかどうかは、あなた様がお決めなさることにござりまするぞ」

「儂に、弟を除いて立てと言うか」

「あなた様がお立ちにならねば、国の乱れはただされませぬ。英主長毎ながつね公のお血筋でありながら、国が乱れるを放置なされますのか」

 義滋は押し黙った。頼興も、今度はしばらく口を閉ざしたまま相手に考えさせている。ようやく、義滋が口を開いた。

「判った。但し、瑞堅には書を致して説得するぞ。国を思うて立ち上がったあれを、害しとうはない」

 その言葉に、頼興はただ平伏した。義滋さえその気になってくれれば、あとはどうとでもできる。下げた頭の陰で、頼興は主に見せなかった満ち足りた表情を浮かべていた。


「この城を出よと申すか」

 瑞堅が、目の前の相手を冷たく見据えた。対面した老僧は、新たな城の主のところへ、その兄からの書を携えてきていた。

 同じ仏門にある身こそ適任として、義滋から遣わされた老僧だった。修業を始めたばかりのころの瑞堅を知る老いた使僧は、動ずる様子もなく、平然と同門の後輩を見返している。

「それが道理にござりましょう」

 領主一族の血縁である瑞堅に対し、言葉遣いは丁寧だった。

「道理か。兄が動いてさえおれば、儂は今、こんなところには居らなんだはず。誰も動こうとはしないゆえ、このような仕儀になったのじゃ。

まるで、危ないことは全てこちらにやらせておいて、治まったのを見届けてから、いいところだけ横取りしようと言うておられるようにも聞こえるがの」

「瑞堅様、なればどうなされる」

 反問する相手を、瑞堅は黙したまま見返した。使僧が言葉を続けた。

「あなた様がここに残られたとして、この後どうなされるおつもりか。この人吉城は、相良家が球磨、八代、葦北あしきたの三郡を治めるためのお城。瑞堅様は、還俗げんぞくしてご領主となられるか」

「それも良いかもしれぬ」

 瑞堅はうそぶいた。流れに任せて城を奪ってはみたものの、これからのことなど全く考えてはいなかった。兄の使いを迎えた今も、特段の考えはないままだ。

 ――兄に任せるのが一番よかろう。

 本心では、そう思っている。しかし、こうなってみて初めて、そう言い出すことを躊躇ためらわせる危惧が、心の隅に芽生えていた。

 ――果たしてあの兄が、この国をうまく治めていけるのか。

 その思いである。兄をおとしめるような話を決して口に出すことなどできないが、もし自分の危惧が現実となったときの民の苦難、そして兄の絶望を、瑞堅は憂えていた。

相手の応答を耳にしてなお、使いの老僧は淡々としていた。瑞堅の人となりは、幼い頃より十分に知っている。

「この城に向かう途中、町の様子がいろいろと目に入りました。町衆は皆、戦々恐々としております」

「しばらく騒乱が続いたからの」

 ――それを俺が静めた。

 まだ若さの残る新たな城の主瑞堅は、満足を覚えつつ言った。

「町衆にとっては、まだ騒乱は終わってはおりませぬ」

 意味が判らずに使いを見直す。

「城の騒ぎの後、何の手立てもなく放って置かれておるために、押し込み、狼藉ろうぜき、強盗なぞが頻発ひんぱつしております」

「なれば、すぐに取り締まりの者を出そう」

 使僧はすぐに反論した。

「誰を、でござりまするか。乱暴者の中の多くは、この城を取ったことでおごたかぶった僧兵どもにござりまするぞ」

軍律ぐんりつを厳しゅうする」

 瑞堅が苦々しげに言った。そうした細々としたところまでは、正直、目が行き届いていなかった。

 ところが、使僧の舌鋒ぜっぽうは鋭さを増すばかりだ。

「これまでそうした規律の下に働いてきた者どもでありましょうか。そのようなご下命を行き届かせる仕組みが、今のこの城にござりまするか。

今、あなた様より命が下されたとして、どれだけの間、町衆は耐えねばならぬのでしょうな。拙僧はこの人吉の町のことだけ申しましたが、程度の差こそあれ、三郡ことごとくが同じ有り様でござりましょうぞ。相良のご一族として、思われることはありませぬか」

