第二章 アイデンティティ

待ち合わせ場所は代官山のカフェ。店内は白を基調とした非日常感溢れる素敵なお店で、このカフェのチーズケーキはテレビでも特集されるほどの人気がある。先に着いた僕は心底興味のない女の到着を待った。


二十分くらい経ってからようやく興味のない女が顔の前で手を合わせながら小走りでやってきた。


「ごめんね? 玲奈ちゃんね、準備に時間かかって遅れちゃったの」


遅刻したやつの常套句。興味のない女に待たされて少しばかり腹が立ったが、僕は気持ちを押し殺して微笑みながら、


「大丈夫、そんなに待ってないよ」


と僕の得意技を披露してみせた。


興味のない女『玲奈』は一人称が自分の名前プラスちゃん付け、という痛い女ランキング上位に食い込みそうなアイデンティティをお持ちだ。本来であれば、全くもって関わりたくないが、強いて彼女と一緒にいることのメリットを挙げるならば、僕は彼女の容姿が好みだ。目はパッチリ二重、肌は雪のように白く透き通り、鼻は高く、歯並びも綺麗だ。容姿に関しては、非の打ち所がない。黙っていれば芸能人のようにも見えるだろう。カフェにいる男の目が彼女に集中しているのがよくわかる。他人より秀でている長所、取り柄がない僕は出そうになる溜め息を堪え、平静を装った。彼女の注文が決まったようなので手を挙げると店員さんがこちらへやってくる。お店の雰囲気を壊さないようにこのようなシステムにしているのだろう。お店の魅力が引き立っている。僕たちはチーズケーキを二つと、僕の分のローズティー、彼女の分のカプチーノを注文した。チーズケーキは直径五センチ程度しかないが、一つで千円以上する。千円あれば、サイゼリアでお腹いっぱい食べるのに……なんて無駄なことを考えるとよくないことが起きる気がしたので僕は考えるのをやめた。


「んんっ!」


彼女が驚嘆の声を上げた。どうやらチーズケーキが美味しかったらしい。


「そんなに美味しかったの?」


「ヤバい!玲奈ちゃんびっくりだよ!」


と興奮冷めやらぬ様子。


彼女のアイデンティティに若干嫌気がさしたが、俄然、チーズケーキへの期待が高まる。


一緒に注文したローズティーは非常に香り高く、まだ飲んでいないのに気分が高まる。チーズケーキについているレモンのジャムをチーズケーキに乗せ、口の中に入れた。


感動した。思わず目を見開き、彼女と目を合わせる。口に入れた途端、程よい甘さとレモンの酸味が口の中にほとばしる。蕩けるように舌の上でなくなるのだ。今まで食べてきたどのチーズケーキよりも美味しかった。僕の感想に同調するように彼女も幸せそうな顔をして二口目を食べている。


しかし、そんな彼女の幸せそうな顔とは裏腹に今日の彼女の目的は、彼氏の愚痴を僕にぶちまけることである。


「ねえ聞いてよ、玲奈ちゃんね、彼にその一人称やめなさいって言われたの。可哀想でしょ?」


と言われ、その彼氏の言っていることは至極当然のことであり、できれば今も止めてほしいと思っているが、興味のない女に無駄な説得でもして地雷女の本領を発揮されてはかなわないので、彼女の意見を真剣に聞くふりをして


「うん、そうだね」「わかるわかる」


を繰り返し、脳内ではチーズケーキの美味しさについて分析していた。今のところ、本日の収穫は面倒な女の処理の仕方とチーズケーキの美味しさである。




彼女の話はノンストップで五時間という電化製品に対する熱烈なクレーマー以上の粘りを見せた。さすがに僕の得意技にもボロが出るか、というときにやっと彼女の話は終わった。要点をまとめると、デート代を全額奢るのは男の役目だとか、彼氏のセックスが下手だとか、自分を特別扱いして欲しいなどの極めてどうでもいい話であった。そんなに愚痴が出てくるのならその男と別れればいいのに、と彼女のいない僕は思ったが、誰もが自分の正義を持っていて、彼女には彼氏と別れない深い理由があるのだと自分に言い聞かせ、納得させた。


カフェの窓から外に目をやると、すっかり暗くなっていた。


「外、暗くなったね」


と彼女に遠回しに帰りたい旨を伝えたが、彼女は不思議そうな顔で首を傾げた。直接、「もう帰ろう」と伝えるのはなんだか負けたような気がして、彼女がお手洗いに行っている間にお会計を済ませ、帰り支度を始めるとようやく察したのか彼女も支度を始めた。




 外にでると、仕事終わりのサラリーマンが大通りの交差点に群がっていた。彼らのストレスの溜まった表情が僕の今の表情と全く同じだったため、僕は意味のある偶然の一致、心理的共鳴を感じ、早く家に帰りたいという気持ちがより強固なものになった。


しかし、その後彼女が発した言葉に僕は愕然とした。

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