第36話
中山の背中がドアの外に消えると、有希也は法被に袖を通した。襟と袖口に赤いラインが入り、背中に大きな『福』の字が印刷された青い法被だった。
肩から胸元かけて増した嵩が、仕事を実感させた。これから先は賃金が発生する。お客さんから見たらあくまでも店員の一人で、粗相をすれば店の信用にかかわる。壁にかかった姿見の中の津原は、法被姿が案外似合っていて、ねじり鉢巻きでもしたら何かのイベントに出張した寿司職人に見えそうだ。
更衣室のドアが開いて、眼鏡をかけた男が入ってきた。年齢は二十代後半か、30過ぎているかもしれない。津原と同じぐらいの背丈でも丸顔のせいで余計に小柄に見える。詰襟が似合いそうな、生徒会の役員でもしていそうなその男は同じ法被を手にしていた。
「おはようございます」
テラスコーポレーションでの仕事が初めての有希也は自分から挨拶する。
「テラスの人ですね」
男が言った。見た目と釣り合わない、鼻にかかったやや高めのわざとらしい美声だった。
「津原です。よろしくお願いします」
「ああ、津原さんですか。宮野です。よろしく」
宮野の視線が足元に向いた。
派遣先に社員は同行しない。複数人で業務にあたる場合、年長者や業務経験者がリーダー役を務めることがあるが、この日一緒に仕事をする3人はいずれもガラポン抽選会の経験者で、中でも宮野が一番のベテランだと聞かされていた。
「佐藤さんに、分からないことがあったら宮野さんに訊けって言われました」
「長くやってるだけだから、そんなに頼られても困るけどね。テラスの仕事自体今日が初めてなんだよね?」
事前に事情を聞かされたらしい。見た目と違って頼れる人なのだろうか。
「お客さん結構たくさん来るんで、その辺はちょっと大変かな。でも力仕事とかはないし、福引きコーナーにいるだけだから大丈夫だと思うけど」
余裕を浮かべた顔の、太めの眉が眼鏡の縁を上下していた。
残りの二人も到着した。一人は180センチ近い長身で有希也と同い年ぐらい。もう一人は二十歳前後の細身で、細い垂れ目に広角の上がった顔はニヤケて見える。楽しいことがあったわけではなく、普段からこの顔のようだ。
全員男でいずれも真面目でおとなしそう。以前働いていた派遣もコミュニケーション能力が低そうなタイプが多かった。登録制の仕事は人間関係が希薄で、人付き合いが苦手な人でも長続きできたりする。有希也が以前の派遣仕事で連絡先を交換したのは一人だけ、仕事の情報を何度かやり取りしただけで、それ以外での交流は一切なかった。今日の3人も面識はなさそうだが、あるけど親しくないだけかもしれない。
コンビニ店員がバーコードを読み取るように、3人とも至って事務的に法被を羽織った。法被を恥ずかしがる年でもないけれど、派遣仕事にもガラポン抽選会にも慣れているようだ。
「それでは4人揃ったんでそろそろ作業に向かいますけど、その前に」
宮野が更衣室のドアの前で振り返った。想像していた通り、仕切りたがるタイプようだが、学生時代から、というよりこの仕事を長く続けているうちに自信を付けてそうなったように見えた。
「聞いてるかもしれませんけど、津原くんはちょっと足が悪いんですよね?」
視線を向けられ、有希也は頷いた。
「今日の作業は特段問題ないと思いますけど、もし辛くなったら遠慮なく休んでもらってとのことです。社員さんに言われました。そうなった時は3人での作業になるので少ししんどいかもしれないけど、ガラポン抽選会の経験者ってことですから、大丈夫ですよね?」
その問いに他の二人が頷いた。険がある口ぶりでも、実際に迷惑をかけることになるかもしれないから飲み込むしかない。
「それじゃあ行きますか」
宮野を先頭に更衣室を出た。有希也の後ろから背の高い松井がドアを押さえてくれた。礼を言ったら得意気な顔で頷いた。
準備が出来たことを伝え、店長に先導されて従業員用のエレベーターに乗って福引き会場へ向かう。
「移動の時はこのエレベーターを使ってください。店内のエスカレーターはお客様用なので我々は使用禁止です」
宮野は最後に「念のため」と言い添えた。中山店長が口元に笑みが浮かべた。
福引き会場は、地下1階にあるイートインスペースを縮小して設けられた特設コーナーで、3つ並べられた長テーブルの上に抽選機がセットしてある。売り場に向けたスピーカーも置かれていた。
店長が本日の業務について説明を始めた。有希也がメモ帳を構えると、隣で宮野が微笑した。
抽選会スタッフは4つのポジションを担当する。マイクを使って客に抽選会の開催を伝える店内アナウンス、合計金額で抽選の回数を確認するレシートチェック、客が回す抽選機の操作補助、抽選結果を受けての景品の進呈。
レシートは一昨日、昨日、今日の3日間が対象で、買い物金額合計三千円ごとに1回抽選出来る。賞品は1等が五千円分、2等が三千円分、3等が千円分のこの店で使える買い物券。外れても参加賞のトイレットぺーパー1ロールが進呈される。
「それでは間もなく開店となりますので、後はよろしくお願いします」
時計を見てそう言うと有希也の側に寄った。
「一応椅子を用意しておいたから、疲れたら遠慮なく座ってくれていいよ」
長テーブルにパイプ椅子が1つだけ収まっていた。有希也のためもあるが、一番は転倒して客に危害をを加える事態を避けたいのだろう。風邪の患者に、他人に移さないようマスクを勧めるのと同じだ。
「普段からずっとこの足で生活しているので大丈夫だと思いますけど、どうしても辛くなったら座らせてもらいます。間違ってもお客様に迷惑をかけることがないよう注意します」
「よろしく。じゃ、頑張ってね」
店長は満足そうに手のひらを向けてその場を離れた。
有希也は目の前のテーブルにそっと手を置き、体重をかけてみた。頑丈そうな見かけ通りびくともしない。有希也にも不安はある。長時間右足だけでの立ちっぱなしは疲れる。何かの拍子で足がふらついても、その場に崩れるか、テーブルにもたれかかるかして、間違ってもお客さんを巻き込んではならないと肝に命じた。
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