瑞堅の声に、初めてはっきりと迷いが混じる。

「……どうせよと言う」

拙僧せっそうは、その使いに参りました」

 当主の庶子として、武家を諦め仏門に入った瑞堅は口を閉ざした。先達せんだつにあたる老人は、ゆっくりと言葉を続けた。

「瑞堅様。周りにおられる方々をよく御覧なされ。逆賊を追い出すには頼もしき者ばかりでも、あなた様の手足となって、領内を治めていく力がありましょうか。

 領内の国人衆、地侍衆は皆、兄上様が下知を出されるのを待っておられる。瑞堅様は、それを押し切って、この球磨をまとめるお覚悟をお持ちであられるか」

 長定追放の功労者である瑞堅は、長い間沈思した。向き合う老僧は、今度は相手が自分で結論を出すまで待ち続けた。

 ついに、瑞堅が顔を上げた。それまでの気の張りを失ったような自信のない表情だった。

「我が為したることは、誤りだったのか」

「そのようなことはござりませぬ。瑞堅様は、長定の逆順を正された。しかしながら、このままゆけば、今度はあなた様がその同じ過ちに陥られる。拙僧は、そうならぬように、兄上様のお言葉をお伝えに参りました」

 瑞堅は視線をはずした。新たに芽生えた危惧を、使僧に吐き出す心積もりをつけるためだった。

「儂のことはよい。身を慎み、この後どのような扱いを受けようと、我が為したることの因果なれば、文句は言わぬ」

 城を明け渡して兄を領主と認めてしまえば、騒乱を起こした賊徒ぞくととして処断されることにもなりかねない。源平げんぺいの闘いにおいて源氏に勝ちをもたらした最大の功労者で、かつ棟梁とうりょう源頼朝みなもとのよりともの弟でもある義経よしつね主従の最期を引き合いに出すまでもなかろう。

 義滋の側に立てば、自分の政権に馴染まぬ功名者を排除する理由は、十分過ぎるほどあるのだ。

「なぜそのようなことを仰せになる。義滋様が、あなた様をそのように扱われるとお思いか」

 瑞堅は、相手の楽観には応じずに、心に掛かることを語り続けた。

「我がことはよい。なれど、この儂の檄に応じて立ち上がり、命を懸けた者どもが、功を賞されるどころか成敗されるような目に遭うのは耐えられぬ。御坊は、そうはならぬと言い切れるか」

微かではあるが、初めて内心の動きが老僧の瞳の奥に表われた。

対する瑞堅は、灯明とうみょうとぼしい光の中で、それを見逃した。己の葛藤に心を砕くだけで、精一杯だったのである。

使僧は、表情を改めて口を開いた。

「結局みちは、自ら定めるもの。瑞堅様は仏門に入られて以来、ずっとそのご修行をなされてこられたはず。それしかござりませぬ。あとは……」

「あとは」

「覚悟をして備えることにござりましょうか」

 続きの言葉を待つ相手に、使者はひたりと視線を向けた。

「己のことを考えるか、ともに戦うてくれた同輩を思うか、あるいは三郡の民のことを一番におくか、それでお決めになるよりなかろうと存じまする。

 そして、お決めになった後に残る心配事には、己で出来る限りの備えをして、やってくる事々にのぞむだけ。ひとが為せることなど、ただそれのみにござりましょう」


          (三)


 瑞堅は、周囲の反対を押し切って人吉城より自ら退去した。そのまま己の住持する寺に単身帰る意向を示したが、挙兵に応じた僧兵らの中には、瑞堅を慕って離れようとしない者も多かった。

 この若者は、共に命を懸けた仲間を振り切って、己のことだけに専心できるほどの酷薄さは持ち合わせていない。一人ひとり説得して出来るだけそれぞれの元の寺に帰したが、それでも残った二十人ほどを率き連れて、旧知の落合おちあい加賀守かがのかみが住まう上村永里城うえむらながさとじょうへ入った。

 上村のさとは人吉の東方、上村頼興ら上村一族の本拠地である。瑞堅が永里城に容れられたとの報が流れるやいなや、城につながる街道の要所を頼興の兵が固めた。兵らには、緊迫の気配がある。瑞堅は、城の中からそれを静かに眺めていた。

