第42話

 バスを待つ有希也に風が吹き付け、左のひざが疼いた。そんな気がしただけで、ただの錯覚かもしれない。


 障害者は国から手厚く保護され、動く歩道の上で生きているぐらいに思っていた。


 津原保志は置かれた境遇をどれだけ理解できていたのだろうか。自分から声を上げなければ誰も手を差し伸べてくれない。引き出しに林檎が入っていても知らなければないのと同じだ。


 バスが到着し、整理券を取って乗車した。料金は後払い。このバスも障害者手帳を見せれば運賃が割引になるはずだが、取得しようにも取るべき手続きは通常の交付か再交付か。視界の悪さは前に進む意志まで暗ませる。


 おぼろげながら理解できたのは、津原保志は手当を貰えない現実だった。


―障害者は国から金が支給される―


 誰に聞いたわけでもないのにそう思い込んでいた。成人を迎えたらポストに投函される選挙の投票用紙のように。


 行政には限られた予算があり、湯水のようには使えない。


 この足では就ける仕事は限られるけれど、それでも働く事はできるのだし今までも働いてきたのだからそのうえ手当が貰えたらそれはそれで不公平で、辛い思いをしているのは障害者だけではない。


 障害があっても働けるなら自分で稼げということか。至極真っ当な理屈で悲観する必要はどこにもない。むしろ胸の奥から矜持が込み上げてくるようだった。


 だけどもし、幼い頃からこの身体だったとしてもそう思えただろうか。毎日不自由な足で登校していたら。クラスメイトが校庭で遊び回るのを教室から眺めていたら。辛い事故やリハビリを経験していたら。


 心のどこかでまだ、かりそめの障害と捉えているからこその境地なのかも知れなかった。


 バスの横を喧しいエンジン音を響かせてバイクが通り過ぎて行った。また左ひざが疼いた、気がした。有希也はもう2度とバイクに乗ることは出来ない。


 そう考えてから、待てよ、と窓外を見下ろした。近い将来自動車の自動運転時代が到来する。そうすれば有希也も車を運転することが出来る―運転と言っていいか分からないが―。いつの日かバイクも自動運転になれば、また乗ることが出来るかもしれない。


 技術の進化が待ち遠しいが、自動運転が実用化されれば交通事故がぐっと減るはず。交通事故で障害を負う人も少なくなるが、同時に障害者スポーツの競技人口も減り、パラリンピックの衰退を招くかもしれない。再生医療の進歩もその傾向に拍車をかけるだろう。


 それは否定すべきではなく、歓迎すべき未来だ。



 有希也は駅前でバスを降りた。遅い昼食をハンバーガーで済ませ、向かった先はスポーツ用品店だった。左足が動かせなければ右足でカバーすればいい。幸い身体は替わっても知識は頭の中にインプットされている。トレーニングのイメージは出来ていた。


 ジョギングのように両足を使うことが出来ない有希也が選んだのはチューブトレーニングだった。ゴムチューブを使ったトレーニングは、ダンベルなどと比べて安全で場所もとらないからこの身体には打って付け。


 5段階の強度に分かれたトレーニング用ゴムチューブの下から2番目のものを選ぶ。無理をして怪我をしては元も子もないから最初はこのぐらいでいい。1本千円ほどで財布にも優しかった。

 忍者が麻の苗木を飛び越えて跳躍力を鍛えるように徐々に強度を上げていく。時間はある。まずはこのチューブがちぎれるまで使い込んでやる。



 新しい入浴剤を買うと風呂が待ち遠しくなるように、久しぶりのトレーニングにうずうずして、帰りのバスの中で有希也は何度も買い物袋を覗いた。顔を上げると、眉をひそめたおじさんがこっちを見ていた。バスに酔ったと思われたらしい。


 アパートに着くとすぐに開封した。筋肉隆々の外国人がポーズを決めたパッケージを広げると裏面が取扱説明書になっていて、写真付きで使用方法が提示されている。ロープの端を結んで輪を作り、下半身を鍛える時は一方を椅子の脚などに、もう一方を自分の足に掛ける。すね、足首、つま先など、部位を変えることで様々な筋肉を鍛えることができるほか、輪を2重にしたり輪を小さく結んだりすることで強度を上げられる。この方法はラグビー部時代、自主トレに取り入れていて、勝手は知ったこと。


 下半身トレーニングの代表はスクワットだが、有希也はこれに懐疑的で、理由は膝や腰を痛めやすいから。正しくやれば効果的と分かっていても、膝は一度壊すと完治は難しく、一生付き合わなければならなくなる危険がある。下半身は鍛えるのと同時に怪我の回避が重要。片足なら尚更で、その点でもチューブトレーニングは最適と言える。


 いきなり激しくする必要はない。何回やったかより何日続けたか。筋肉をつけるには時間がかかり、目一杯頑張ったところで続けなければ意味がない。ダイエットだって1日絶食しただけではすぐにもとに戻ってしまう。

 アスリートを目指す訳ではないからくたくたになるまでやる必要はなく、怪我を防ぐ意味でも明日のために余力を残すぐらいで丁度いい。その代わりさぼらずに続ける。


 右足を鍛えるにも左足では立てず、横になるか座るかの有希也が選んだメニューは2つ。1つは、仰向けに寝た状態で輪にしたチューブの一方を足の裏にかけ、反対を手に持って、膝の曲げ伸ばしを繰り返すレッグプレス。もう1つは、椅子に座って椅子の足と自分の足首にチューブをかけて曲げ伸ばしを繰り返すレッグエクステンション。それぞれ10回を3セット行う。少ないように思えても、持久力ではなく筋力アップを目的とする場合は、この程度の回数をこなせる負荷をかけるのが効果的だと、高校時代にトレーニング読本で見て以来この数を目安にしている。


 このほかに腕立て伏せと腹筋、背筋にも取り組んだ。チューブを使わない、一般的に行われているもので、鶏ガラのように痩せた身体を鍛えてやる、と息巻いたものの腕立て伏せは3回しかできなかった。左足が床についた状態でたった3回とは我ながら情けないが、筋トレは回数を増やせばいいというものでもない。回数を意識すると知らないうちに楽なフォームになって、効果が薄れてしまうのはままあること。正しいフォームでしっかり筋肉に負荷をかけることが重要で、有希也は胸が床につくまで伏せるから、慣れていなければすぐにへばっても仕方がない。


 この日から、有希也は毎日欠かさず、決めたメニューを正しいフォームを意識して消化した。


 一日二日の筋肉痛のあと、一週間十日は音沙汰ないのが筋肉と言うもの。切りすぎてしまった髪の毛と同じで、気にしているうちはさして変わらず、忘れた頃に馴染んでいる。2か月ほど続けてようやく腿やふくらはぎが引き締まり、重心に安定感が出て、鶏ガラのような上半身にも凹凸が出来てきた。


 リハビリがそうであるように、運動は精神面にも良薬で、適度に汗をかくとストレス発散になり、メンタルバランスの安定をもたらしてくれる。


 津原保志も簡単な運動だけでもすれば違っていただろうに。


 しかしそれは、スポーツに打ち込んだからこそ分かることで、津原にはその経験が得られていなかった。

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