純愛
のた
第一章 十八番
二月の寒い朝、カーテンを開けると、部屋の中にすっと太陽の光が差し込む。外には淡い空模様が広がっている。窓を少し開けると、冬の冷たく、乾燥した空気が僕の喉に突き刺さる。
珍しく早起きした僕は、電子ケトルのスイッチを押し、煙草とライターを持って部屋の外に出る。煙草を咥え、朝の冷たい空気を吸い込みながら煙草に火をつける。煙草を吸っている時間は爪や髪に含まれるケラチンと煙草の混じったような独特の匂いが残らなければ嫌いじゃない。煙草の煙が朝焼けの光と調和し、ぼんやりとした輪郭を波のように漂わせながら消えていく。僕の感性は、この光景を『美しい』と捉え、煙草を吸い終わってからも僕は現実に引き戻されまいと感傷的になろうとした。しかし、じっとしたまま余韻に浸れるほど冬の朝の気温は僕を甘やかしてはくれなかった。
夢から現実に引き戻されるように部屋に戻る。さっきまでそこにいた人間の体温を部屋全体から幽かに感じ、自分から発された温もりだと解かっていながらも、まるで自分の体温ではないように感じる。気色が悪い。
洗面所へ向かい、手についた煙草の匂いを石鹸で落とし、冷たい水で顔を洗っていると、意識がはっきりしてくる。鏡には無精髭、寝癖で髪がボサボサの男が映っている。ふと、テレビをつけると殺人事件に関するニュースが報道されていた。明日は僕の番かもしれないなんて自分のことを案ずるのに必死で、殺害された人がかわいそうだなんて考える余裕はなかった。自分で客観的に僕の生活を見ても、僕が生に執着するほどまともな人生を歩んでいるとは到底思えないが、生にしがみつくことは決して悪いことではないと自らに暗示をかけ、死に怯え、生にしがみつくということは、僕が生きることに意味を見出しているのだと正当化した。
僕は白い湯気の出ている電子ケトルからお気に入りのカップに白湯を注ぎ、慣れた手つきでSNSを確認する。ろくにメッセージなんて送られて来ないが、まれに送られてくる友人からのメッセージは溜めてしまう。誰も僕の返信を待っていないだとか、頻繁に返すと相手が迷惑かもしれないだとか、いつもメッセージを溜めてしまう理由をなんとなくつけていたが、メッセージを溜めるという行為はおそらく、社会的環境での人間関係に疲れている僕の無意識に行われるささやかな抵抗なのだろう。誰にも迷惑をかけず、誰にも気づかれずに日々の鬱憤を晴らすのは気分が良い。これは真意を晒すことなく、表面上の感情を取り繕うのが僕の得意技だからだろう。
今日は、興味のない女と会う予定がある。心底どうでもいいし、その女に関して何も知りたいことはないのだ。しかし、人間関係にうんざりしている僕でもなぜか「女」と会っている時間は不快ではない。オスの性だろうか。特に顔立ちが整っているわけでもないし、紳士的でもない僕だが、何故か女には困らない。僕に近づいてくる女はもれなく全員見る目がなく、特異な感性をお持ちなのだと心の底から思っている。
しばらく何も考えずにぼけーっとした後、髭を剃り、白飯、みそ汁、冷凍食品のおかずで構成された質素な朝食を済ませ、出掛ける準備をする。下北沢のお店で買った古着に身を包み、もう顔も覚えていない女に貰ったやけに高い香水を振りまく。特にこれといった趣味のない僕にとって古着と香水は唯一の娯楽と言っていいだろう。どちらも自分ではない誰かになったような気分になれるところに惹かれるのだ。女がするメイクもそんな感じなのではないかと勝手に意味のない想像をする。
しばしば、僕の数少ない友人に「余計なことを考えすぎるその性格は直したほうが良いよ」などとお説教を受ける。別に余計なことを考えたい訳では決してないのだが、色々と考えだすとああでもない、こうでもないと思案し始めてしまうのである。そんなことを考えていたら家を出発する時間を少し過ぎてしまった。僕が余計なことを考えているときは大抵良いことは起こらない。
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