 ある日瑞堅は、ここまで己と行動を共にしてきた者どもを集めた。脇には城主の落合加賀守もいる。僧兵の頭目である若い瑞堅は、最後まで残った仲間を一渡り見回すと、やおら皆に向かい深々と頭を下げた。

 突然のことに皆がざわめく中、低頭し続ける瑞堅へ落ち着いた声が掛かった。人吉城退去に強く反対した、宜範であった。

「どうなされた。己の甘さに今ごろお気づきになられたか」

 ようやく直った瑞堅も、やはり静かな顔をしていた。

「己が甘い人間なのは元より承知のこと。判っておって皆をここまで付き合わせたことを詫びておる」

「どういう意味にござりまするか」

 頭目を囲む中の一人が、おずおずと口を開いた。

「儂は、一人で元の寺に戻り、処断が下されるなればこの身一つでそれを受けるつもりであった。しかし、どうやら儂一人では不足だとなりかねぬ気配が見えた」

 周囲は黙ったまま若者の顔を見ている。

「あのまま皆が散り散りに別れてしもうたのでは、儂ひとり処断しただけでは飽き足らぬ者どもが、虱潰しらみつぶしに賊徒狩ぞくとがりを始めかねなんだ。ゆえに、申し訳なきことなれど、ここにおる皆に付き合うてもろうた」

「義滋公とは、そのようなお人か……」

 誰かの呟きがすると、瑞堅は声の聞こえたほうへ厳しい目を向けた。

「兄はそのようなお方ではない。が、政とは、独りで全て取り仕切れるものにはあらず」

 瑞堅の脇でそれまで沈黙していた城主の加賀守が、初めて口を開いた。

「特に今は、内を固めるのに必死にならねばならぬとき。重臣どもの手助けは、どのように機嫌をとってでも得る要がござりましょうな」

「重臣――まさか、上村頼興が」

 また誰かが言った。口を開かぬ若者へ、宜範が言う。

「それを承知の上で、わざわざ敵の本拠の真っ只中にあるこの永里城に入られたか。いやいや、まるで俎板まないたの上のこい、そのままじゃな」

 心底あきれた、という言い方だった。

「ゆえに、皆を巻き込んだことをこうして詫びておる」

 瑞堅はもう一度深く頭を下げながら言った。己をくさした宜範の言を、そのまますんなり認めたということだ。

 取り囲む者たちに動揺が走った。挙兵にあたり侍大将さむらいだいしょう格を担った宜範が、瑞堅にもとより仕える竜然へと目を向けた。

 静かに見返した竜然は、宜範が激した表情をしていないことに幾分驚き、そして頼もしく思った。宜範は、微笑を浮かべた相手を無視して再び瑞堅に向き直った。

「それは違いまするぞ。瑞堅様は、我らに元の寺へ帰れと、口を酸っぱくして説かれた。それにがえんぜずにここまでついてきたのは、我らのほうにござる。

 ついてきたは我らが勝手。いわば、因果応報いんがおうほう自業自得じごうじとくにござるな」

 宜範は己らの頭目である瑞堅の表情の変化に、わざと気づかぬふりをして続けた。

「さて、幸いにも挙兵の主だった者はほとんどそろっておる。付き従ってきた小者こものも数名は混じっておろうが、いとまを取らせて、早々に城から出すことじゃ。あの強欲な上村頼興とて、従者の首まで欲しいとは言い出すまいて」

「宜範……」

「これでもうひと暴れできますな。ここまできて神妙にしたのでは、向こうも当てがはずれて、関わりが無うなった者らにまでとばっちりがいきかねませぬからな――皆の者、もうひといくさできるぞ。腕が鳴るのう」

