第40話

 翌日、いつも通り朝の7時に目が覚めた。ただしいつもと違って身体が重い。布団に入った記憶が不明なほどぐっすり眠ったのに、目を閉じると耳の奥からズーンと重低音が突き上げてきそうだった。津原が鈍らせた体力のツケを払わされ、昨日の労働を口実にしばらく布団に入ったままでいた。


 次の仕事は全くもって未定。今日の時点で決まっていないのだから次は早くても3、4日先、もっと先かもしれない。いつ入るのか、入ってくるのかさえ分からない。面接時にその条件を飲んだのだから仕方のないことで、希望は仕事ぶりを買ってくれた中山店長。佐藤の耳に届いて次の仕事を紹介してくれるのを待つほかないが、有希也の想いを屁とも思わぬように電話はピクリとも動かない。

 布団から這い出て受話器を耳に当ててみる。幸か不幸か、しっかり通じていた。


 マーガリンを塗ったバターロールとティーバックの紅茶で朝食を済ませ、重い身体に鞭打つように冷たい水で顔を洗った。鏡の中の顔に疲労は浮かんでいない。1日働いた程度で顔に出たら、町は死に顔であふれてしまう。面の皮は厚くできているものだ。

 仕事ではないからひげは剃らず、黒のスウェットシャツとベージュのチノパンに着替えて部屋を出た。


「あら、おはよう」

 田中がホウキを掃いていた手を止めた。田中は「あら」が「おはよう」の枕詞になっている。


 有希也は昨日とは打って変わって小声で返事をした。大きな声で話したくても、アパートでは津原保志を演じなければならない。


「仕事どうだった?」

 その問い掛けの成分は好奇心ではなかった。心配とも違う、温かいものが含まれている。


「問題なく、上手くやれました」


「よかったじゃない。今日も仕事?」

 そういって全身を一瞥した。服装で行く先を推量したのか。小奇麗な身なりを見慣れないせいか。


「今日はちょっと出掛けるだけです」


「次はもう決まってるの?」


「まだです。僕はもっと働きたいんですけど。すみません」

 レギュラーワークとは異なる派遣アルバイトのシステムは教えてある。謝ったのは家賃の滞納に対してだ。


「焦らなくていいわよ。歩き始めたんだから、一歩一歩前進していけばいいの。これからもっと寒くなるから風邪引かないようにね。大丈夫?それで寒くない?」

 そう言ってもう一度全身を見た。身体を気遣ってくれてのことだと知った。


「ちょっと出かけるだけなので」

 たしかにスウェット一枚では寂しいが、日が暮れる前に帰ってくる予定。


「そうなの。じゃ、気を付けて、いってらっしゃい」

 手を振って見送ってくれた。


 田中の言った通り、天気予報を見ずともわかるほど昨日より気温が低かった。スウェットの下に着たかったボタンシャツは昨日法被の下に着た。汗をかいていなくても洗濯せずに着る気にはならない。

 湿度も低いのは肌の乾燥が教えてくれる。安物のマフラーを巻いたら首の回りが痒くなりそう。

 近々コートを買いにあの店へ行こう。ボタンシャツももう一枚買おうかな。



「××図書館前」という停留所で有希也はバスを降りた。


 いかにも年季の入った公共施設といった、ところどころに黒ずみの浮かぶ白塗りの外観。平日の午前中のせいか、館内には冷ややかな空気が流れている。都内の図書館ならそれなりに賑わう時間でも、ここは人影がまばら。新聞をめくる音が時報のように規則性を帯びて聴こえた。


 図書館にBGMが流れているはずもなく、左足が床を擦る音が耳に届く。本が置かれているだけなのに、レイアウトは図書館ごとにまちまちで、本探しも一筋縄ではいかない。売り上げ第一で統一されたコンビニと違って使い勝手はよくないけれど、そこが図書館の魅力で、迷うことに意味がある。


 天井から吊るされた『スポーツ』のプレートを見付けて歩み寄った。プレートが妙にきれいなのは、手を触れないからか磨かれているせいか。小説の棚が著者の頭文字で分類されているのと同様に『スポーツ』の棚は『野球』や『サッカー』など競技ごとに分かれている。


