お風呂から上がってくると、佳織はすでに自分の部屋に引っ込んでいた。隙あらばリビングでだらだらしている佳織がここにいないということは、もう眠ってしまったのだろう。採点、大変みたいだったし私の相談に乗ってくれただけでも、ないところから相当頑張って気力を振り絞ってくれたのだろう。

 なんだか嬉しくなってしまって、すでに夢の中の世界に行っているであろう佳織の部屋に向かって、二礼二拍手一拝をした。お賽銭は投げなかったけど。


 こうやって佳織が先に寝てしまった日には、自分の部屋から毛布を持ってきてリビングで寝るのが、私は結構好きだった。

 小さなソファから足を少しはみ出させながら、上に毛布を掛けて眠ると、次の日には身体のあちこちが悲鳴を上げる。だけど、なんだか二人の生活の跡が残っている部屋で眠ると、一緒に積み上げてきた「これまで」があちらこちらに漂っていて、安心するのだ。


 少し不快なくらいに深く沈み込むソファに背中を預けて、電気を消す。薄暗がりの中でも、机の上に積み上げられたままの答案用紙の束が影となって映った。

 換気扇の風が吹いたのか、ゴミ箱の方でビニール袋のこすれるくしゃりという音が鳴った。


 一つ寝返りを打って目を瞑ると、さっきの佳織の言葉が耳によみがえってきた。


『私に向けて花言葉を作ってよ』


 脳裡に浮かんだのは、一つの株から咲いた、色とりどりの小さな花。地面の上で緑の波を広げるように育つクリーピングタイプのそれは、根っこというただ一点を源として、だんだんとカラフルな花を広げていく。


 これを、佳織に贈るならば。


 改めてなにか伝えることとなると、なんだか難しかった。言葉にしなくとも伝わるなにかを共有して、私たちはずっとここまでやってきた。


 私のことをわかってくれてありがとう? それもなんだか違う。レインウェアをダサいと一蹴するように、全然感性が合わないこともあるし、それで本気で腹を立てることもある。

 だから私たちの「分かり合っている」というのは、隅々まで分かり合えるところと分かり合えないところが存在することが分かっているということなのだ。


 そんな佳織に今更伝えられることが、なにかあるだろうか。


 寝返りを、もうひとつ。


 窓から差し込む何千光年も離れた星からの光を受けながら、壁掛け時計はかちこちと時を刻む。私や佳織、第九すらもが産まれるずっと前に創られた光を受けて。


 縦に長くて不格好な『圭』と横に長くて不格好な『佳』を、私たちは重ねて生きている。

 そんな相手に対して、改めて伝えられることはあるだろうか。全部を伝えるにはあまりに膨大で、一部を伝えるにはあまりにこんがらがっているこの気持ちを、たった一言に詰め込むためには。

 贈る存在である私から、贈られる存在である佳織に伝えられるものは――


 そう考えたときに、不意に頭の中に光が浮かんできた。

 いや。正確には、ほのかに辺りを照らしている光の存在に気付いたと言うべきだろうか。私が私を認識したときにはすでに心の中に灯っていた光。その伝え方を、やっと、ひとつだけ思いついた。


 ほんのりと薄青く光る部屋の中、机の上に転がっていた佳織の「ペンの抜け殻」を拾い上げた。私に押し付けてきた、あらかじめ二枚用意されていた模範解答。その裏に大きく、ペンを走らせた。


 生まれたのはパサパサとかすれた文字だったけれど、なんだかそれが反対に、二人の間に流れた長い時間を表しているようにも見えた。

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