 明るい顔で皆を見渡すと、そう声を張り上げた。


 弟と入れ替わるように人吉城に入った相良義滋は、上村頼興と対面していた。頼興は、上村の郷で兵を整えた後、一旦この城に取って返したところであった。

「頼興、話が違おう。儂は、弟を討つなどということを許した憶えはいっさいないぞ」

「もとよりこの頼興も、そのようなつもりは毛頭ござりませなんだ。しかしそれは、瑞堅様が元の寺にお帰りになり、以前の暮らしにお戻りになると思うておったればこそ。

 僧兵を手許に置いたまま後ろ盾をなす者の城に籠るとなれば、こちらも対応せぬわけには参りませぬ。言わばこれは、瑞堅様ご自身がいた種にござる」

「なれば、また使いを出す。言うて判らぬ弟ではない」

 頼興は、白髪頭しらがあたまを振ってみせた。

「確かに瑞堅様は聡明なお方。なればこそ、義滋様が再びの使いなど出さずとも道理はわきまえておられるはず。にもかかわらず、このような態度をお取りになったことが、あのお方のご本心を表しております。

 仮にこちらからの使いに応じてよろいを脱がれ、お一人で寺に帰られたとしても、それは今の形勢が不利だと悟ったからに過ぎませぬ。ここでおゆるしになっても、弟君は捲土重来けんどちょうらいを期して雌伏しふくされるだけですぞ。いったん事あれば本性をあらわすは必定。今の相良家には、そのような内憂ないゆうを放置しておく余裕はござりませぬ。全てはこの領のため。どうかご決断くださりませ」

 それでも義滋は、かたくなな表情を崩そうとはしない。口を引き結んだまま黙した。老獪な頼興も、さすがに手を焼く様子が見えた。

 重苦しい沈黙に包まれた中、部屋の外にあわただしい気配がおこった。すぐに声が掛かる。

矢岳やたけとりでより急使が参りました」

「通せ」

 主君である義滋に代わって上村頼興が応じた。

ほこりにまみれたままの使者が、開けられた襖のそばまできた。平伏し、報告の声をあげる。

大畑おこばより出した間者が矢岳へ戻りましてござります。その者の報せるところによれば、日向国ひゅうがのくに(現在の宮崎県)真幸院まさきいん北原きたはら兼光かねみつが、兵を集めておる模様」

 球磨人吉のある肥後国ひごのくに(現在の熊本県)は東側で日向国、南では薩摩国さつまのくに(現在の鹿児島県西部)に接するが、日向は肥後が薩摩と接する辺りで大きく西へ張り出している。その一帯を真幸院(現在は宮崎県えびの市、小林市及び高原町)といい、豪族の北原氏が支配する土地であった。

 矢岳も大畑もともに人吉の南方にあたり、国見くにみ山地を挟んで真幸院からは北に位置している。

「すぐにも動きそうか」

 頼興の問う声には、さすがに切迫感が加わっていた。

「いえ、幸いにも気づいたのが早うござりました。兵糧ひょうろうを集めるに手間取っておる様子もござれば、しばらくは余裕があろうかと思われます」

「他には」

「使いを命ぜられたことは、これで全てにござります」

「そうか、大儀じゃった。下がってよいぞ」

 頼興は、使者が退出して再び主の義滋と二人だけになったのを確認してから、義滋のほうへ向き直った。

「今、北原が兵を動かすとすれば、この球磨の混乱に乗じて乱入しようとしているに相違ござりませぬ。義滋様、どうなされます」

 つい先ほど使い番に発した声からは一転して、まるで現在の情勢に危機感を持っていないかのような、のんびりとした問い掛けであった。

 義滋単独では、北原と対抗できるだけの兵力はない。国内の豪族衆が、どれだけ自分について戦ってくれるかの見通しもまだ立ってはいなかった。義滋は、無言で頼興を見返した。

「上村の兵は、瑞堅様のほうの決着がつくまでは動かせませぬぞ。立て籠もっておられるのが我らが郷内の永里城である以上、兵を他へ振り向けることに下の者の同意は得られませぬからな」

 義滋には、口に出せる言葉がなかった。

「義滋様、さあ、どうなされる。北原が動き出してからでは、もうどうにもなりませぬぞ」

 頼興が老いに似合わぬ迫力で主君に詰め寄った。既に勝ちは見えている。

 義滋の肩が落ちた。どうしても、他に手は見つからなかった。


          (四)