 田舎の図書館だから所蔵数は少ないと思いきや『ラグビー』も10冊ほどあって、高校時代に読んだ元日本代表監督の指導論もあった。違う。地元の図書館で借りたのに練習やらテストやらで忙しくて、結局読まずに返したんだった。

 手に取ったそれは背表紙がうっすら色焼けしていて、あの時の本そのもののように手に馴染んだ。こうして再会したのも何かの縁、読んでみたら面白い発見があるかもしれない。反対にあの時に読んでおけばって悔いが込み上げるかも。どちらにしても今日の目的はこれではないから、今日も読まずに棚に戻した。


 『陸上競技』のあとに『パラリンピック』を見つけた。この並びに疑問は残るものの、15冊ほどのパラリンピック関連本が有希也を迎えてくれた。これがここへ来た目的だった。


 スポーツは見るのもやるのも好きな有希也も、障害者スポーツには見向きもしなかった。興味を持つ持たない以前に、まるで透明な床を隔てたパラレルワールドようで、意識の外にあった。それが今は自分がその世界の住人であることを、昨日休憩室で見たブラインドサッカーに気づかされた。


 有希也はそれをネガティブにとらえなかった。ブラインドサッカーから大きな刺激を受けたのだが、果たしてこれは普遍的な価値観なのだろうか。自分が障害者であることを受け止められない人もいるのではないか。現役の、あるいは引退した選手はどうのように向き合っているのだろう。障害者スポーツの現実をもっと知りたくなった。

 

 『パラリンピック』の中から目に付いた本を3冊ピックアップし、椅子に座ろうと視線を移すと図書館員と目があったが、すぐに逸らされた。足の不自由な男がパラリンピック本を手にした日食みたいな珍事を目に焼き付けた、のではなく困ることはないか見守ってくれていたのだろう。意地悪な目ではなかった。


 いずれも選手の自伝本で、馴染みのない名前だったものの3人ともパラリンピック出場経験者、パラリンピアンだった。返却する手間がいらないようここで読了するために朝一番で来た有希也は、そばの椅子に腰かけ、さっそく読書に耽った。


 これまでに読んだアスリートの自伝と、パラリンピアンのそれは若干趣を異にしていた。教育的な観点から子どもの読者を意識しているのか、文章がシンプルで読みやすい。あっという間に読み終わり、2冊追加して計5人のパラリンピアンの人生に触れた。それぞれ障害は異なるが、いくつか共通点を見つけた。


 まず5人とも後天性の障害者だった。それもある程度の年齢、10代もしくは20代の前半に障害を負っている。障害者アスリートに、先天性の障害者の印象を持っていたが、それは正しくないようだ。


 事故や病気で障害を負い、リハビリの一環で障害者スポーツと出会っている。このリハビリは精神的な効果も大きく、自分は障害者になってしまった、という絶望感に苛まれている時に同じ境遇の人と出会い、スポーツに打ち込む姿に感動して障害を受け入れられるようになる。自分は一人じゃないと孤独感からも抜け出せ、新たな可能性との出会いによって生き甲斐も見つけられる。


 もともとスポーツをしていた選手も多く、チアリーディングから走り幅跳び、ハンドボールから走り高跳び、サッカーから車いすバスケットなど、別の競技に転向しても運動神経や運動経験が役に立つようで、競技を初めてすぐに日本記録を樹立した選手もいた。


 温泉に入ると壁に効能が貼られているけれど、スポーツには人を癒し、希望までもたらす効能がある。漠然と認識していたことが、本の中に具体例として提示されていた。


 そしてそれはまさに今の自分に当てはまることでもあった。


 自分でやるとしたら何だろう。走れないから陸上競技は厳しい。車いす競技も当てはまらない。水泳はどうか。水泳なら該当するクラスがあるかもしれない。


 しかし有希也はこの選手たちのように人生を語ることが出来なかった。それは子供の頃の記憶―事故も含めて―が欠けているだけではない。津原保志は人を殺している。どこで事件への関与が浮上するかわからず、人目を引くような真似はできない。そして有希也の場合、身体が替わってしまっているからラグビーの経験は役に立たなかった。


 本を棚に戻し、有希也は再び館内を歩いた。窓から差し込む陽が強くなっている。人が増えたせいで耳に届く擦り足の音は来た時よりも小さくなっていた。

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