第3話 すれ違いと抱擁
気配を感じて目を開けると、ヒトが私の背嚢の中身を物色しているのが見えた。
「なにをしてる!」
立ち上がって、ヒトに向かって飛びかかろうとするが、できなかった。そうしてやっと、私は自分が木を背もたれにするような格好で、木に縛り付けられていることに気が付いた。どうにか抜け出そうとして身を捩ってみるが、私を縛り付けている赤い組紐はびくともしない。
ヒトは背嚢の中から水筒を取り出した。アオスイギュウの革を使った手のかかった品。あれは私が母にあつらえて貰ったものだ。ヒトは水筒を両手で持ち、手の中で回転させながら凝視する。そのあと、思いついたように水筒を揺らし、キクラゲに似た耳を近づけた。
「やめろ! お前が触っていいものじゃない!」
私は叫んだ。私の足は縛り付けられている身体や腕と違って、ある程度自由になっている。何とか立ち上がれないか、思いきり両足に力を入れた。
「ふんーぬっ」
だが、できない。ただ、足をばたつかせるだけになってしまった。しかし、注意を引かれたのか、ヒトが水筒を持ったままこちらに近づいてきた。
「かえせっ!」
ヒトはしゃがみこみ、こちらの顔を覗いてきた。もう少しこちらに寄って来れば、その低い鼻に噛みついてやるのに。
「…………」
ヒトが口を動かして、なにかもごもごと声を出した。その顔をよく見ると、眉を寄せ、少し困った顔をしていた。そして、細い眉の下には、青い瞳があった。まるで真夏の空のように澄んでいる。その碧眼には明らかに知性の光が宿っていた。
背筋に怖気が走る。私は急に恐ろしくなった。言葉。そう、さっきのは言葉だ。呻き声ではない。こいつは、私になにか伝えようとしているのだ。こいつには私たちと同じような知性がある。
愚かしくも、世界ごと自分たちを焼き尽くした獣だと聞いていたから、てっきりヒトとは、もっと化け物じみた、破壊と戦いのことしか考えられない生き物だとばかり思っていた。
だが違う。私を縛るこの頑丈な組紐も、素材のわからない服も、どこかで拾ってきたわけではなく、きっとヒトがつくったものなのだ。こいつらは文明を持っている。雲より高い塔に住んでいたというのも比喩ではないのかもしれない。
私は背筋に氷柱を入れられ、肝まで冷えていくように感じた。
ヒトは急に黙った私を不思議そうに見つめ、私の足の上に水筒を置く。しばらくしたあと、合点がいったように丸く目を開き、腰のベルトにかけてあった黒い円筒状のものを引き出して、手に持った。
その円筒の横に付いている突起を押すと、ぱちっと音がして円筒の上部の一部が変形した。変形した部分は鍋の注ぎ口のようになっている。
ヒトは筒を私の顔の前に注ぎ口がくるように突き出してきた。
「なに……?」
意図がわからない。私が困惑していると、ヒトは腕を引っ込め、今度は筒を自分の口元に持っていった。筒が傾けられると、ヒトの喉が動く。なにかを飲んでいるようだ。
ヒトが筒を傾けるのをやめると、こちらを向き、笑顔を見せた。
そしてまた、私の方に筒を向ける。その中身を飲めと言っているのだろうか。毒かもしれないと考えたが、こいつも飲んでいるし、私を殺したいなら他の楽な方法もあるはずだと考え直す。
冷えた頭で考えてみると、こいつはそもそもこちらに対して敵意がないようにも思える。それに、散々走り回り、戦闘もしたあとの喉の渇きは耐え難かった。
私が口を開けると、ヒトが筒の注ぎ口を寄せてくる。筒がゆっくりと傾けられ、中の液体が口の中に流れ込んできた。
甘い。私が今まで口にしてきたなによりも甘かった。今まで口にしたことのない不思議な風味があるが、美味い。思わず、喉を鳴らして飲んでしまう。
筒の傾きが大きくなり、液体が口に流れ込んでくる量が必要以上に多くなる。
「んむっ、げほっげほっ」
口に入ってくる液体のあまりの多さにむせてしまう。吐き出してしまった液体が口からこぼれて、私の赤土色のチュニックを濡らした。
ヒトはすぐに筒を引っ込め、胸のポケットから一枚の布を取り出して、私の口元を拭った。その仕草はどことなく、幼い日にスープを拭ってくれた母の姿を思い出させる。
私の母。私に残された唯一の家族。母は今どうしているのか。ふと気になる。きっと、私のことを案じ、それでも無事に成人の試練を乗り越えて帰って来ることを信じて、家で待っていることだろう。
今度は急に自分のことが情けなく思えてきた。獲物を仕留め損ね、恥を捨てて逃げたものの逃げ切れず、戦いに負け、捕えられ、今はこうして情けまでかけられている。
「いっそ、殺してくれれば……」
涙が自分の頬を流れていくのを感じた。歪んだ視界に、ヒトの困惑した表情が見える。
捕えた相手が急に騒いだり、黙ったり、泣きだしたら、誰だって困る。これ以上恥をさらすまい。そう思って、なんとか涙を止めようとは思うものの、上手くいかない。自分の未熟さを、まざまざと見せつけられているようだ。落ち着いたヒトの様子が、私をよりみじめな気持ちにさせる。
ヒトが立ち上がり、私の後方へと消えた。なにやらごそごそと音がする。なにをしているのだろう、と思っていると、私を木に縛っていた組紐が力を失った。
組紐をヒトがほどいたのだ。意外な行動に驚きつつも、私は立ち上がる。自由になって初めて、自分の身体のさまざまな個所が痛んでいることに気が付く。組紐に圧迫されていた腕や胴も痛むが、一番痛むのはヒトに捻り上げられた右手首だ。
右手首を左手で擦っていると、木の裏側に行っていたヒトが私の目の前に立っているのに気付く。どことなく得意げなようすだ。
「ありがとう……」
もはや、なにに対しての礼だかわからないが、私は一応そう言って耳を伏せた。
それを見たヒトは、ここ一番の笑みを見せ、右手を差し出してきた。またも意図がくみ取れない。
困った私がヒトの白いつるつるとした手先を見ていると、ヒトがおもむろにこちらへ近づき、私のことを抱きしめた。
「わっ」
私はいきなりのことに驚き、声を出してしまう。
しかし、これでヒトの意図がなんとなくわかった。こちらに敵意がないことを示したかったのだろう。ならば、とこちらもおずおずとヒトの背面に手を回した。ヒトの身体は意外にも柔らかく、甘く良いにおいがした。
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