 瑞堅はそのとき、金蔵院こんぞういんの本堂に一人座り、瞑目していた。


 家臣団から瑞堅討伐を求められた兄の義滋は、永里城をやくする祇園口ぎおんぐちまで自ら軍を率いてきた。攻め手の先鋒は、上村頼興が老齢をおして願い出る。

 これまで瑞堅を庇ってきた落合加賀守の永里城は、その先鋒の手勢だけであっさりと陥落した。落合は瑞堅の意向を確かめ得た後、義滋を大将として戴く軍に歯向かうつもりはなかったようだ。形ばかり抵抗して、手勢はできるだけ逃がし、自身はあっさりと城と共に滅んでみせた。

 頼興率いる先鋒の軍勢が永里城へ攻め込む前に、瑞堅はすでに城を離れ、金蔵院へと移っていた。己が去ることで、あるいは落合を救けられるかと一縷いちるの望みをかけたのだが、やはり頼興の赦すところとはならなかった。


 建物の内外に響く騒乱の声は、この本堂のなかにも流れ込んでいる。薄くたなびいていた煙の気配が濃くなってきた。パチパチと熱せられた木がはぜる音もする。兵が宜範らの守る山門まで達したと聞いたとき、瑞堅は本堂に火を放つよう命じていた。その火が、よくやく燃え広がってきたようだ。

 敵兵が屋内に侵入したらしい叫び声が聞こえて、瑞堅はおもむろに目を開いた。膝においていた脇差を取り上げ、目の前で半分まで抜く。明かりを受けた刃の光を、瑞堅はものを想う目でしばらく眺めた。

 ――自刃することは容易である。しかしそれは、僧の身にふさわしいことであろうか。火に身を投ずるのがよいのか。あるいは捕まり、首をねられるが正しき身の処し方か。

 わずかに首をかしげたとき、刀身に人の姿が映り込んだのに気づいた。

「竜然か」

 穏やかに問い掛けた声へ、刀身の中の影は応えなかった。刀を納めて振り向いた若者の前にいたのは、思いも寄らぬ人物であった。

「これは、まさかに!」

 若者の背後に佇んでいたのは、しわの中に目も口も埋まってしまったような小柄な僧侶であった。背が曲がり杖をついてはいるが、眼はまるで別の生き物のように活き活きとして鋭い光を放っている。

 老僧は、しばらく瑞堅の顔を見つめた後、ようやく口を開いた。

おの嚮導きょうどうの顔を見忘れたわけではあるまい。瑞堅、久方ぶりじゃのう」

 老僧は、瑞堅が修行のため入山したとき、座主ざすとして阿蘇の最高位に在った僧だった。その後、念仏三昧ねんぶつざんまいの日々を送ると称して全ての役職を降り、言葉通りの質素極まりない日々を送っていると聞いていた。自ら欲して入寂にゅうじゃくされたのではないかとの噂も耳にしたことがあった。

ちなみにこの頃、阿蘇大宮司だいぐうじの阿蘇氏は戦国武将としての展開を図っており、宗教世界からは距離をおいた存在となっていた。阿蘇氏が名称通りの宮司の職に戻るのは、この後の戦乱で肥後北東部の所領を全て失ってからである。

「なぜにこのようなところへ――いやそれより、このようなところにいては危のうござります。手の者を呼びますゆえ、早うご退去を」

 慌てる瑞堅に、老僧は静かに応えた。

「己で入ってきたのじゃ。出ようと思えばいつでも出られる――瑞堅、儂はそなたに会うため、わざわざここまで参ったのじゃ」

「このような破戒僧はかいそうに、わざわざ引導いんどうをお渡しに来てくださりましたのか」

「そなたに会うために来たが、なぜにそうするかは、はっきりとは決められずにおった。しかし、その顔を見て判った。儂がここまで来たは、そなたをここより連れ出すためじゃ」

 突如現われた思いもかけぬ人物からの思いもかけぬ言葉に、厳しい修行を積み重ねたはずの瑞堅が心を乱していた。

「何を仰せられます。我がために、何十、何百の者が命を落としましてござりまする。この身だけがのうのうと生き永らえるわけには参りませぬ」

 老僧の返答は、阿蘇で教えを受けていたころと全く変わりのない落ち着いたものだった。

「瑞堅よ、今のこの有り様が、そなたの望んだ結末であれば、儂はこのようなところまで来てはおらぬ」

「いや、これは我が為したることの果て」

「瑞堅、目を醒ませ。今ここで起きておることは、何か禍々まがまがしき力が因果律いんがりつゆがめた結果じゃ。そなたならば判ろう」

「まさか……いったい何者が。上村頼興にござりましょうか」

「判らぬ。かつて人であったモノ。今はもう人ではない何かじゃ。それ以上は、儂にも見えぬ」

 本堂へ渡る廊下まで、兵のおめく声が迫ってきた。老僧は振り返り、口中で何か呟くと、衣のすそを大きく振った。廊下のほうで、「おう」と兵のたじろぐ声が聞こえた。急に炎が大きくなって、行く手をさえぎったようであった。

「瑞堅、急ぐぞ」

「お待ちくださりませ。やはり、我はここを出るわけには参りませぬ」

 老僧は、頑ななかつての弟子の顔をじっと見た。

「今起こっている一連のことが、相良の一族だけに留まるのであればそれもよかろう。しかし、そなたも口にしたとおり、本来関わりのない者が幾人も巻き込まれておる。放置しておけば、その数はこれからますます増えてゆくことになろうぞ」

「それは……尊師そんしのお力で、折伏しゃくぶくはできませぬのか」

「無理に行えば、あるいはいっときは押さえ込めるやもしれぬ。しかしながら、まだときが満ちておらぬ。今やってしまっても、やがてのモノは必ず復活しよう。そして一旦滅びながらよみがえったときには、もはや誰も抑えられぬほどに力を増してしまうはず。ゆえに、今は手が出せぬ。

 瑞堅、その者が求めておるのは相良の滅亡だと思われるが、お家を滅ぼしてもそれで終わりとはならぬ。復讐の喜びにまみれたその者は、己の心まで滅ぼし、この世の魔王となろう。そうなっては、この大地に文字通りの生き地獄が出現するぞ。我らは、それを止めねばならぬ」

「我にその資格がありましょうや」

「我が命は、ときが満つるまではもたぬ。儂の代わりをなすは、阿蘇数千の僧侶神官の中でもそなたしかおらぬ。これは、相良家のためではない。この国の、もと六十余州のためぞ」

 老僧がふと仏像のほうに目をやった。いつからそこにいたのか、仏像の陰から現われたのは、竜然であった。竜然は老師に深く一礼した後、己の主である瑞堅に向き直った。

不躾ぶしつけながらお話は伺い申した。この場はそれがしにお任せを。瑞堅様は、瑞堅様にしかやれぬことをおやりくだされ」

「竜然……」

 瑞堅に長年仕えてきた竜然は、己の主の前で片膝をつくと、頼もしげに見上げた。

「やはりあなた様は、それがしの見込んだとおりの、いや、それ以上のお方であった」

 竜然は、目に焼き付けるように瑞堅の顔を見続けた。火は本堂のあちこちに燃え移り、もう息をするのもままならぬほどになりかけていた。

「瑞堅様、最後に願いがござる」

「……何じゃ」

 そう聞いた瑞堅の声はかすれていた。竜然の目が瑞堅の手許に落ちる。その口元には、微笑が浮かんでいた。

「お手の脇差を、拙僧にお与えくだされ」


 全てが終わった後、本堂の焼け跡からは、切腹した男の炭化した遺骸が見つかった。義滋はこれを、手厚く葬った。名実ともに新たな相良の当主となりながら、それ以上の何をする力もないことを、義滋はすでに悟っていた。

 球磨の動乱に附け込み乱入してきた日向真幸院の北原兼光の軍勢を、急ぎ取って返した上村頼興が中河原なかがわらで迎え撃った。このとき北原は、八代に逃れていた相良長定と連絡を取り合っていたものと思われる。

 しかし、長定が約束した八代の兵による上村軍への挟撃きょうげきは行われず、義滋には恭順していないと長定から聞かされていた豪族衆の蜂起も起こらなかった。目論見を全て狂わされた北原は、目の前の新たな状況に対応することができず、大敗して真幸院へと逃げ戻った。

 一方、北原への援兵を集めんと躍起になっていた長定だが、逆に己の居城を八代、葦北の国人衆に囲まれるような状況に陥り、這々ほうほうてい筑後ちくご(現在の福岡県南部)へと落ちていった。

 相良が領する三郡は、こうして一応の平和を取り戻した。



 











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